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高校へ入りたい

同級生が高校を卒業するときに?

高校に入りたい


 トラオカ荘に帰ればまたいつもの日常が始まる。そのころ飯田橋の製本工場で日給六千円の週払いの仕事をしていた。流れてくる本にカバーをつけるそれをサイズ別に棚に置くという単純な仕事だった。帰りはホカホカ弁当を買ったりと買い物をすませ、書店に入る。

 ぼくはどうしても高校へ行きたくなっていた。そんな本を立ち読んでいた。

 通信学校のすべてという本だったと思う。そこには定時制と通信高校がずらっと載っていた。定時制を問い合わせたこともある。ぼくは住民登録をしていなかった。それで登録していないといけないかを問う。すると住民登録をしていないといけないようなことをいった。それなら通信高校を探してみよう。勉強の嫌いなぼくでも通信高校で勉強が出来るのか、と疑問もあったが、T高校ではしっかりと十月までやっていたから大丈夫だろう。一体通信高校の勉強スタイルとはどのようかと調べてみた。

 常にレポートを提出して月二回スクーリングという面接授業を受け、学期末テストに合格するという仕組みのようだ。国語ならそのレポートを提出する。レポートとはレポート用紙に書き上げるのか? それではかなりの勉強になるのではないのか。

 月二回に学校を行くのはいいとして、普段のレポートというのが

気になった。

 定時制のように的を絞って電話をすることにした。

 そしてみつかった。それは『東海大学付属望星高校』だ。東海大学とはお金が高いかもしれない。そこには入学金五万円、各学期の授業料三万二千円と書いてある。そんなに高いと思わなかった。それにそこは静岡分校があるではないか。それが目をつけた一番の理由だ。

 電話を掛けるとパンフレットを送るのでというので住所を教えた。

 そしてパンフレットが送られてきた。入学試験はない。学校は日曜に行くのかと思えば水曜クラスもあった。パンフレットの写真はみんな笑っていて楽しそうだった。本当か、つらくないか、そう思って読んでいた。

レポートのことが書いてあり、レポート=問題の載るプリントらしい。

教科書やFM放送を聞き、レポートを仕上げるスタイルらしい。

そういえばNHKFMラジオで高校講座というのがあった。それは望星高校だった。その日聞いてみたらわかった。

 これなら録音すれば聞き流さない。ここの高校はいいと思ってしまった。

 そして日々はたち正月も過ぎて二月となった。すでに望星高校へ入学する準備に入っていた。自動車運転免許も実家に帰りとっていた。

ある日曜には代々木上原の富ヶ谷にある本校を見学した。女子大生かと思うような女子生徒、年齢も様々だが若い人たちが目立つ。

もしかしたら先生と思った人は生徒かもしれない。ぼくはうろうろして校舎内を見学する。スクーリングという授業風景は普通の授業と変わらない。

これならよさそうと思って受付で願書をもらった。その場て書くと提出した。入学金の五万円も持っているのでそのまま払い、四月から日曜クラスの入学となった。

 説明を個室で受けて、レポートをどっさりともらった。


「えっ、もう勉強するのですか?」


「いえ、放送がまだですが先に渡しておきます。一応四月三日が第一回目の放送授業となります……」


 事務員はそういうと、レポート枚数を数えている。各教科一年間で十二枚提出する。そんなものかとぼくは思っていた。だがその後は仕事と両立で苦しくなるのだった。

 そして四月から勉強が始まった。数学ならレポート出して放送授業を聞く。解き方を教えてくれる。そんな感じで、大嫌いな数学でも少しはわかってきた。レポートを仕上げる=放送を聞くことになる。だから聞きそびれると早朝の再放送を聞くか録音しないとレポートがわからなくなる。ぼくは常に夕方六時の放送を聞きながら録音していた。結構大変な作業だ。これを四年間やらないとならなかった。

 アルバイトは以前やった引越し屋に戻っていた。アパートの町内だし日給八千といい。そのころトラックがなによりカッコよく思っていた。でも放送に間に合わないときもあって、そのときは早朝に録音するしかなかった。芸人の弟子などもう頭から消えてしまい、高校卒業の夢と変わっていた。第一回目のスクーリングは、五十人もいるクラスだった。一人ひとり自己紹介をし授業を受けた。制服もなく頭髪も関係ない。大学のような自由に感じた。

驚いたことに福島県から通っている人もいた。さらにびっくりしたのは、ほかのクラスには沖縄から泊まりで来ているのもいるらしい。そのやる気には、ぼくへ拍車が掛かった。

 五月も過ぎると、ふと静岡校があるのを思い出す。高校へ通っていることを義父と母が認めてくれるかもしれない。もしかすると実家に帰られるのではないか。もう芸人はあきらめたのだし、四谷でひとり寂しく暮らすより、カニエイもいる静岡がいい。土人と牛で功績を残した相方とまた楽しく遊びたくもなった。

 東京本校で入ったのに、静岡分校へ転校などそもそも出来るのかわからない。スクーリングのあった放課後に担任に相談すると、あっさりと出来るという。ただレポートがまた一からのもあるようだ。

 六月になるし、転校するなら早く手続をしたほうがいいようだ。

 ぼくはその日、実家に電話を掛けた。まず母に伝えた。通信高校に入ったことと、静岡校があることを。

 そして母が義父へ話すことになる。それから一週間後に電話を掛ければ義父が出て『しっかりやるなら帰って来い。それに仕事もするんだ』ということでオッケーが出た。

 ぼくが十八歳で高校に入った。高校を出た同級生は大学や社会人となっている。三年の差がある。そんななか高卒となったカニエイはなにをしているのかと無職で高校を卒業した。なぜなら高中正義みたいにスタジオミュージシャンになりたいからだと。

 でも東京に出るわけではなく、ただギターを弾いているだけだ。

 彼の母はうるさいので、当然ぶつぶついわれている。仮装大会で二位の実力者が無職では少し体裁がわるいが、カニエイらしかった。

自分の道を決めたのはぼくの漫才師と同じようなものだった。

運転免許を帰省のとき実家でとっていたので、引越しは実家のある清水で軽トラックを借りた。助手席はもちろんカニエイだった。

 軽トラックの運転がなぜかむずかしい。クラッチが狭くギアがうまく入らなくてすぐにエンストする。少し練習をしてからいざ東京へ出発。

 国道一号をひたすら東に向かった。箱根も通り越し表示看板を頼りに『東京』を目指した。目黒で迷子になったがなんとか夜八時にトラオカ荘に着いた。昼一時に出て七時間掛かったことになる。高速は使わないのがぼくらだ。

 そして積み込む。大きなものはステレオとコタツにテレビくらいだ。そんなないのですぐ積み終った。しっかりとシートとロープをして、大家に今月の家賃と光熱費を払い、清水に帰って行く。帰りは眠くて必要以外の会話はなかった。今度は静岡方面を目指す。

眠かったけど深夜二時過ぎに実家へ着いた。カニエイを帰らせると一人で荷物を物置に入れた。そして泥のように眠った。

翌朝、母が一日で帰って来たことをほめていた。それはそうだ。

引越しのアルバイトをしていたことを強調した。

 狭い長屋にまた五人の生活となった。度々の帰省とはわけが違う。

ぼくは出戻りの気持ちとなり、肩身が狭くなっていた。

 落ち着いたころ、静岡分校に行った。東京の本校とは違い、東海短期大学内に職員室があった。最初に目がついたのは黒板に、本校から転校、浜崎憲孝さん、と大きく書いてあるではないか。そんな大した者ではないのにと恐縮した。事務机は並び、応接間もある。

職員室というより会社の事務所という感じ。ただ若者が一人、カセットのダビング機のような機材をいじっている。生徒だろうか。

 そして説明を聞く。どうも静岡分校は職員室のみで、スクーリングは大学の教室を借りるようだ。

 それとレポートだけど数学と理科、音楽以外、静岡校のレポートに変えないとならなかった。国語と英語などだ。それを四月分からやってくれといわれた。本校である程度聞いていたが、レポートを受けとると最初からやるとは気が引けた。三カ月分なので結構な量である。

 ただ東京のFM放送を聞けないため、カセットにあらかじめ録音してあり、それが毎週自宅へ送られてくるらしい。それなら本校より録音する分が楽となった。

 ということは、国語、英語、社会、保険体育のレポートとカセットを受けとった。持参したデパートの紙バックいっぱいである。これを全部聞かないとならない。生徒と仲よしになれば写せるが、まだ知人はいない。

 そして今週の日曜はスクーリングだ。一年に編入として入り、自己紹介をしないとならないだろう。

 その夜、机に座ってレポートをやり始めた。静岡校の先生による録音で、ときおり声が聞きにくかった。でも答えをいう先生もいたので静岡のほうが楽かもしれなかった。

 義父の仕事を数日手伝い、日曜にスクーリングに行く。

 大学の教室に行くとまずホームルーム。ここでざっと生徒の数がわかった。一年は五十人ほどで、二年は三十人、三年は十六人ほどで四年は二十二人だった。

 本校は六、七百人と多く、分校ではこんなものかと。

 そして各教室で授業が始まった。自己紹介は先生がしてくれた・『本校からの編入生の浜崎さんです』といってくれだけで、ぼくはお辞儀をしただけだった。

 静岡の生徒は少ないので授業も静かだ。若い人より三、四十代と五、六十代の生徒が多く感じる。女性より男性が多い。

 そしてクラスに溶け込んで行くのだ。

 二十歳の時に運送屋に就職した。そして一年後の三年生になったとき、中距離配送に志願してしまい、それで勉強が遅れ出す。

 遅れると取り返すのは大変だ。仕事と遊びが多くなるとレポートの提出期限を気にしなくなっていた。こうなるとどんどんカセットもたまる。スクーリングのみ行ったとき、先生がよって来た。


「どうしたんだ、ずっと提出してたのに、ここまったくレポートが送られて来ない」


 担任は数学で全く提出していなかった。


「ちょっと仕事が忙しくて」


「それはわかるけど、学校も大事だ。いままでのようにもっと頑張ってよ」


 一応うなずく。


「先生、カセットたまってしまって聞く気になれないです」


「計画を持って仕事と同時にやらないとそうなるんだよ。もしよかったら放課後教えるから職員室でやっていきなよ」


 そういってくれたが、その日は帰った。なぜなら明日はトラックで東京に行かないとならない。朝が早いからだった。

 次回からスクーリングは行かなくなった。

 そして数カ月後に辞めていた。あれほどやる気で入ったのに。

でも二年生までの単位は持っている。またやる気があれば行けばいいはず。ただ一学期の学費がムダとなった。

 ぼくは後悔しなかった。ニモネニとカニエイと遊び、それが理由かもしれない。でも若いときは遊ぶことがどうしても楽しかった。

ほぼ飲みに行くことだったが、知人も増えたりコンサートへ行ったりと、若いときにしか出来ない遊びだった。静岡校に二十代が少ないのはそんな理由かもしれなかった。

 それから二年後、どうしても高校卒業したくなった。それで三年生に編入学した。また望星高校の復活だ。そのころ中距離配送の仕事も慣れ、高校卒業する資格がとても欲しくなった。


「よく戻って来たな」


 と、先生たちがぼくを暖かく迎えてくれた。

 望星高校の先生たちは、働きながら勉強することを偉業の技という。先生たち自体が働いているだけだ。通信学校を別に受講しているわけではない。それで偉業の生徒たちといっている。そうだなと思った。

 そしてこの二回目の三年生は、勉強主体で入学した。もし遅れれば結婚をしているわけではないので、仕事を辞める決意たった。絶対に卒業する思い込みがあった。

 レポートを早く提出したり、職員室には毎週トラックで行きカセットを受けとる。毎日カセットを聞き、計画より早めにレポートを仕上げる。この偉業の技をやっていたら、『浜崎君、とても変わったね』と口々にいわれた。生徒もぼくへレポートわからない箇所を聞いたり、テストで漢文は百点もとっていた。それほど熱心に進めていた。

 文化祭ではドラムとベースで演奏会もして、積極的に行事にも出ていた。四年生になると生徒会長をやってくれといわれたが、それは断った。

 だが卒業間際の一月下旬、レポートも一段落して自宅で酒を飲んでいた。この先、卒業も申し分なく出来るので浮かれていたのだ。

 飲みすぎて便所で転び、腰を便器に打った。それはまったく覚えておらず、義父が布団まで運んでくれたらしい。

 翌朝、腰が異常に痛む。普段から腰痛持ちだ。それは十倍以上の痛さで、仕事を休もうしたらダメだった。空きのドライバーはいない。仕方なく県内配送を行うが、荷物を降ろせなかった。横にも業者のトラックが荷を降ろしている。そのドライバーに手伝ってもらいなんとか降ろせた。深く頭を下げてジュースを二本上げた。次の降ろす問屋、また次もそうして頭を下げて終わった。途中、激痛でハンドルへうつ伏せし眠ってしまった。

 そして会社に帰ると、長野便の積み込みはムリだからと、医者に行かせてもらった。すると即入院になった。

 頸椎の突起が二本折れているようだ。それで入院する。

 五十日の入院で卒業式は行けなかった。でも懇親会は医者の許可をもらい出た。一度家でスーツに着替えて、自分の車を運転して行った。ギブスをしているので、負担は少なく出来た技だ。

 短大のホールで行っているらしく、入ったと同時に『来た、来た』と先生と生徒たちが拍手してくれた。それは一人卒業式となった。賞状を受けとれば、


「では、浜崎君からひとこと」


 いきなり着いたばかりで一人卒業式だ。


「えっ……」


 と、出た言葉だ。

 でも偉業の技を成し遂げて本当によかった。このことはぼくが東京へ出たからそうなったのかもしれない。仕事の面接をすれば中退の理由を聞かれるし、先の仕事がないことを切実に考えていた。それが七年も掛けて卒業出来たことだった。このときばかりは、楽譜が読めるようになったことよりも、仮装大会で二位になったことよりもうれしかった。懇親会が終われば病室に戻る。これにはテンションが一気に下がり、病院も早々に卒業したかった。

 そして退院して会社に行くと、運送屋を首になった。入院中に会社へ病状をほとんど報告をしなかったからだと。納得しなかったが、高校は卒業したから受け入れた。こんな陰と陽の出た二十五歳だった。



卒業まで七年間かかった理由はここにありました。それでも早く入学してよかったと思います。

現在は通信や単位制の高校は多々あり、大学への道のりも多くなりました。実は夜間大学の受験料二万を払っていました。でも入院により受験が出来なくなりました。入るなということだったのかな? 人生の分かれめってありますね。

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