10 森の中の遭遇
お医者様に「全快ですよ」とのお墨付きを貰い、ようやっと私はベッドから出ることが出来るようになった。
「おめでとうございます、お嬢様」
ベッド脇で見張っていたクマことアルクトスは、微笑んでいる。こっそりベッドを抜け出すと笑顔で引き戻されたのも記憶に新しい。何なの巣ごもりなのベッドから出たければ俺を倒して行けの世界なの? 渋々とベッドで大人しくはしていたが、せめてテレビが欲しかった。
この世界では通信機能が備わっていないため当然テレビもない。ラジオもない。東京に出たくとも東京もない。通信機能に関しては国の開発がされているようだがまだ一般貴族に扱えるほど一般的なものにはなっていないようである。
ベッドを出て窓際で伸びをしていると、窓の外にあまり見たくもないものを発見した。銀色の魔法車。叔母の車だ。
「……あれ、叔母様来てるの?」
アルクトスは首を振った。
「ああ、いえ。メリーアン様はご自宅で大人しくなさっているようですよ」
「……うっそー」
叔母と大人しく、という言葉が全然噛み合わない。不審げな私の視線に、アルクトスは笑ってみせた。
「ダイアン様の本音に、旦那様のご叱責も合わせて、メリーアン様も多少は身に染みることがあったのでは。先日から部屋に閉じこもっているとダイアン様からお手紙を頂きました。お嬢様にそのままお見せしても構わないとのお言葉も頂いているので、どうぞ」
渡された手紙を開くと、そこにはダイアンの几帳面な直筆でこう書かれていた。
『シエーナの体調はいかがだろうか。こちらの面倒ごとに巻き込んでしまい、まだ幼い従妹の心の影響が体に出てしまったのではないかと心配している。すまなかった。
簡単にではあるがこちらの状況を書き綴る。
まず母は先日の一件以来、あまり部屋から出てこない。偶然廊下で出会った時などはばつの悪そうな顔でそそくさと部屋へと戻ってしまう。心配していた脱走は今の所気配も見えず、母の監視を頼む予定であった祖母は拍子抜けした様子だった。
少なからず私の言葉か、伯父様の言葉であの人が言動を改めてくれるのであれば、今まで見て見ぬふりをしていた私の勇気の欠片をかき集めた甲斐がある。母に恨み節を伝えたときには、情けないことに少し声が震えてしまった。この年になっても、やはり嫌われていると自認するのは辛いものだな。
それでも、伝えて良かったと思えるくらいには、吹っ切れている。
愚弟ケビンのほうもこれまた落ち込んでいる様子だ。母と同じように、今後シエーナに会うことはならずと父から伝えられて、泣きながら嫌だと言っていた。弟の気持ちは推しはかることしか出来ないが、私が伝えて良いこととも思えず、また伝えたところでシエーナには何の関係もないことだと判断したため記載はしない。
アルクトス殿には、先日の不躾な質問を重ねて詫びたい。私自身の悩みを、貴殿の姿に重ねてしまった。厭わず返答してくれたことを感謝している。今後もし、私に助力できることがあれば何でも言ってほしい。シエーナにも本当にすまなかったと伝えてほしい』
書き連ねたその言葉には所々分からない事があったが、従兄の真摯な感情が見えるようであった。手紙を畳んでアルクトスに返しながら尋ねた。
「アル、ダイアン従兄様とか、お父様と色々な話をしたのね」
「はい、皆様お嬢様のことをとても愛しておいでで」
微笑みながら言うアルクトスの声は、どこか何かを気にしているようだった。
「もちろんこのアルクトスも、たおやかな女性にはなれませんが、お嬢様にお仕えする気持ちは誰にも引けは取らぬと自負しております」
「いやいや、そんな仰天チェンジは誰も求めてないから!」
二メートルの筋肉巨体がたおやかな女性になったら、たおやかが裸足で逃げ出す。勘弁してあげてとしか言いようがない。私は心から止めた。少し残念そうな素振りではあったが、彼は頷いた。たおやかを守りきった。
「それではお嬢様、今日はどうなさいますか? 病み上がりですし、勉強はお休みしてまたお眠りになりますか?」
「もうベッドの上は勘弁してほしいかな! 外、外に出たい!」
どれほど巣ごもりさせたいのかと怯えて私が言い張ると、鉄壁の看守は「そうですね。体への負担にならない程度の近場であれば」ようやく許可をくれた。良かった、倒していけと言われたらもう倒れるしかなかった。
「どこならいい? 王都とか?」
「人混みは少し様子をみた方がよいかと。……あ、お嬢様。マードリーという街はいかがでしょうか?」
「マードリー?」
ここから車で30分ほどの街である。たしか母方の親戚の家があったような。
「旦那様にお伺いしたところ、奥様の昔の姿絵などを親戚筋の方がお持ちであると。奥様のお墓もそちらにあるようで、お参りに行かれるのも良いのではと」
遠慮がちにアルクトスが言うが、私は首を傾げた。外出を求めたら何故か墓参り。あれ、今お盆みたいな時期だっけ?
「え、うん、いいんだけど、なんで?」
「いえ、差し出がましいことを言って申し訳ありません」
恐縮したようにアルクトスが身を縮めるが、純粋に不思議だっただけなのである。確かに人気は少ないだろうけど。
「墓参りの時期は過ぎた気がしたからこの時期になんでだろうって思っただけなの。お母様の姿絵って、お父様が欲しがってたの?」
尋ねる私にアルクトスは変な顔をした。何だろう。
「いえ、旦那様が欲しがっていた訳ではないのですが……。他の場所ですと、北の森にピクニックにでも行かれますか?」
北の森はここから15分程度で着く、少し大きな公園のようなものである。滝のようなものもあるし、木も多く、ちょっとしたアスレチックみたいな遊び場もある。祝祭日は人が多いが、今日は平日なので恐らくあまり人がいないだろう。
「そっちのほうがいいな。お弁当を用意して出かけようよ」
墓参りとピクニック。二択の選択肢がおかしい気がしたが、とりあえず素直にピクニックを選ぶ。お盆には、お盆の時期は行くから! 私の返事に再度首を傾げたアルクトスだが、微笑んで頷いた。
「……かしこまりました。では用意して参りますね」
アルクトスは頭を下げて部屋から出て行った。やっと外に出られると思うと、普段あまり外出はしないのだが少し心が躍る。
私は窓辺へ向かうと、日に当たる鉢をつんと突いた。熱が高い間は水をあげることが出来なかったが、昨日からはまた私が水をやっている。
種を入れて少しだけ盛り上がった土はそれ以上動く気配も無い。
「……芽、出ないのかなぁ」
踏まれて中身が出てしまったとアルクトスは言っていた。新しい種に変えよう、とも。
変えても芽は出ないような、そんな気がしてつい止めてしまった。
「出ないんだろうなぁ」
重ねた手の上に顎をのせて、窓辺の鉢をみる。太陽の光を反射しながらも、どこか暗い緑の鉢は、沈黙を貫いた。
しばらくして、アルクトスに準備が出来たと呼ばれ、久しぶりに車で外出することになった。
* * * * * * * * * *
そうだった、すっかりと忘れていた、と私は呟いた。
北の森は入ってすぐのところに噴水がある。その周りには木で出来たジャングルジムやシーソーなど簡単な遊び道具があり、その周りはきちんと整備されている。そこを奥へといくと木々が立ち並び、さらに奥には上から滝の水が流れ落ちてくる淵、滝壺があった。
平日の昼過ぎ。天気も良く散歩日和である。平日なため人は少なく、噴水周りに数人、遊び道具に数人といったところだ。
「アル、奥の方に滝があるの。そっちで食べよう」
「お嬢様、危ないのでゆっくりと」
早足と駆け足の中間ほどの速度で私は森の外れに向かう。その後ろをバスケットを持ったクマが歩き、私を制止した。
ゆっくりと。うんそれは無理だ。噴水周りの人々は、平日の穏やかな午後に突然出現した黒い巨体に固まっている。時が止まった。
「すっかり忘れていたわ。アル。森にクマなんてはまりすぎて何の違和感も持たなかったわ」
平日に貴族の娘と執事が北の森にピクニックに行くことに違和感はない。森にクマがいることにも違和感はない。だが執事がクマだったら。違和感が溢れて留まるところを知らなかった。
半ばアルクトス引っ張るようにして木々の道を歩いて行くと、ようやく人の姿がなくなった。ホッと私は胸を撫で下ろす。繋いだ手の先で、アルクトスが笑った。
「お嬢様、そんなに急がずとも滝は逃げませんよ」
「いやいや、滝は逃げないかも知れないけどね」
人は逃げるんじゃないかな、という言葉は飲み込んだ。
滝への道は細いが人が行き来しているため、通路のような道が出来ている。整備されている訳ではないが道筋は分かりやすい。ほんの10分も歩けば滝に辿り着くのだ。滝壷のようになっているその場所は、上から落ちてきた滝の水しぶきのせいか爽やかで涼しい。夏になると多くの人が遊びに来る。
数分歩いたところでふと前を見ると、親子連れが滝からの道を来ていた。両親と男の子と女の子の四人連れだった。
「……」
「こ、こんにちはー」
出来るだけにこやかに挨拶をしてみたが、母親の側を歩いていた少年と、父親に手を引かれていた少女がその場でフリーズした。父親は少し驚いた様子だが「こんにちは」と穏やかに挨拶を返し、母親は息子の背を小突いた。
「こんにちは。ほら、カレル。挨拶は?」
「……っ!?」
少年は、私より少し上くらいだろうか。何を暢気なことを言っているのかとばかりに母に視線を向けた。その少年の頭には小さなふわりとした耳がついていて――ウサギの耳?
あっ、亜人か! と思い至った時に、少年は母に訴えた。
「か、母ちゃん、アレ! アレ!?」
何アレと言いたいらしき少年は焦りのあまり言葉が続かないようだった。妹らしき少女も、その白い耳を小刻みに震わせたまま固まっている。
「同じ亜人に何怯えてるの。失礼でしょう」
「同じじゃねーよ! 同じなのは耳があるとかそれくらいだよ!」
めっ、と叱られたカレル少年はその心の内を叫びにした。さもありなん。私はアルクトスの様子をちらりと見るが、特に気にした様子もなく「元気の良い少年ですねぇ」と笑っていた。
「脅かせてしまい申し訳ありません。私は先祖返りでして、特に害を与えるようなことはありませんのでご心配なさらないでください」
アルクトスの穏やかな言葉に父親は申し訳無さそうに息子の頭を押えて下げさせた。
「こちらこそ失礼を。先祖返りの方々のご活躍は聞いています。まだ見識の足りない息子をどうかお許し頂ければありがたく思います」
押さえつけられた息子は少し不満げながらも「……ごめんなさい」と謝った。「良くあることなのでお気になさらず」とアルクトスは笑って返した。
実際アルクトスにとっては、私の初日の反応も、彼らの反応も、当たり前過ぎて気にすることすらないのだろう。本当に、何も気にならないのだろうか。私がアルクトスの手をぎゅっと握りしめると、彼はちょっと目を丸くした後に微笑んで私の頭を撫でた。
では、と私の手を引いたまま、彼らとすれ違おうとした。その時。
道の中央で固まっていた娘、一言も発しなかった彼女は、アルクトスが近づいて来るのを目を見開いて見ていた。普通ならば叫んだり怯えたり泣いたりするだろうのに、何の反応もしなかった。いや、出来なかった。彼女の耳はぺたりと伏せられて、体と同じくらい震えていた。
そんな彼女の恐怖は、目の前に迫ったアルクトスを見た瞬間に、天井を越えた。
「――っ!!」
声にもならない悲鳴をあげて、彼女はぱっと逃げ出したのだ。
「メーナ!?」
両親の叫びを背中に、その小さな子供の足はとても速かった。曲がりくねった木々の道を、奥へと走るその背はすぐに見えなくなった。
「メーナ!」
兄カレルは叫んで走り出した。数秒遅れて両親も走り出した。姿を消した彼女を追いかける3人を呆然と見送ってから、私は慌ててアルクトスの手を引っ張った。
「アル! あの子、追いかけないと!」
あの先は滝壷である。川に繋がっているのもあり、あのままの勢いで滑って転んで落ちでもしたら溺れてしまう。あの子の兄や両親に任せた方がいいのかも知れない。でも。
私の言葉にハッとしてアルクトスも頷いた。
「お嬢様、あの先は滝壷だけで行き止まりですか?」
「そう! パニックになってるし、水に落ちたら大変!」
私を抱き上げるとアルクトスはすぐに走り出した。私の重さを気にもせず、ぐんぐんと曲がりくねった道を走る、その速度はかなりのものだ。そうだ、時速60キロは出るんだった。抱き上げられたまま私は冷静にアルクトスに伝えた。
「アル、ごめん、すごい大事なことがあるから聞いて欲しいの」
「何でしょう、お嬢様」
走りながら、息を乱さずに彼は尋ねてくる。もしあの少女が滝壷から川に流されてしまったら、水の魔法を使えるアルなら助けてあげられるだろうと思った。あるいは滝壷の前にあの子を捕まえられるかも知れない。しかし。
「この勢いでアルが追いかけたら、多分あの子めっちゃ逃げる」
クマに追いかけられたウサギが止まるはずもなかった。私の言葉にアルクトスはぴたりと足を止めた。