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小学校から親友のワタが

      ワタが


 体育祭も文化祭も終わってSBSの大会が近づいた。曲は夏の大会の課題曲と自由曲をやる。また嫌なことが始まった、と思えばそうでもない。気楽だった。すでに曲の進行と指のポジションをマスターしている。それに夏より力強く音も出るようになった。

 いま中部大会なら県大会に行けるかもしれないという自信もあった。

 クラリネットのOさんとはいまだに話していない。というか、相手のことを考えなければ、ワタのように気楽になっていた。A型のせいか、考えすぎもわるいのかもしれなかった。

 この大会でSさんと部活はお別れだ。先輩のために間違えないよう吹くつもりだった。

 合奏は自分でいうのもおかしいが夏より上手だ。本当に中部大会をいまやってもらいたかった。そうすれば県、もしや東海? 全国? それはないだろう。県で銀賞となって落ちると聞いたからだ。

 大会当日は普段の日だ。土日でもなく、学校を公認で早退出来る。

 二時間目で早退した。そして楽器運びとなる。ちなみにSBS大会は中部地区内で、なおもエントリーが少ない。たしか十二校くらいだった。毎度八中は優秀賞か最優秀賞らしい。つまり一、二位という。

 その日にそれを聞き驚いた。と同時にプレッシャーが少し出た。

 また思い込みだ。いままで自信が出たといったのに。ならあっけらかんとするしかない。顧問も『ホルンがよくなった』といった。

 もうミスはない、と思い込むしかない。

 毎年SBS大会は清水市民会館で行うという。それなら八中から近く、部員とともに歩いて向かった。

 楽屋で音を合わせ、リハーサルをし、そしていよいよステージに。

 このとき一位の重圧はなぜか消えていた。そして最初のソロはきれいに決まった。やった、と心で叫んでいた。合奏でも四人がこんなきれいに決まったことはない。

 Sさんのソロとハーモニーの箇所は、もう問題ない。

 そして袖に下がるとき、打楽器の仲のいい先輩が『やったな』と耳もとでいってくれた。ここでぼくはやっと認めてもらえた。

 打器の先輩は全国大会常連の高校に行き、武蔵野音大を出て音楽関連の職に就いたと聞く。そして歌手の平井堅さんの編曲もしたと知人から聞いた。中一のころスーツ仕立て屋の先輩の家に行けば、二階にグランドピアノがあって白鳥の湖を弾いてくれた。打楽器もすごいけど、ピアノも出来るとは目を丸めてしまった。

 その先輩と部長、ワタと会場で他校の演奏を見ていた。

 打楽器の先輩はいろいろ教えてくれる。あの中学は下手だ、ここはトロンボーンとサックスがうまいなど、評価も出来る人だった。

 そんな先輩から『やったな』といわれれば、ホルンの格が上がったのかもしれなかった。

 すべてが終わり審査である。

「……清水市立第八中学校、最優秀賞……」

 金賞や銀賞ではなくそんないいかたである。それは一位だった。

「やった、花金じゃんか」

 と、打楽器先輩。つまりこういうことだ。金賞でもダメ金があり、ランク的に花金は最上級で入賞となる。でもこのSBS吹奏楽演奏会の次なる県大会はなくこれでおしまい。つまり三年生が気分よく引退出来るように、顧問が考えて出場したのではないか。

 ぼくのホルンでも一位になれたのか。正直、ここではっきりと自信がついた。この大会がぼくを変えてくれたのかもしれなかった。

 それは小学四年生の面白いことをいってみたことと同じ。だんだんギャグに自信がつき、五、六年では即興でギャグをやってしまったり、給食袋でデストロイヤーの覆面を作りみんなを笑わせたりしたことと似ている。行いに失敗を重ねて成長していく。試行錯誤して人間は自信がついていくのだ。

 そしてその帰りに思いがけないこととなった。

 ワタと歩いて帰っていたら、突然Oさんがぼくとワタの前に現れた。前のほうを歩いていたのに待っていたようだ。瞬時にまた嫌みをいうのかもしれないと思った。

「浜崎君、きょうはすごかったね」

 いつもの老けた表情ではなく、にこっとしている。

「え、は、はい……」

 一体なんだと思った。

「きょうの演奏聞いたら、こないだいったことをわるかったと思って……最後だし気持ちよく謝っておこうと」

 頭を下げていた。

「いえ、いいんです。ぼくはミスったのは本当で」

 まさかOさんがそう来るとは、こっちが引けてしまう。

「いいだしっぺはわたしだし。でもきょうのなら県大会行けたわね」

 ぼくに笑った顔を向けたのは初めてだ。

「は、そうでしたか。ぼくも決まったと思ってました」

「その意気で来年もがんばってよ」

 というと、前に急ぎ足で向かった。ワタはその様子を横で見ていた。あんたっち、といっていたがワタは関係なかった。

「どうせ引退だからそのまま黙っていてもよかったじゃんな」

 とワタがいう。ぼくはうなずいたが、実はうれしかった。わざわざぼくへ頭を下げたのだから。Oさんは大会後にいったことを後悔したのだろうか。もし夏と同じくミスをしたら謝ってくれたのか。

そこを考えるとぼくの成長を知って謝ったと思う。たぶんミスではそのままなにもいわなかっただろう。

 その後、ワタはなにもいわなかった。そして部室で片づけをして帰りに最後のSさんにプレゼントを渡した。ぼくはワタと買いに行ったちょっとエッチな積み木の人形。ワタはカチューシャで、Kさんはハンカチだった。

 Sさんは笑みを浮かべ泣いている。それは怒鳴ってクラスを後にしたときの涙ではなく、心底うれしそうな涙だった。中学三年の女子なら、西城秀樹や郷ひろみがどうのこうのとアイドル歌手の話しをするはずだ。でもそんな会話はまったくなく、うちの担任はあーすればいいのに、こうすればいいのにと、フルートの友人との会話を聞いたことがあった。常にまわりのことを考えている古風な先輩だった。姉というより、だれかの母のようでもあった。そんなSさん、保母さんになるといっていた。彼女なら子供たちもいいことを教わるに違いない。

ぼくではとても入れない優秀な高校を卒業し、成人してから風の便りで聞いたけど、保母さんになったという。芯の強い彼女だから出来るのだ。

そして次のパートリーダーをKさんと決めて引退をした。ちなみにワタが三番でぼくが二番の予定だった。

 年が明けてそれからというものの、部活は大会もなくそれほど忙しくない。ニューフェイスの大会へ出場するかと顧問は一旦はいったが、結局出場はしなかった。このころワタがサボろうとよくいってくる。

「一番暇だし、大会もないいまの時期ならサボってもいいだろ」

 という。ぼくもそうだなといい、一緒にゲーセンへ向かった。

 当時インベーダーゲームが流行っていて、ぼくも熱中し始めていた。

 そのころになるとワタのいうように、いつのまにか楽譜が読めてもいた。簡単な音符の長さはわかる。例えば二分、三分、四分、八部、十六分音符などは理解した。休符と三連符、拍子が変なのはよくわからなかったりする。でも時期が来れば徐々にわかると自信がついていた。

 Sさんもいないし、Kさんと三人でパート練習かと思えばワタがいなかったりした。ぼくは単独では休まず、ワタと休んでゲームに行く。だんだんワタは連続で休むようになった。

そんな二月の土曜日に事件が起きた。

 基本的に土曜は顧問が来て合奏する。そして日曜がいまのところ休みだった。

 いきなり先週渡されたばかりの曲をやるという。一週間で出来る曲なので来週合わせるといったような気もした。

ぼくは困った。まだ階名を振っていない。それに今週は三日もインベーダーゲームをやりに行ってしまった。その楽譜は少しホルンのソロがあった。こんなに早く合奏するとは思わなく、まったく練習していなかった。そして合奏したとき、ぼくはほとんど吹かなかった。ワタはところどころ吹いていた。顧問はホルンが小さいといっている。そして、

「……浜崎と渡辺立ちなさい」

 なぜ部員の前で立たないとならないのか。ぼくは恐るおそる立った。ワタは堂々としている。

「おまえっち練習したのか?」

「……はい」

 ぼくは小声で答えた。

「うそをつけ!」

 顧問は声を張った。

「……」

「おまえっちサボってるだろ、この前見に来たらホルンは一人しかいなかったからKに理由聞いてわかった。まったくなに様だと思ってる。部員じゃんか」

 ぼくはうつむいていた。顧問は続ける。

「せっかくホルンに男が入ったから力強くなると思っていたんだ。もういい、お前らのやる気を聞く。渡辺、この先やって行けるのか」

 ぼくは左を向くとワタは顔を上げている。

「……辞めます」

ぼくは目を見開いた。なぜそんなことをいうのか。

いままでワタに何度も助けられたというのに。

「浜崎はどうする」

「……やっていきます」

 ワタを見ると、ぼくをにらむような表情をした。小学三年時代にワタと学校をサボり、戸川先生に尋問を受けたときのようでもある。

でもあのときワタは、ぼくが誘ったことを絶対にいわなかった。

いまの尋問では、ぼくが部活をやめるというと思ったのだろうか。

そんな目だった。

「浜崎はやるんだな」

「はい」

「もう一度聞く。渡辺はやるのかやらないのか?」

 ぼくは、やる、といってくれと心で祈った。

「辞めます……」

 その声はもうぼくと目を合わせなかった。ワタの性格上、一度いったことは変えない。このときもそうだった。

小学校一年六組から六年三組まで同じクラスだったワタ。中学は違ったけど部活が一緒で二年後にはワタが一番ホルンと思っていた。

春休みに行かないと楽器がなくなるよ、ハマヤンもホルンやろう、といったこと。特訓前にワタへ楽譜を読めないことを話すと、ハーモニーの箇所へ急いで音符の長さを振ってくれたことが脳裏に浮かんだ。

「浜崎は根性があるな……」

 と顧問がいったが、ぼくはずっとワタを見ていた。そして部活を終えてワタのところへ行くと、『きょうは一人で帰る』と小声でいわれ、ぼくは立ちすくんでしまった。本当にやめるのかと聞きたかった。でもいままでを振り返れば、ワタは辞めてしまうだろう。

 その日ほど悲しいことはなかった。これからワタと遊べないのか、今後彼からムシされるのではないか、そう思っていた。

 翌日の日曜は、ワタの電話を待った。それはゲーセンへ誘う電話を一日家で待っていた。月曜に部活へ行くと、ワタのホルンはあるけれど、席にはいなかった。その後は二度と部活へ来なかった。


      その後のブラバン


 三年が卒業し、ぼくは中学二年になる。春休みは小学校の金管バンドの子がブラスバンド入りたいと練習に来ている。ホルンはぼくとKさんの二人しかいない。そしてKさんにいわれた。

「はまじに三番頼むよ、先輩になるから」

 いきなり三番だ。正直、音楽歴一年の自分が大昇格ではないか。

 野球でいえば八番あたりから四番バッターを打つのに匹敵するのではないのか。

てっきり二番でもいいと思っていた。でも経験者の一年がいきなり三番ではおかしいとKさんはいう。そしてホルンにワタが金管バンドで吹いていたアルトホルンの女子Нが入部希望といってきた。

見たことがあり、ワタの横で吹いていた女子だ。

「あの、渡辺さんは?」

 辞めたことを知らなかった。

「辞めちゃったよ」

 ぼくがいうと、Hはまさかという表情をして口を手に当てていた。

あと一人入らないと四人そろわない。その後、金管バンドからホルンへは入らなかった。どうするのかとKさんに聞いた。

「なんとかなるよ」

 と、あっけらかんといった。Hはワタと同じ経験者なので覚えが早く二番を担当だ。

 ぼくはといえば、一年前とはくらべものにならないほど楽譜が読めて、夜の解読は終わっていた。そしてずっと四番がいないまま一カ月がたった。

そのころ同学年の女子Aがホルンへ入ってきた。Aはエレクトーンの経験者だ。ブラスバンドより器楽部のほうが合っていると思った。たしか卓球部だったが、一年で辞めたらしい。それでブラスバンドというのもすごい技だ。それもホルン。楽譜は読めてもバジングからで、Hより下になるはずだった。でもKさんは、

「本当はHさんが二番だけど、二年のAさんを二番にするわ」

 ぼくはおかしく思ったが、自分も二年になり三番をもらえた。

なんともおかしな仕組みだ。全国大会の常連校は一年であろうが三年生だろうがオーディションだ。そのシステムなら理解する。 

そうなると音楽歴一年ではまた四番だったかもしれない。新入生がホルン経験者なら補欠になりそうだ。

 そして課題曲と自由曲が決まり、ぼくはパート練習に入る。ワタはいないくなったが、もうホルンに自信がつき、三番を演奏した。

結果だけど、中部大会突破し、県大会で銀賞。そして三年では一番ホルンとなり、県大会で銀賞だった。本当はワタの席だったのにぼくがいた。でもそのころにはもう、ワタのことが頭になかった。

ぼくがリーダーとなってSさんのようにはいかなかったが、一年生をワンツーマンで教えていたからだ。

 一年の音楽成績は三だったが、二年で五、三年も当然五だった。

 たまに高校生となったOBが現れる。そのなかでよくSさんが来た。『はまじがファーストとはすごいね』といっていた。たしかに大昇格だ。

垂れ目のショートヘヤー、洒落たことをせず古風な感じは変わらない。後輩たちに世話になった先輩と紹介したら照れていた。

高校のブラスバンド部には所属しておらず、茶道部に入っているらしい。まさにそれが合っている。

「Sさん、久々に吹いてみる?」

 と、パート練習のときにぼくのホルンを吹かせてみた。すると、ぼくの初期の音。

「……もうダメだ、鳴らないわ」

 なんとか鳴らそうとバジングで吹いている。

「唇がダメだね、もっと広げないと」

 笑いながらいった。Sさんから入部当初にいわれたことだ。

 後輩たちはその様子を見ているが、知らない先輩なので退屈だろう。ぼくは休憩をとるようにした。

 Sさんは何度も吹く練習をしていると、それでも鳴りだした。

「鳴りましたね」

 といえば、基本のロングトーンを繰り返す。そして三年のときの自由曲を吹こうとしたが鳴らず、代わりにぼくが吹いた。

「へー、はまじもうまくなったね」

「だって特訓やったし、それにもう一番だし」

 こんな具合の会話だった。Sさんに教わったのでいまの自分があることをいったと思う。

 その後、どんな曲でもすんなり吹けるように成長して卒業した。

 その数年後、清水区立第八中学校吹奏楽部は思いもよらぬ大快挙を達成した。

 ぼくが中学を卒業すると弟が入学した。ぼくは自分から入ったのに、弟は兄のようにやれと母にいわれたらしく、渋々ブラスバンド部へ入った。担当は弦ベースだ。なぜそれになったかは知らないが、大きな楽器で運ぶのが大変だっただろう。エレキベースなら楽だが、弦ベースでは背丈はあるし重さは二十キロほどある。

 当時ぼくは東京にいて様子を知らなく、友人が手紙で知らせてくれた。弟が二年のとき東海大会出場し、三年では東海突破した。

 つまり全国大会へ初出場する。これには耳を疑うどころではなかった。吹奏楽で全国大会に出る道のりは高校野球なみである。

 どっちかといえば高校野球のほうがつらいけど。顧問はよくあと数年で八中を去らなければならなく、一度は全国へ行かせてやりたいとぼくの代でいっていた。それだけ自信があるらしく、過去に由比中学のブラスバンド小編成を全国大会へ導いたようだ。

 そんなやり手の顧問だ。八中を本当に全国大会に出場とは心底驚いた。ぼくの代で午前中のみの練習だったが、弟のときは丸一日やったと思う。それだけ練習しないと全国には絶対行けない。テレビ番組『笑ってコラえて!』の吹奏楽の旅で見た人はわかると思う。

 ぼくは一応T高校へ進学した。でもそこのブラスバンド部の人数の少なさと、あまりの下手さに入るのをやめた。たぶんぼくの初期段階のような部で、遊んでやっていける楽しい部活の感じ。

そのときは遊んでやりたいとはまったく思わなかった。それだけ八中のブラスバンドで鍛えられていた。


一年生のときは毎日はらはらしていました。楽譜を読めなくブラスバンドへ入る人はいませんでしたから。でも二年生になったらそれでも読めるようになりましたね。ただワタを失いました。彼はどうしているかな? 二十代後半のとき、家の近所で会い、そのときには髪が薄っすらとしていました。もう頭が? それならいまはよりもっと……。といってもぼくもかなり薄いです。まだ続きますので、よければ読んでくれればと思ってます。

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