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就職と東京

就職と東京


 高校を辞めた翌日、義父と鉄工所の見学をした。てっきり義父の仕事である土木作業と思っていた。仕事仲間の鉄工所が忙しく人手が欲しいらしかった。鉄工所か、とぱっと来なかった。工場で働くわけだし、どうせなら義父のところのほうが日光を浴びながら伸び伸び出来るのではないか、そう思いながら鉄工所に着いた。

 入り口から工場のなかを義父と並んで見た。目に光が余る溶接作業をする人がいた。

「見るなよ」

 と義父がいう。

「竹島さん、いま社長は現場に出てしまってて、帰るの何時になるかしらね」

 事務員の女性が義父にいう。

「ああそう、きょういるなんていってたからね、いいよ。ちょっと見学させて」

 事務員はうなずいた。義父の声はとても大きかった。

 長い鉄骨材を切断している若い人もいた。

「憲孝、あれは社長の息子だ。東海工業を中退したらしい。だから年令も一、二つ上じゃないか」

「ふーん」

 年令の近い者もいるが、社長の息子ではなと。

 鉄骨へオレンジ色に塗っているおじさんと、いまのところ事務員を入れて四人だ。それに社長では五人しかいない。それで人が足りなかったのか。でも義父のところも三、四人だったはず。

そっちも足りないのではないか。

「ここで働くの?」

 再度確認をすると、義父はうなずいた。なんとなく気が乗らなかった。工場よりもっとほかはないのかと思った。アルバイト情報誌やハローワークという職業紹介施設があるのは知っている。

でもこのときは高校を辞めることに反対せずに怒らなかった義父のいうとおりにするしかなかった。

 その夜、鉄工所の社長と義父が電話で話していた。そしてぼくは受話器を受けとる。

『内山です』

「どうも」

『いつから来れそうか?』

「いつでもいいです」

『じゃ、もう一度明日来てほしい。作業着など渡すから』

「はい」

 といい、九時に向かうことにした。というか、その日から働くこととなった。

 やはり社長を入れれば五人の鉄工所。ぼくが加わり六人になる。

灰色の作業着をもらうと着替えてみなといわた。そして溶接のバリとり、機械での穴空けを体験させられた。職場実習なのかと思っていた。

 午前で終わりなのかと思えば、弁当を支給され二階の休憩場でみんなと食べる。当時昼にやっていた『笑ってる場合ですよ!』を見たかったがそうとはいかずNHKだった。まったくつまらない昼食だ。午後も鉄の板へ穴を空けたり、ペンキ塗りをした。三時に休憩をとり五時まで同じ作業を社員のおじさんに教わりながら行った。

そしてぼくだけ帰らせてくれた。ほかの人たちは残業だよ、といっている。

 五時に終わり家に帰れればまだ楽だと感じた。学校では部活があり八時近くなる。だが翌日からは残業となり八時、九時に終わる。

十二月でとても寒くなり、残業となると作業着の下に服を一枚余分に着た。

 とても忙しいらしい。人がいないのに社長が仕事をどしどしとるようだ。昼休みにそれがわかった。でも愚痴をいえば一緒に弁当を食べている息子が伝えるのではないかとも感じた。それであまり残業の愚痴が出なかったのかとわかった。

 夜中の〇時まで仕事をしたこともあった。でも翌日は起きれなく休んだ。

「鉄工所もひどいな」

 と義父もいったが、それが改善されるわけではなかった。

 そして月末の給料日となった。途中からだったし休んだ日もある。だが残業で給料はいいのではないかと期待していた。

 暮れのクリスマスも残業で三十日まで働いた。世間は正月休みというのに。その日も残業で作業着のまま帰宅する。途中、電灯のある自動販売機で給料袋を開けた。すると九万しかなかった。

あれっ、と思い袋をのぞいた。もっとあるはずだ。十六日は出たし残業もやった。明細書を見ると、日給三千×十六日=四万八千、残業四万二千二百と。

 日給三千とはバカにしている。修行の身だからか。返事をしてなんでも仕事したはずだ。ぼくは心で罵った。くそっ、と。

 中学を出て働いているシオピンは最低五千円はあると聞いていた。

つまり日給だけで八万あるはず。あまりの給料の少なさに気力がなくなりペダルは重くなった。

 大晦日は漫才を見に行く約束をカニエイとしていたので東京に向かった。

『ザ・マンザイ』を新宿コマ劇場で見るつもりだ。ただ券がなかったのでその辺の人に聞いて頼み込む。すると松戸の人から二枚もらえてツービート、のりおよしお、紳助竜介、さんまなど見ることが出来た。初めて生で見たお笑い芸人たち。テレビとまったく変わらず、鉄工所の仕事を忘れカニエイと大いに楽しんだ。コマ劇場を見終われば急いで日本青年館へ向かう。九時からの生放送の券を当てて持っている。十二月の鉄工所で忙しいなか、大晦日のためにぼくはたけしをどうしても見たかったので応募した。それで当たった。

ちなみにコマ劇場の券はどこで募集していたのかわからなかった。

青年間の生放送は、コマ劇場とほぼ同じ芸人が出演する大晦日の漫才合戦だった。芸人は専用車だろうが、ぼくとカニエイ山手線まで走って飛び乗った。生放送には間に合った。

見終わって、こんな贅沢な日はないだろうと思った。二つの番組と生たけしを見たのだ。ぼくとカニエイは満足の表情を浮かべてねぐらである山手線へ向かった。

車内で一泊し元旦は新宿をうろうろしたり、渋谷へ行ったりとした。東京はとても魅力的だ。なんといっても大好きなビートたけしがいる。オールナイトニッポンをカニエイが録音している。それを聞くのも楽しみで、仕事後に何度と聞いていた。それでだんだんと芸人にあこがれていた。

せっかく高校を辞めたというのに、十二月はほとんど『おれたちひょうきん族』を見られなかった。それがなんとも残念だった。

夕方からまた日本青年館に向かった。カニエイが欽ちゃんの仮装大賞の券を当てたので観覧するためだ。

 今月は働いてリッチだったのでカニエイにカレーやハンバーグを奢っていた。彼は喜び、ぼくに話しを合わせて従ったりする。なんだか自分は偉そうになっていた。

 仮装大会は予想通りそんな面白くなかった。なによりたけしを生で見れたのがとてもよかった。

 帰りは鈍行の国鉄だ。いまではJR線である。

 大垣行きしかなかった。それは快速だったが、なんと清水を通り越して静岡駅にとまるという。どうするかカニエイと相談すると、それに乗るしかないという。ぼくが山の手線でもう一泊し、始発で帰るという作戦を伝える。

「またあそこで寝るのか、寒かったじゃん」

 たしかに横にはなれず、ポケットに両手を入れて座ったまま寝るのはしんどかった。駅へとまるたびにドアが開き風が入った。

 すると駅員が、

「ああ、山手線は大晦日だけたよ、夜中も動くのは……」

 というのではないか。となれば大垣行きに乗るしかなかった。

 ずっと寝ていた。あっというまに静岡に着くと、改札を出ずにここで始発を待つこととなった。リッチなわりにはせこい。

 カニエイはホテル代くらい奢れよ、と思ったのかもしれない。

だからコーヒーを奢った。そんなに金も持ってきていないのも事実だった。始発まで四時間はあったが、寒いなかホームで過ごした。

 始発で帰ると、その日は一日寝ていた。そして四日から仕事となるのだった。

 一月も十二月まではいかないが残業はあった。でも二月中旬には辞めてしまった。義父から少しだけ説教を食らったけどそんなうるさくはなかった。友人の瓦屋でアルバイトを募集しているので、そこで少し働いた。

大晦日で見たコマ劇場の漫才が脳裏から離れない。それにたけしのような漫才師になりたい。東京へ行きたいという願望が強まった。

瓦屋は現場仕事でよかったが、人手が欲しいときだけだった。

月、火曜、土曜という具合だったり、連続であるときもある。

その空いた日は一人東京に行っていた。そしてアルバイト情報誌を買ったり、アパートはいくらかと不動産を回ったり調べていた。

ぼくには都合のいい瓦屋だったけど、三月初めでぼくがいらなくなった。数日後、東京の新聞配達に面接をした。そこは寮があった。

それは、のりたか著の『あこがれの街』なので脚色もあるけど自伝的物語だ。無料なので一度読んでほしい。

 そしてどうしても東京に行きたいことを母と義父に話した。それはアルバイトをしながら漫才師の弟子になることをダメでもいいから伝えてみた。するとオッケーが出た。なぜかというと、一人になれば生きることの大変さがわかるようなことを義父がいった。

母はなにもいわなかった。そして母と東京に行きアパートを決めた。保証人がいないといけないからだ。当時たけしのラジオで話してしまった。四谷のどこかのアパートに住んでいるようだった。つまりぼくと母は四谷で降りた。向かい側の三階建てのビルに不動産屋があったのでそこへ入った。そしたら若葉町に格安アパートがあるという。ちょうど一部屋だけ空いているらしい。そして不動産の人と母とぼくで歩いて向かった。長い坂を下った。角のタバコ屋と食堂がつながっていた。そこが大家さんという。駅から十分ほどだ。

大家さんといってもメガネを掛けたおじいさん。その案内で食堂横の狭い路地を入った。

それはとても古い。築六十年は経っているのかもしれない。共同玄関の横に便所、その横に水道場だ。共同で使うようだ。

玄関に履き慣れたスニーカー、ほこりの被る革靴、サンダルなど雑多にあった。

大家さんが玄関正面の戸を引いた。そこに木枠の窓と四畳半の部屋がある。とても狭く、四人入れば満帆に感じる。

「ここが一万四千八百円の部屋です。それに電気ガス水道代を六世帯で割ったのが一カ月の家賃です……」

 と大家さんが壁に手をついていった。ぼくはこんな安いのはもうないと思った。

「お風呂はどこにありますか?」

 と母が聞いた。そうだった、風呂を気にしていなかった。

「ここからすぐ近くに若葉湯という銭湯があります。その横にコインランドリーもあります」

 もうここでいいと思った。なんといっても安い。

「ここでいいじゃない?」

 母が聞くと、ぼくは迷わずうなずいた。不動産の人もここより安いところはどこにもないといっている。

 大家さんも首を縦に振りにやりとした。

「それでは大家さんの食堂で契約書を書きましょう」

 不動産はすでに用紙を持っていた。ぼくの様相からして決まると思ったのだろうか。

 母がほとんど書いて契約した。そしてぼくは母に貯めていたお金を渡して、敷金一カ月、不動産手数料と来月の家賃を払った。とうとう東京に出ることで胸がわくわくしてきた。

「学生さんですか?」

 と、食堂のおばあさんが母に聞くので、

「ええ、専門学校のようなところです」

 なんとか母もごまかす。ぼくは高校も出ていないのに、三月という卒業の時期だったのがちょうどよかったのかもしれない。まだ十六歳というのに大家さんはぼくを高卒と思ったらしい。

 これでビートたけしに近づくことが出来る。これは本当に快挙だ。

残業の多い鉄工所にいればこんなことは絶対に出来なかった。

夢のまた夢だった。

 そして残りの日を義父の仕事を手伝いお金を増やした。ちなみに瓦屋、義父土木と残業は一切なかった。早く終わる日もあり、日給は保障された。義父土木は七千円もくれたので稼げた。最初から鉄工所ではなく、義父土木にしていれば辞めてなかっただろう。

 その分力仕事が多く大変なこともあったが、残業がないだけいい。

 鉄工所がまさか日給三千円とは思わなかった。それからは仕事をやる前に必ず日給はいくらか聞くことにした。

 四月三日の日曜に、義父のワンボックスに荷物を積んで二人で清水を出た。ちなみに一年前に買ったT学園指定の自転車も持って行った。


高校を中退していなければ東京へは当然行かなかった。もし卒業したら上京しないと思う。覚めたかもしれなかった。どっちがよかったかといえば、中退したほうだ。二年東京へ住み、様々な経験したから。

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