13 泡沫のように
「お嬢様は、本当にお馬鹿ですのう」
ひょっひょと笑うのは爺である。いやそうだろうけど、そうかも知れないけど!!
「……」
もはや何も言えずに私は黙って紅茶を啜った。
屋敷の部屋の一室でアルクトスは休んでいる。傷口が熱を持つかも知れないので、しばし安静にするようにと医者からは言われている。背中に裂傷ができたが、頑丈な体のおかげで命に別状はないらしい。私も頬にかすり傷をおったが、もの凄くしみる薬をつけられたくらいだった。ちょっと泣いた。
屋敷には、連絡を受けた爺が駆けつけ、今ひたすらに私は自室でお説教をされている。
「爺がその場にいたらショック死しますわい。目の前でお嬢様が車に轢かれる姿など、見たくはないですからのう」
「……悪かったわよ」
「爺に謝られても致し方ありませんなぁ。やはり爺がお側にいたらお嬢様を庇うでしょうが、爺だったら死んでますのう」
「……」
これは一日中、いやこの先三年は言い続けられるだろうことは明らかだった。
「ほれ、お嬢様。ちゃんと謝ってらっしゃい」
「アル……怒ってる、よね?」
「今まで見たことないほど怒ってますのう」
「……」
叔母に怒ったときとはまた違う感じで彼は激怒していた。今なら片手でリンゴを握り潰すだろうくらいに怒っていた。ごめんなさいという言葉を発することもできないほど、彼を覆う雰囲気はぴりぴりと尖っていた。
「どうして怒っているかは、分かりますな? お嬢様」
「……私が飛び出したからでしょ?」
「では、どうしてお嬢様が飛び出したから怒っているのかは?」
「……」
私はまた黙って紅茶を啜った。呆れ顔の爺は肩をすくめた。
「ほんとうにまぁ、しょうもないですなぁ。お嬢様は。肝心なところになると、見ぬ振りをなさる。目を閉じて耳を塞いで、その結果が孫のあの姿だと、お気づきになりませんかな?」
「……謝って、くる」
「ちゃんと、誠心誠意謝ってくるのですぞ。念の為申し上げますが詫び代わりにお嬢様の執事を辞めるようにアルクトスに言ったら今度こそ吹っ飛ばされますぞ」
「えっ、えっ」
吹っ飛ばされるイコール死ぬではなかろうか。青ざめる私に爺はやはり呆れ顔だ。
「ほらやっぱり、言おうとしてましたな。さすがの爺も、孫に主人殺しになってほしくはありませんからの。言っておいてよかったですわい」
やれやれと爺は首を振った。
何をもって謝罪と代えていいか分からず、酷い傷を負わせてしまって、それでもなお側にいてほしいなど言えるはずもない。言う資格もないのだ。
眉を下げる私に、爺はしっしと手をふった。
「ほらほら、さっさと行ってらっしゃい。先ほども言ったように変な謝罪は厳禁ですぞ。喰われますよ」
「く、喰わないよ! 多分!」
多分、という言葉が復活するくらいには、アルクトスを怒らせてしまった自覚がある私を、爺は追い出した。酷い爺である。
アルクトスが休んでいる部屋の前で、私はクマのようにうろうろと歩き回った。いや、もしかしたら眠っているかもしれないし。何を言っていいか分からないし。そんな考えが私に扉を叩かせなかった。
しかしノックもしていないというのに扉が開いた。自動扉か、と慌てて見るとクマが扉を開けていた。思わず閉めようとした私を「どうぞ」とクマは引き込んだ。喰われる。
彼の背に白い包帯が幾重にも巻かれているのを見て、私は彼にベッドにぜひどうぞと勧めたが、彼はベッド脇の椅子に座る。寝たらどうかな! 怒りが沈静化するまで寝たらどうかな!
「……お嬢様」
「……ハイ」
しかし噴火した彼の怒りは、寝たくらいで治まりそうにない気がしなくもなかった。彼の反対の椅子に座って私は素直に謝った。
「ごめんなさい……」
「何に、謝っていらっしゃるのですか」
「飛び出して、ごめんなさい」
私の言葉に、彼はがしがしと頭を掻いた。苛立っているのかぴりぴりとした空気が漂っていた。
「……私が怒っているのは、それではないのです。いえ、それもあるのですが、それではないのです。ずっと気になっていたことがありました。差し出がましいことを言う気もなく、指摘して良いものか判断もつかず、そのままずっと言えませんでした。それが原因だというのならばいわばこの状況は、私の落ち度なのです」
じっと、私は彼を見た。彼は私を見返して、真剣な瞳で問いかけた。
「お嬢様に、お聞きしたいことがあります」
「……ハイ」
返事は一回。私は小さく返事をした。何を聞かれるのだろう。飛び出した理由。先日泣いた理由。どう答えようかと頭を巡らす私に、彼は尋ねた。
「――何故、笑っていたのですか?」
「……え?」
予想外の質問に、私はぽかんと口を開けた。笑う? 誰が? いつ?
「……先日。メリーアン様がいらっしゃったときに、罵られているお嬢様の横顔がちらりと見えました。お嬢様は、微笑んでいらした」
「何を、言って……」
そんなこと、あるわけないじゃない、と笑みを作る私に彼の追求は厳しかった。
「以前、旦那様はメリーアン様が家に来られないようにと手を尽くそうとなさった。それを止めたのはお嬢様だと聞いております。何故ですか?」
「だ、だって。お祖父様もお祖母様も亡くなって。お父様の家族は叔母様くらいしかいないのに、絶縁なんてしたらお父様が一人になっちゃうもの」
「お嬢様がいらっしゃるじゃないですか」
「……っ」
視線が、狼狽えたように左右に揺れた。厳しい彼の視線は、緩むことがなかった。
「車に轢かれかけ、私がお嬢様を助けたときに、一瞬悲しそうな顔をされたのは自覚していらっしゃいますか? ホッとするならまだしも、無事を自覚して、何故」
私は思わず頬を押えた。出てたのか、顔に。そんな私を見て、彼は辛そうに言った。
「――死にたかったのですか? 自殺しようと、なさっていたのですか?」
「まさか!」
冗談ではない。自殺なんてする訳がない。自ら死を望んでよい訳がない。――でも。
「では、事故で、あるいは誰かを助けることでお嬢様が死ぬことを望んでいたのですか?」
「……」
私は口を噤んだ。死ぬことを、望んだとか、そんな訳がない。そんなはずがないではないか。
「どうして黙るのですか。ほんとうに、お嬢様はそれを」
「違うわ!」
それは違う。本当だ。だって、死のうなんて思っていない。
「違う、本当に違うのよ。私は、ただ」
私はただ。
「――目を、覚まそうとしていただけなの」
思わず口をついた私の言葉に、彼は虚をつかれたように目を丸くした。慎重に、私の言葉を考え込むようにして問いかけた。
「……起きて、らっしゃるではないですか。お嬢様は、今」
彼は当然の返答をした。何を言っているのかと、きっとそう思っているだろう。
「うん。起きて、るよね。……変な事言っちゃった。ごめん」
私は言ってしまった言葉への後悔を隠すように顔を伏せて笑った。先ほどの事故で混乱しているのだと言い訳を口にしようとすると、彼は私の肩を掴んだ。
「そうやって、笑って誤魔化さないでください。先ほど仰った言葉が、お嬢様の本音なのでしょう? 何から目を覚ましたいのですか? 何に苦しんでらっしゃるのですか?」
「違う、冗談、だから」
視線を逸らそうとする私の肩を、引き寄せるようにして彼は目の前に顔を寄せた。
「ほんの一欠片の本音すら漏らせないほど、このアルクトスは信用がなりませんか。人であれば、せめて亜人であれば信用してもらえましたか」
苦しげな彼の言葉に、私は首を振った。
「違う、信じてる。信じているよ。アルは私を食べない。アルは私を傷付けない。信じているよ」
だけどこんな本音。言える訳もない。いっそ彼が私の言葉など一笑してくれればいいのに。馬鹿なことを言っていると、呆れてくれるなら言えるのに。
そんな真剣な表情で、私を見るから、言えないのだ。
「シエーナ、様」
「ちがう」
違う。彼の問いかけに何度も私はそう答えた。
だって、違うもの。シエーナ・ガイダン侯爵令嬢。名を呼ばれる度に思った。私じゃない。
私は顔を伏せて首を振った。ただひたすらに。
「違う、シエーナなんて知らない」
「お嬢様……!?」
「知らないわ。だって、ここは夢だもの。私はずっと夢を見ているだけ」
私の呟きに、彼は言葉を失った。私が正気ではないのだと思ったのかもしれない。いっそ、そう思ってほしい。私の事を見限ってほしい。
「こんな世界知らない。私はシエーナなんて名前じゃないわ。魔法を使える世界なんて、日本のどこにもない。これは病院で、私が見ている夢なのよ」
8年前。ガイダン侯爵家のある部屋で。
赤子として目を覚ました瞬間、状況が理解が出来ずに私は混乱した。
……ここはどこ? 病院は? 私は、なんで赤ん坊になっているの?
入院していたはずだった。そして思い至ったのは、入院している私の見ている夢なんだと思った。
最初は楽しかった。魔法のある世界。父親。爺。貴族のお嬢様になれて、可愛いドレスに珍しいものばかり。
すくすくと成長して、色々なものに触れて。
そうして思った。
――何て、長い夢なんだろう。
不安になった。いつになったら目が覚めるんだろう。こんなに長く眠り続けていたら、眠っている私の体は大丈夫だろうか。
二年経ち、三年経ち、五年経っても目覚めなかった。不安がどんどん増していった。
早く目を、覚まさなければ。眠っても眠っても起きない。日本に戻れない。どうすればいいんだろう。
氷のように冷たい水を全身に被っても目は覚めない。爺にこっぴどく叱られた。
劇辛の調味料を口に含んでも目が覚めない。爺におもいっきり尻を叩かれた。
ああ、どうにかしなくては。もっと強い衝撃が必要なのか。
――もしかして、死ぬ程の衝撃を受けたら目が覚めるのではないか。
「……お嬢様」
私の肩を揺するアルクトスの目を見れずに、私は視線を手に向けた。
何の魔法も使えない欠陥品の手。叔母に無能だと嘲笑われても何てことはなかった。他人のことを言われているようで、笑みすら浮かんだ。だって目を覚ませば、そこは日本だもの。魔法なんて誰も使えない。
「早く、目を覚ましたいの。ただ、それだけだったの」
それがアルクトスにこんな傷をつけることになるだなんて、思いもしなかった。彼の体に巻かれた白い包帯が痛ましい。ごめん、と呟く私に彼は首を振った。
「お嬢様、しっかり、しっかりしてください。ここは現実で、お嬢様は夢を見ている訳ではないのです」
彼が必死に私を説得しようとしているのは分かっていた。私の心に寄り添うように、いかにこの世界が『本物』であるかと伝えようとするだろう。
しかし。
そんなことを、してもらっては困るのだ。
「アル、こんな頭のおかしい娘の子守をしていることはないわ。アルは、もっと沢山いくらでも、仕事があるんだから」
だから執事を、と言いかけた私の肩を、爪が食い込むほど強くアルクトスは掴んだ。
「お嬢様、それ以上言ったらいくら私でも怒りますよ」
もう既に怒っているじゃないか。彼が私の事を大事に思ってくれているのは分かっていた。それが同情でも、慈愛の気持ちだったとしても、嬉しいと思ってしまう自分が許せなかった。
――この世界に、未練を持つなんて、なんて裏切り。
私は首を振った。
「国からも誘われているんでしょう? もし執事がいいんだったら、お父様に、もっといい勤め先を紹介してもらうから」
最後まで言えなかった。ピンと張り詰めた気配に、私は言葉を失った。
「……冗談じゃ、ない」
ぎらり、と彼の視線が怒りを帯びた。それは私の言葉の続きを奪うほどに強く、激しいものだった。
「そうして俺は、あなたを救えなかったことを悔やみながら生きて行くのか!? ふざけるな! 先ほどから夢、夢と! 俺も、祖父も、あなたが助けたメーナも、夢の中の登場人物か!?」
その怒りの声に、荒げた彼の言葉に、私が凍り付いたように固まっていると、彼は私の手を引きよせて自分の胸に当てた。
包帯の巻かれたその胸の、毛皮の奥で、怒りに燃える彼の音がした。強い、命の鼓動が。
「こうして生きている俺の命も、あなたにとっては目を覚ましたら消える泡沫のようなものなのか? 泡が弾けて消えたところで、獣が一匹死んだとしか思わないと?」
私は掴まれた手を引き寄せようと抗った。びくともしなかった。動かせるのは口と足くらいだった。これ以上聞きたくなかった。彼の言葉も、その鼓動も。
だけど耳を塞ごうにも私の右手は動かない。彼の黒い手が強い力で、縫いとめているからだ。放して欲しくて、口早に叫んだ。
「そうよ、私は日本に帰りたいの。アルのことだって、知らない。関係ない! 放して!」
日本で目が覚めればきっと、徐々に忘れるだろう。この世界のことも、アルクトスのことも、シエーナという自分の名前すら。
それを死というのならば、それでも私は帰らなければならないのだ。
私の言葉に、彼の右手が少しだけ緩んだ。しかし引き戻そうとした私の手はまだ、彼に握られていた。
「なら」
外は既に暗闇で、静寂が広がっている。嵐のように荒れているのは、この部屋と私達の心だけなのだ。彼の目は、鋭く光った。
「この場で消してしまえばいい。あなたがこの世界を、現実のものだと認めるのならば俺の命くらいくれてやる。所詮、夢の中の登場人物が、人間でもない生き物が消えるだけの話だろう」
彼は枕元に置かれていた短剣を左手で引き寄せ、掴んだままの私の右手に握らせた。ずしりとしたナイフの重みが、ひどく現実感を助長させた。
消せと。彼を? これで?
理解した瞬間、私は激しく首を振った。
「やだ、いやだ、アル!」
「俺がいなくなっても、後の事は祖父がなんとでもする。切っ掛けをと言っていた、祖父なら分かっているから」
「出来る訳、ないでしょう!?」
私の叫びに、厳しい表情をしたまま彼は私を見下ろしていた。そうしてその左手を差し出した。
「……貸せ」
貸す? 混乱したままの私は、彼の視線が私が手にしている短剣に向けられているのを見た。さっと、血の気が引いた。
「あなたにできないなら、俺がやる」
「いやだ!!!」
引き千切る勢いで私は右手を引いた。予想外にあっさりと、彼の手が外れる。短剣を後ろに隠して、彼から距離を取ろうとしたが、片手で肩を掴まれてしまった。
涙が零れるまま、全力で首を振った。
「いやだ、ごめんなさい。ごめんなさい! やめて!」
カラン、と手の中から短剣が落ちて床で音を立てた。肩を掴んでいたアルクトスの手が、少し緩んだ。
「……あなたがしようとしているのは、そういうことだ。俺も祖父もこの世界も、何もかも殺して捨てていくようなものだ」
「ごめ、ごめんなさい……」
その手がしゃくりあげる私の背に回り、引き寄せられるままに私はアルクトスの胸の中に抱きしめられた。私の小さな体をすっぽりと覆った彼は、私の耳元で囁いた。
「……怒鳴って、すみません。お嬢様」
宥めるようなその声に、私はその大きな胸の中で泣いた。大声で泣いた。
――本当は、分かっていたのだ。
この世界はすでに私にとっての現実だと。昔の、この姿になる前の私はすでにいないのだと。
生まれ変わり。転生。二度目の生。
でもそのどんな言葉も、認めたくなかった。夢の中だと思いたかった。だって。
「――認めたら、会えない」
私の小さな言葉に、彼は少しだけ身を離して私を見た。涙と共に私は零した。
「認めてしまったら、もう、会えない」
郷愁。チャイムの音。笑い声。遊び疲れて帰る道。
ノスタルジックなその記憶の中で、ひときわ私の胸を締め付ける声が聞こえる。
――おかえり、と私を迎える明るい声。
「もう、お母さんに、会えない」
だから、認める訳には、いかないのだ。