吹奏楽の中部大会
中部大会
とうとう初めて大会を迎えた。小学六年でトロンボーンにあこがれ、四月に楽譜が読めずに入ったブラスバンド。わずか四カ月でそれでも少しは読め、楽器も吹けるようになった。それも大会に出るメンバーの一員である。
あとでわかったが、全国大会クラスでは部員が多く、オーディションを行うらしい。それを聞いたとき、ぼくは余裕で四番ホルンを落ちただろう。
そして東海大会クラスになると、中部大会の免除もこのときSさんから聞いた。いきなり県大会から出場なら楽だと思うが、ぼくのような下手なホルンは東海大会のメンバーに入れないとも感じた。
ぼくの通う八中は県大会まで行くようだけど、東海は行っていないとそのとき初めてわかった。
楽器は前日、顧問の知人のトラックへ積んだので個人で持っていかなくてもいい。部室のある三階から打楽器を運ぶのは、一年が主に運ばなくてはならなく大変であった。
大会は静岡市の駿府会館だ。出番は十時半ごろなので学校に七時に一度集合し、そこから各自電車や親の車で行くことになった。
ぼくはワタとホルンメンバー、フルートメンバーと電車で向かった。Sさんとフルートのリーダーの仲がよかったからだ。
八時ごろ駿府会館正門に集まり、近くの小学校の教室でリハーサル。そして打楽器だけトラックに積み楽器の移動。金管と木管は各自運ぶ。打楽器を駿府会館の搬入口から徐々にステージ袖に移動させておく。
「クーラーが聞いているからチューニングが狂うから、管に息を入れておけ」
と顧問からの指示。そして会場の会議室で最後のチューニングを合わせた。辺りは楽器を持つほかの学校の生徒がいる。打楽器の移動や緊張する表情の部員たち、出番が終わったばかりの部員たちがいた。
ぼくは初めてのことでまったくなにがなんだかわからず、ただその様子をマウスピースに息を吹きながらうかがっていた。
ステージで演奏する中学は、四曲から選ぶ課題曲は八中と同じ。
なんとなく上手に聞こえる。自由曲は知らない曲が流れた。
次の出番となると、だんだん緊張してきた。舞台袖で様子を見ていると、照明でとてもステージが明るい。もしミスをしたら顔がわかってしまう。そう思っていると、事故をしたときのように両足が自然と震えてきた。
「ワタ、大丈夫かな」
緊張を隠すため、譜面台を持つ横のワタに聞いた。
「ハマヤン初めてだもんな、だけど大丈夫だ。指揮を振る顧問だけ見て会場は見ないほうがいいよ」
ワタはニヤッとして涼しそうにいった。なぜそんな状態になれるのかと。
そしてステージの演奏が終わった。会場は拍手が鳴り響いた。
ぼくは最高潮に胸の鼓動が伸縮した。
舞台の照明が落ちた。次は八中の番だ。ホルンと譜面台を持って舞台に向かう。ぼくはホルンのいすに腰掛け譜面台を高めに調整した。顔を隠すように。でもそうすると一人だけ譜面台が高くなりSさん、ワタ、Kさんと均等がとれていない。これはダメと思い均等に直す。会場を見ると人がたくさんいた。演奏を終えた生徒も見ているらしい。駿府会館は横に広い会場だ。この人前でぼくのホルンを吹くのかと思った。ただ足の震えは袖にいるよりなぜか治っている。
そして白いスーツを着た顧問が指揮棒を上げた。まずは課題曲で、ぼくはマウスピースに唇をつけた。
小さなミスはかなりあったが、一曲終わってやれやれとはいかない。譜面をジュビラント序曲にする。ハーモニーの箇所以外はほぼ暗記している譜面だ。階名、音符の長さ、小節番号や鉛筆で『だんだん小さく』、『思いっきり吹く』など書いてあり、譜面は真っ黒に近かった。二曲とも高い音をよくミスする。いまもそうだ。唇と吹き込む肺活量の調整がまだ慣れていなかった。
そして顧問が指揮棒を上げた。最初のホルンソロをいきなり外してしまった。
当然Sさんは気がついている。せっかく特訓したのに。
顔は熱くなった。ミスと緊張で会場から見れば赤いタコがいると思うだろう。小学校時代の町内ソフトボール大会で、バッターボックスに入ったぼくは、相手のチームに『タコだ、へーい、タコタコ』と野次をいわれ、頭に来てしまった。それを気にし過ぎてしまい三振した。まんまと相手の作戦にはまった。いまぼくはその三振のタコになっている。この場から消えていなくなりたかった。
ハーモニーの箇所は高い音ではないので、ワタとと特訓のおかげでぶじに通過した。
終わると譜面台を持ち袖に下がる。みんないい顔をしていない。
Sさんも。ぼくのせいかもしれない。それは小さなミスとはいかなかった。
「ワタ、やってしまったよ」
みんなは楽屋となる会議室へ向かうのに、ワタと舞台袖へ立ちどまった。
「最初のとこだよな、おれもミスったよ」
「ワタは小さいでしょ、ぼくはみんなにわかったと思うし」
ぼくはゆっくり歩きだす。会議室には部員がいて、なにをいわれるかと怖気づいていた。
「気にすんなよ、ハマヤンだけじゃなくほかのパートもミスってたから。リードミスがあった」
「そんなのわからなかった」
よくリードミスというが、ぼくにはまったくわからない。必死でホルンの音を出しているのもあるからだった。
ぼくとワタが会議室に入ると、静かだった。Sさんのところに向かった。
「ミスしてすいません」
ケースにしまう前に楽器を拭いている。
「そんなことない。初めてだし緊張していたでしょ」
怒りはしないと思っていたが、なだめられるのも余計よくない。
「……」
ぼくはうつむいていた。
「わたしだって、ソロのところやってしまったわ。聞こえた?」
それどころではない。ハーモニーの箇所で聞いてはいられなかった。
「いえ、Sさんは間違っても気にならないのですか?」
もし間違えていたなら、落ち込むのではないのか。ホルンをケースにしまい立ち上がった。
「いい、わたしは三年よ。いままで大会で何度もミスして来たの。それをいちいち気にしていたら、次の大会もミスるの。だから終わったことにはくよくよしない。はまじっちはまだあと二年間も大会あるのだし、これは経験でまたがんばればいいの、わかった?」
真顔でいっている。くよくよ気にするなといっても。
「……はい」
と返事はする。それでもSさんがそういってくれたなら、ぼくも早く忘れようと思った。ここまではよかった。
そして打楽器の先輩にワタ、トロンボーンの先輩と会場で観戦をした。そのころ打楽器、トロンボーンの三年先輩と仲がよくなっていて、部活後に遊んだこともあった。
夕方、すべてが終わり審査発表だ。金賞をとらないと県大会には行けないという。そしていよいよ次だ。
先輩たちは、ぎりぎりで金だろう、といっていた。
「……清水第八中学校、銀賞……」
「えっ?」
「まじで?」
と声が聞こえた。ぼくはやっぱなと思った。
そして自分のミスが募って胸が痛みだしてくる。
先輩たちは席を立って帰りの身支度をしている。
ぼくはワタに近づいた。
「ワタ、どう思う?」
「これでやっと休みになった、残りの休みはゲーセンに行こうぜ」
と、のんきなことをいっている。自分のミスが先輩たちを落としてしまった。そんな感情をじわじわとわかせてしまった。
そして帰りの電車だ。女子の声でホルンがどうのこうのと聞こえた。ぼくは地獄耳になり、だれがいっているのか中腰で見渡した。
それはクラリネットのリーダーOさんだった。一緒に話しているのもクラリネットの三年女子だ。そのころのOさんは、練習に厳しいと噂がたつほど。こういってはなんであるが、中三とは思えないくらいに顔は老けている。天然パーマのショートヘヤー、色白でそばかす顔、細い目はつり上がり、見たことはないが骨川筋衛門という感じ。
「ワタ、ホルンのことクラリネットの先輩らがなにかいっているけど」
「いわせとけばいいら、気にするなよ、明日ゲーセン行けばすぐに忘れるって」
「そうかな、ぼくのこといわれているようで、気になるよ」
私鉄電車に揺られながら小声で会話する。
「ずいぶん弱気だな、ハマヤン自分を考えてみろよ。夜は楽譜の自習までしてるんだ、すげーよ。クラリネット部員がそんなことしないだろ」
たぶんしない。なぜなら楽譜を読めるからだ。それにクラリネットの楽譜を見たことがあるが、真っ黒の譜面だった。十六分音符の連続で、クラリネットに入っていたら、完全にOさんから見えない制裁を食らっていただろう。小学三年では暴力の制裁だったが、ブラスバンドでは女子からムシされたり、陰口が多々あると思う。やはりSさん、ワタのホルンで正解だった。
中学に近い狐ヶ崎駅を降りて、学校まで歩いて帰るときのことだった。
ぼくとワタは歩いていると、クラリネットの二人が後ろにいた。
「金賞とれなかったのは、あんたっちのせいだからね」
ぼくの背中にOさんの言葉がグサッと刺さった。ワタは振り向いたが、ぼくはそのまま歩いていた。気にするな、とワタの声が聞こえたような感じ。ぼくの顔は、サッと血が失せているように凍っていた。『あんたっちのせい……』といったが、実はぼくにいいたかったのではないのか。『あんたのせいだからね』と。
たまたま二人がホルンだったからそういったのかもしれない。
そしてその二人はぼくらを抜いてさっさと歩いて行く。
その様子を三年のトロンボーン先輩が見ていたらしく、よって来た。ちなみにこの人は部長であるが、いろいろと面白く楽しい人だった。
「あいつさ、くそ性格わるいから気にするなよ。なんでも口に出すタイプだ」
というが、まさに自分のことをいわれ、精神的なダメージを味わっていた。もし自分がクラリネットならこんな感じで苦しめられるのかもしれなかった。
その日のぼくはショックのまま帰った。翌日は楽器の手入れをしたり、部室の掃除で休みにならなかった。でもその翌日からは半月ほど休みになった。それからというものの、Oさんと話したり、ぼくは立場上あいさつをするが、向こうからのあいさつはなかった。
ぼくのほうもミスを忘れるようになっていた。でも三年はそれで引退ではなく、十一月の大会までいるのだ。Oさんとはまったく話さない日々は続いた。
Sさん
大会が終わって、九月から文化祭、体育祭の練習をするようになる。ちなみにここから大会ではなく顧問は厳しくない。
当時の流行曲の『水色の雨』、『しなやかに歌って』、『パープルタウン』、『銀河鉄道スリーナイン』など。結構むずかしかったけれど、楽譜解読の練習になり、このころになると解読も楽になっている。
日々の成果が表れていたに違いない。
ある日のことだった。その日はパート練習となっていたが、リーダーのSさんが来ない。教室もメトロノームもとってある。
Kさんが、
「わたし教室見てくるかな?」
Sさんは三年四組だ。その組といえば、小学校のときをなにかと思い出してしまう。しかもSさんの四組の担任は戸川先生と似ているY先生だ。ピンタはするし威張るという。一年であるぼくにもその噂は入っている。
毎日帰りのホームルームは反省会をしないとならないと、Sさんから聞いていた。まさに戸川先生首謀の恐怖クラスだ。
中学になればそんな先生はどこにもいるのかもしれない。生徒の体は大きくなるし、先生も威勢を張っていないとならないのか。
「Yのクラスだから説教じゃないか?」
ワタは戸川先生でも思い出したのか、目を細めていう。
「そうだ、ベランダから見よう」
とKさんがいったので三人ベランダへ出た。だが四組は窓がすべて閉まり、なかの様子はわからなかった。
そしてずっと見ていると、ドアが開き体操着姿のSさんが飛び出した。それも両手で顔を覆っていた。
「なんだ、Sさん、どうしたのかな?」
ぼくはワタに向けた。
「なんかやったのか?」
「いいの、じゃ、Sさん来るから、三人で曲を合わせてましょう」
と、Kさんはメトロノームのゼンマイを巻いた。
それから十五分練習した。まだ来なかった。
「どうしたのかな」
とKさんもいっている。ぼくは部室かと思った。でもいつもの教室でやるといっていたので知っているはず。
そしてドアが開いた。
体操着のままの目を赤くしたSさんが入った。
「ごめんね、遅刻しちゃって……」
笑っているが、目は赤く泣いたのがわかる顔で、不釣合いだった。
Kさんが聞く。
「どうしたの?」
「ちょっとね、クラスで揉めごとみたいなことで。じゃ、ロングトーンからやりましょう」
といい、横のワタの音でチューニングを合わせていた。ぼくは思った。ただならぬ気配が起きたのかと。Sさんだけクラスから脱走? みたいな。
三十分やった練習は一段落し休憩をとった。大会前とは違い、ゆったりとしたペースの部活となっている。部活の開始をここから始めればつらい思いをしなくてすむのにと感じた。
Sさんは教室に着替えに行くといい出ていった。でも表情は厳しくなり、垂れ目がつり上がるように見えた。
練習の教室は部室と同じ三階であり、Sさんのクラスは向かい側の校舎の三階だった。ベランダで様子は見える。でも彼女にのぞいていると思われるので窓から見ていた。そこからSさんの四組は、出入り口のみ開いているのがわかるだけ。
Sさんが入った。ぼくとワタはその様子を見ている。
なにかあったようだけど、Yのクラスでは厳しい先生だから、戸川先生と同じくなかなか帰してくれないのだろう。思い出したくもなかった小三時代の担任がSさんのクラスにいるようなもんだ。
どうも四組のクラスはだれもいないような感じがする。それかY先生だけかもしれない。Sさんはなにかを伝えに行ったということか。
「ハマヤン、明日プリカン行かない?」
ワタはSさんのことなど気にしていない。プリカンとは安いゲームセンターで中学生には人気があった。でも大会が終わっても土曜の午後は部活と決まっている。
「部活あるじゃん」
「そうだけどさ、サボろうかなと」
「えー、なんで?」
「最近顧問もそんな来ないし」
Kさんを見れば黙々と練習している。
「たしかにそんな来なくなったけど……」
なぜワタはサボるというのか。ぼくはようやく楽譜やホルンに慣れて少し自信が出ているというのに。
いま部員は大会が終わり、気分的に楽なはずだ。体育祭などの歌謡曲を練習している。三年生は十一月に行われる、SBS静岡新聞主催の吹奏楽演奏会まで引退出来なかった。よその部活は受験に備え夏で引退している。だからブラスバンドのみ三年は部活があるのだ。
窓から四組を見ると制服姿のSさんが出た。
ぼくはワタに伝えてパート練習のいすに座り楽器を持った。
「ごめんねー」
といいながらSさんが教室に入った。そしてKさんがメトロノームのゼンマイを巻いた。
「じゃ、やろうか」
練習再開となった。
そして土曜は練習に出た。なぜなら顧問が来て合奏するからだ。
ワタは休んだが、ぼくが勝手に頭痛とSさんに伝えた。一年でよくサボるのはバリトンサックスのNだ。
その日の一年欠席はその二人だけだった。このNとぼくは仲がよく、サボるとぼくのところに来て『顧問や部員はなんかいってた?』とよく聞いてくる。サボるのだったら堂々サボればいいし、そんなに気になるなら出ればいい。
翌週の朝、唇を常に保つためにぼくは朝練に出ていた。この朝練は自主的であり、出る人はほぼ決まっている。トロンボーンの部長とフルート、クラリネットの少数、打楽器の少数とたまにSさんとよく出るぼくだった。ワタはまったく来なかった。
そのとき、部長がぼくを呼んだ。
「はまじ知ってる?」
ぼくはマースピースだけを持ち部長の横の席に座った。
「なんですか」
「こないださ、Sさん泣きながらY先生にいったらしいよ。いい加減部活に行かせてください。後輩が待っているんです、といって教室飛び出したんだと」
「あっ、金曜日だ。でもなぜ知ってるんですか?」
あのときSさんはクラスの揉めごと以外なにもいわなかった。
「フルートに聞いたよ」
そういえば同じクラスだった。
「すごいよなSさん、あのYに怒鳴ったようだ、おれには出来ない。反抗すれば殴るしな。クラスメートのだれかが生徒のサイフから金を盗んだらしい。それをYが追求していたらしい」
つまりぼくが戸川先生に反抗したようなものか。いや違う。ぼくは逃げていただけ。Sさんはバンビーのメスなのに、オオカミへ立ち向かったということだ。とても度胸のある後輩思いの先輩だった。
「それで泣いて来たのか……」
彼女はぼくやワタのことを待たせていると思ったのか、とても後輩のことを大事にしている、ぼくは鳥肌が立ち、ジーンと来ていた。
Sさんと一緒のパートで改めてよかった。