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東京生活

いよいよ上京し、一体生活はどんなだったのか?

東京生活


 一カ月がたった。実家ではご飯を食べるのはなんでもないことだった。東京に来たら自分で作るか弁当などを買わないとならない。

ぼくは作ることといえば卵を入れたインスタントラーメンだけ。

だがここのアパートトラオカ荘ではキッチンは水道と汚いコンロだけ。そこでラーメンなど作っている人はいなかった。よってほかほか弁当、カップラーメンなどを主に食べていた。

 アルバイトも決まった。それは食事が出るまさにほかほか弁当だった。そこの炊飯係りだ。

 大きなお釜に米をニキロだったと思うが研いで炊く。午前は二回炊いた。その間に洗い場や容器の用意をする。一日でもっとも昼が忙しい。その準備だ。

 ぼくは八時から十四時までだ。時給は八百五十円だったような。

 月曜から土曜まで働く体制である。帰りにご飯つきフライの盛った弁当をもらえるので、夕食は助かっていた。ただ昼飯は食べることが出来なく、八時からぶっ通しだった。腹が減った状態で帰り、カップラーメンかパンを食べ、弁当は夜にとっておいた。

 銭湯は二百八十円で一日おきか週三回。洗濯は週一回だった。パンツは風呂がなくても着替えていたが、Tシャツは続けて着る。

 一人生活になったら、お金のありがたみがわかってきて、ゲームもやりたかったけど控えている。

 そして木曜の深夜、正式には金曜午前一時から『ビートたけしのオールナイトニッポン』を生で聞いた。でも途中で寝てしまったことが何度もあり悔やんだ。その内容をカニエイとの手紙のやりとりで聞いたりする。男同士の文通だ。でも清水の情報源がカニエイの手紙だった。こっちはぼくのバイトやタレントを見たことなど身近な情報を書いていた。

 そしてどうしてもたけしの弟子になりたくなった。それが東京に出た目標であり、専門学校に行くことではなかった。

 そしてニッポン放送に向かう。正面が帝国ホテルだったか、その柱から見張っていた。ニッポン放送の前には警備員が二人いて、タレントやお偉いさんをガードしている。

結局眠いなか待ったが、深夜三時を過ぎてもたけしは出て来なかった。それかぼくがうとうととしているとき、赤いポルシェにさっと乗ったのかもしれない。そのころラッシャー板前という弟子が入ったばかりで、ぼくはうらやましく思っていた。

翌週もニッポン放送へ向かった。その日はとても眠く、ホテルの柱で寝ては起きたりを繰り返している。こんな状態で弟子志願を出来るのかと疑問もあったが待っていた。だが柱の陰で寝てしまい、起きたときは四時を回っていた。落ちているラジオは永井龍雲の声が流れている。五月も終わる寒い朝に始発で四谷へ帰るのだった。

そして弁当屋へは休むと前日にいってあるので爆睡するのだった。

たけしはその翌週のラジオで思いがけないことをいうではないか。

『もう弟子はとらない……』と。たけしは『笑ってる場合ですよ!』の火曜レギュラー。アルタビルにも志願者がいて断ったらしい。ということは、もしニッポン放送で土下座をしていれば断られるということだ。

 なんのために上京したのか、と落ち込んでしまった。弟子をとらないとなれば漫才師になれない、そう感じてしまった。

突発的に翌日の弁当屋を休んでしまった。

一日考えて出た答えがある。

次に好きな芸人は『のりお・よしお』だ。のりおに志願しようと。

ギャグといえば、つくつくほうし、オーメン、パパパパ天下御免の向こう傷だ。よしおが話しを進行しているとき、なりふり構わずギャグをやるので面白かった。『笑ってる場合ですよ』の木曜レギュラーだ。そこで土下座しかない。

そして毎週木曜日の弁当屋を休むことにした。店長はいい顔をしない。突発的に休んだり、今度は木曜を休むとなれば炊飯係りを雇わなければならなかったはず。それにラジオを聴くため金曜はあくびばかり出るので注意も受けていた。でもそうしないとぼくの夢はかなわない。

 木曜日の昼、まずのりおをテレビで確認する。そして二十分ごろT高校の自転車でアルタへ向かった。

 早ければ一時十五分ごろ出るはずだ。ほかのレギュラー人を何度と見に来たことがあったし、何時に出るのかと確認だった。きょうは土下座をしない。それに順序もある。のりおは吉本興業である。

 たけしの場合は弟子志願の模様をよくラジオで聴いたのでラジオ局にした。大阪から来たのりおはアルタしかないだろう。

 アルタの一階は待ち合わせに使ったり、テレビに写りたいのか、人でごった返している。ここで土下座はちょっと勇気がいる。のりおはそのままタクシーならここでいうしかないが、左右に歩くなら追って人気がなくなったとこで土下座にしたい。

 それにはまず弟子にしてください、という主旨の往復ハガキを出そうと思った。それからだ。吉本興業は先輩後輩の規律が厳しいと聞いたのでそうした。

 二十分ごろエレベーターを降りたのりおは何人かの人と歩いていった。途中ファンに囲まれ握手をしている。ぼくはその様子を見ながら、やっぱ人気あるなと、緊張しながら感じていた。実際の人物を見ると上がりそうだ。しっかりと声を出せるか心配でもあった。

 翌週もその翌週も、弟子志願に行けなかった。なかなか向かえない。人が多すぎるのと囲まれるからだ。そのころ、往復ハガキの返事が来た。

『こんにちは、のりお、よしおです。ぼくらまだ弟子をとる身分ではないので、そこのところをよろしくね』と、こんな内容だった。

この字はのりおではない感じがした。もっと太字だったのを大阪の番組『ヤングオーオー』で習字のシーンを見たことがあるからだ。

 たぶんマネージャーだ。いまから考えればわかる。当時まだ二十代後半のはずだ。ぼくからのテレビで面白いことをいう芸人は限られているので、どうしても弟子になりたかった。

 日々は過ぎるし木曜はやってくる。緊張する自分と、また行けなかったという残念な気持ちが葛藤する日だった。

 七月に入り木枠の窓を開けて風を入れた。敷きっぱなしのじめじめとした布団を開けた窓のところに掛けた。少しはほっかりとするのではないかと思い、そのまま弁当屋へ向かった。外から見ると汚い布団が泥棒を誘っているように見えた。ぼくは急いで布団を入れに戻った。さのとき弁当屋に行くのがしんどくなってきた。きょうも重い炊飯仕事だし、無断で休んでしまうか。でも夕食の弁当がもらえない。

 五分ほど考えていると、弁当屋へ向かった。

 帰宅するとカニエイからの手紙が来ていて、夏休みには遊びに行くと書いてある。東京に来てから笑ったことはたけしのテレビやラジオだけ。弁当屋は黙々とやり会話はそんななかった。それで夜は寂しく感じている。同世代は家族での夕食で学校では友だちもいる。

 東京に行くことはとても胸をわくわくさせていたが、いまはそうでもない。つらいし寂しかった。なにをするにも自分がやらないとならない。実家なら母がやってくれた。これが東京の現実となり、のりおの弟子にもなかなか怖気づいている。そんなときにカニエイが来てくれれば力強い友だった。

 ぼくはいつ来てくれるのか返事を書いた。手紙のやりとりは二週に一通という感じだった。突発的に情報が入るとハガキをよこしたりする。あとはタカオからもハガキが来る。彼はアイドル歌手の河合奈保子の親衛隊に入っていた。東京でコンサートがあるから泊まらしてくれとのこと。もちろんオッケーだった。

 手紙によるとカニエイは二回来ることになった。それは目的なしの七月下旬と、高中正義のコンサートに行くための八月中旬にも来るという。コンサートではタカオと似ている。

 のりおの弟子はネタとしてそれまでにすませておきたい。今度の木曜に決行する意志をぼくは固めた。

 木曜日だ。テレビでのりおを確認しアルタへ。

 そろそろ二十分だ。エレベーターが開いた。だが違った。

 いつも三人でいて、よしおはいない。次のエレベーターが開いた。

 来た。

 胸の鼓動が一気に飛び跳ねる。

 ぼくは近づいた。いつものように警備がファンを手で制する。

 あとを追うと、ほぼ人がいなくなったころ真横で声を掛けた。もうなにがなんだかわからないくらいで見つめた。


「のりおさんですね」


「ああそうだ」


 ぼくは中腰になっている。背が低かったからだ。


「あ、あ、あの、弟子にしてください」


 といいながら、道で初めて土下座をした。額をコンクリートすれすれにする。のりおは見ているはずだ。


「ち、ちょっと立ってみー」


 ぼくは下を向きながらたった。とても顔を向けられなかった。それにドキドキと胸が高鳴っていて手の震えもあった。


「あの、手紙も出しました」


「え、手紙? 知らんわ」


 というではないか。


「往復はがきで……」


 足もガクガクしてきた。


「いや、見てない、いまは弟子などとれないんだ。まだ売れないとな。だから見守っててくれや」


 といい、ぼくと肩を組んだ。緊張とがっかりからか、その次の言葉が出なかった。


「じゃな、また手紙出してや」


 どんどん行ってしまった。ぼくはしばらく立ったまま動けなかった。あまりの緊張さが限界になったのかもしれない。それと弟子になれなかったことも。

 帰りの自転車でどの道を走ったかも覚えていないほど消沈していた。トラオカ荘に入るとタバコを吹かした。そのころ吸い始めると落ち着いてきた。

『……いまは弟子などとれないんだ。まだ売れないと……』といったことを思い出す。それはほぼ手紙と同じことだった。のりおはまだ若いため弟子がいると先輩に目をつけられるということかもしれない。吉本興業の規律がそうしたのだろう。

 これですべてが終わったともいえる。もう弟子になりたい芸人はいなかった。当時は弟子=芸人。

 一人で芸人にはなれないと思っていた。たけしは深見千三郎、のりおは西川きよしの弟子だ。師弟関係がないと舞台やテレビに出られないとも聞いた。でも吉本興業はNSCという芸人学校を立ち上げ、一期にはダウンタウンがいた。

 そのころの大阪ならあったかもしれないけど、東京にはなかった。

 それに学費が掛かるので弟子がよかった。

 このネタをカニエイが来た日に話すと、

『バカすげーことしたな』と驚いていたが、ぼくの心情は悲しかった。カニエイとコーラで焼酎を割って飲んでいた。このころから彼が来れば酒を飲むようになった。タカオとは飲まなく彼だけだった。

 そして弁当屋も辞めて引越し屋で働く。こっちのほうが食事は出ないが伸び伸びした。トラックに乗って千葉方面に向かったり、実家のある静岡へも行った。ここも毎日ではなかった。でも生活は出来ていたので、そのほうが今後を見つめていける。

 そして四月で一年たった。家賃と光熱費の滞納はない。安かったのがよかった。光熱費も全部で五千円も行かなく、四千ちょっとだった。つまり家賃光熱費を合わせて二万以内。それに食費と風呂代など雑費を合わせて七万もあれば生活出来る。家賃が七万ならわかる。たばこは『わかば』になったが。

 実家にもたまに帰った。それはカニエイから日本平でたけしのコンサートがあることや、清水市民会館に芸人が来る。そのなかにツービートがいたりと、当然彼と見に行く。

 そのときの乗りはとても凄まじい。二人なのに十人くらいいるような声援をし、声が枯れてしまった。それだけたけしへの熱は冷めてはいない。確実に増していた。

 またあるときは静岡にたけしの弟子であるツーツーレロレロが情報番組に出ることになった。ぼくとカニエイは当然静岡第一テレビ局に自転車で向かった。

 丁重にスタジオ見学の許可をとると入れる。

 どこにいるのかと、狭いスタジオを見回した。どこにもいないし、楽屋もいない。始まったらどこからともなく現れるのを期待すると、司会の三上寛が『パルシェのツーツーレロレロさーん』というではないか。カニエイと目を合わせてがっかりとした。パルシェとは駅ビルで、たまに中継がそこである。でも芸人だからそっちはないとぼくは判断していた。だが違った。モニターも見れずにとてもつまらないスタジオ見学だった。せっかく許可をとったのに、帰りは清水までなにも話さなく帰った。

 ぼくとカニエイのコンビはたまには失敗もあるのだ。

 そして東京に戻るとアルバイトに精を出すしかない。そのころというと高校を中退したことに後悔をしだすころだった。なぜなら仕事を探すとき、面接で必ず聞かれることがある。なぜ高校を辞めたのか、高校くらい出ないとこの先仕事がない、と。それでT高校を辞めたことを悔やみ出していた。それにカニエイは高三でしっかり通っている。弟子も断られたし、目標がいまのところなくなりもんもんと過ごしていた。そんなとき、カニエイの十月の手紙に『……駅前銀座アーケード街で仮装大会があるぞ。出ようぜ』と。


あのときのりおさんの弟子に断られたショックはいまも覚えている。道にたたずんでしまった。ちょうど目標が変わるころでもあり、やっぱこれもいい経験だ。そして清水駅前銀座仮装大会はどうなるのかだ。

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