三年四組その五
転機の四年生
九月下旬からぼくは学校へ通いだした。十、十一、十二、一、二、三月をそれでも休まなかった。
ワタとあれほど学校を辞めたがっていたのに、なんとか通った。それはおばさんのいった四年に進級するため。
そして三月三十一日の離任式に衝撃が走った。
それは入江小学校を去る先生のなかに戸川先生がいたからだ。
クラスメートは驚いている。そんなこときょうの朝の会では一言もいわなかった。春休みじゅうに決まったのか、とだれかがいった。でもそれなら連絡網で知らせるのではないか。
ぼくは思った。たぶん隠していたのだろう。
あれほど厳しいことをやった先生だ。ウイスキーも飲ませたし、ぼくへは何度もピンタをした。児童相談所だって行ったことだ。
そんなことが教育委員会にばれて転任となったのかもしれない。
ぼくは内心喜んでいた。これで四年は戸川先生ではなくなったからだ。
最後はクラスに来て、先生を囲んだ生徒もいるが、ぼくは席でその光景を見ていただけ。
「そうなったから、一年間いろいろありがとうな」
と最後にそんなことをいい、茶色いサングラスのようなメガネとって涙を流した。
ぼくがわるかったかもしれないけれど、どれだけ嫌な目に合ったか。でもプールへ入らなくていいと変わったときから、本当の先生ではなくなった感じだった。
給食を早く食え、背筋を伸ばせとはいうものの、三学期のリレー大会では戦法をなにも話さなくなっていた。たぶんぼくが休んでいる間、校長や教育委員会にきつくいわれたのだろう。それで本来の戸川流のやり方を途中から失せてしまったのかもしれない。
いま思えば、入江小に来る前はどこにいたのだろうか。そこにぼくのような生徒はいなかったはず。こんな生徒がいたならば、入江小であれほど厳しい、鬼のやるようなことは絶対に出来ないからだ。つまりやる気満々の先生のスイッチが切れたということ。
どこの小学校に行ったかはわからなかったが、そこでは鬼の教育方針はもうやらないだろう。ぼくはそんな気がした。
そして四年に進級出来た。
組も生徒も変わらないので、ぼくの恥ずかしい過去を知っている。ただ先生は知らないと思っていた。ぼくもバカだ。そんなことは、過去の態度などの書類が時期担任に配るのに。
ぼくはどうしても三年生の過去が気になっていた。暗い自分を変えようと毎日思っていた。
担任は女性の先生で厳しくはないし余裕だ。
このころテレビで流れていた『八時だよ、全員集合!』のドリフターズのコントがとても好きだった。新井注、志村けん、加藤茶が特に好きだ。ある日、なにかの授業で教科書の本読みをするよう指された。
「浜崎君、大事なところへ赤ペンを引いといてね」
ペンで思いつくのはこれだった。
「赤ペン、赤ペン、ディスイッザ、ペン」
といってみると、爆笑ではないが生徒が笑ってくれた。そのときだ。なにか気持ちがうきうきして自分も面白くなった。なにか心地よくて気持ちもいい感じだった。これはいい、とそう思った。
いままでの暗い自分はなんだったのか。ドリフターズみたく人を笑わせることが、ぼくには合っているのかもしれない。それからは、少しずつクラスメートを笑わせたら、やがて友だちも増えていった。
そして水泳のこともある。あれだけ鼻に入ってゲボゲボしていた自分に天の恵みを受けた。
先生はプールサイドでぼくとつきっきりで指導してくれた。
顔をつけないけれど、平泳ぎで十メートル泳げた。そして顔をつけて息継ぎの練習もつきっきりで教えてくれた。すると、一学期の終わりにはクロールで十五メートルも泳げるようになった。
なんでだろうか。ぼくの努力が実ったということだったのか。
ちなみに松島たちは四年になっても泳げなかったので、脱走したぼくだけ、泳げるチームに足を片方入れた感じだ。息継ぎのタイミングさえ覚えれば、もっと泳げそうと実感をした。
このとき女性の先生はぼくの脱走や、泣いたことを知らないはずだ。だから去年の自分を隠せたのだと、安心をしていた。ただなぜぼくにつきっきりかはわからなかった。
次々に水の恐怖がなくなっている。飛び込みはまだ出来なかったが、これもタイミングとやり方を覚えれば絶対出来ると、自信がわいていた。
そして九月下旬にはプールが終わった。ぼくはまだやりたかった。不思議ともっと泳ぎの練習をしたくなっていた。一年でこれほど変わるとはぼくは思わなかったけど、なにか見えない力が入ったのかもしれない。松島たちが口を開けて見ていたのはいうまでもなかった。
「水が怖くないの?」
水泳が終わって帰り道で松島が聞いた。
「怖かったけど、クロールで進めるようになったら、だんだん怖くなくなったよ。松島も先生につきっきりで教えてもらえばいいかもしれん」
「たぶんダメだ。そんな顔をつけるだけで嫌だし……」
といっていた。個人差があるかもしれないが、ぼくが泳げているということ自体がとても不思議らしい。クラスメートは、はまじに一体なにがあったのか、というような目で見つめられていた。
ワタも『すげーなー、なんでだ?』と聞いてきたが、ぼくは先生が変わったからかもしれないといった。
もし三年で女性の先生なら、果たして泳げたのかと疑問も出る。
たぶん泳げなく嫌々松島たちのように四年も水を怖がるだろう。
三年で脱走したり、逃げ回ったり、団地のおばさんに出会えたことで、四年生は気持ちが変わり泳げたのかもしれない。
三年生はマイナスの転機が起きたけど、四年生は生まれて初めてのプナスの転機となった。
そしてクラスの変わった五年生ではもっと面白いことをいったり、水泳はとうとう二十五メートル泳げるようになった。一気に成長した学年だった。ちなみに六年生では五十メートル、いや七十五メートルまで泳げるようになり、担任がみんなの前で披露しろといわれ、飛び込みつきで二十五を泳ぎきった。このときなぜみんなの前で披露するのか疑問だったが、いまから考えれば五、六年の担任もぼくの事情を知り尽くしていたのだった。
金管バンドにあこがれる
四年生のときから金管バンドというクラブがあった。そのときは新しいクラブが出来たくらいの思いだった。
五年になり担任がそのクラブの指導者だったせいか、生徒をクラブ加入へ誘っていた。そのとき入っていれば、あとで楽譜解読の苦労はなかったのだろう。
ぼくは興味なかったので断った。だが、ワタは入った。楽器はアルトホルンである。どんな楽器かといえばチューバを小さくした感じで、かっこはそれほどよくもない。
ワタは楽譜を読めなかったはずだが、放課後や土曜の午後も練習があるので、よく入ったなと感心だった。
マーチングバンドといって、グラウンドを歩いて楽器を吹く練習もしていた。教室から見入っていると、それはけっこう大変そうだった。
六年になったころ、何度もマーチングバンドを見ていると、腕を上下で操る、細長い金管楽器がかっこよく見えた。
それはトロンボーンという。その楽器奏者がクラスメートに三人もいた。あれならやってみたいと思ったが、その楽器は四人いるし、だれかがやめなければ募集はない。まして三人は六年だ。一緒に卒業もする。
ときおり担任が『浜崎はよく練習を見てるな、入りたいのか?』といわれたが断っていた。いま入っても打楽器になるとワタがいったからだ。
月曜の全校朝礼では金管バンドの演奏があり、トロンボーンばかり眺め、かっこいいなー、吹いてみたいな、と思っていた。
六年の秋ごろ、ワタのつきあいで楽器屋に行くことになった。
アルトホルンを手入れする、洗剤のようなものを買うためだ。
そこの楽器屋には中古の楽器も売っていて、なんとトロンボーンが二万円で売っているではないか。二万なら正月のお年玉と貯金で手に届きそうだ、そう思っていた。ほかにはトランペットやフルートでトロンボーンは一体だけだった。
「ワタ、あれ二万だ。どう思う?」
「やめといたほうがいい、絶対おぜーよ、二万じゃーね」
ぼれー、おぜーは静岡弁で、よくないという意味。ぼくはなにがおぜーのかさっぱりわからないので、
「どうしておぜーの?」
すると、ぼくには理解不能な壊れていることや、チューニングがどうのこうのといった。つまり手を出すなということだった。
でも壊れているようには見えなく、ピカピカに輝いている。
安いといっても二万円。とても大金で正月なって合計の全財産と思った。
それからというものの、売れてしまうのではないかと、毎週あるか清水銀座商店街へ通った。あると、よかった、となる。
トロンボーンは新品でいくらするのかと、ほかの楽器屋へ偵察に行ってみた。するとガラスの棚にショールームのような高級感あふれて並んでいた。八万、十二万、二十一万、四十二万と値札があり、それはそれは手の出ない価格だった。
やはり二万のトロンボーンは安い。
十二月もトロンボーンはある。なぜ売れないのだろうか、と疑問もあった。でも売れてしまったらぼくが買えなくなる。
正月を向かえ、おばあちゃんには肩を揉んではとはりきった。
六年生は最上級生のアピールをしてお年玉、貯金と全部合わせて二万一千円となった。これで買える。
学校の始まった土曜に楽器屋へ向かった。まだあったので、店員さんに『それ下さい』といった。『トロンボーンは人気あって、みんな見せてっていうの。まず試して吹いてからでもいいわよ』と。
一度ワタのアルトホルンを吹かしてもらった。バジングも少しは出来る。でもここで金管クラブ員に見つかってもまずい。なぜクラブ員でもない人が楽器を買うのか、と担任へ報告されそうだ。
ぼくは断り、ケースのついたトロンボーンを購入した。マウスピースとワタの買った洗剤のような『ラッカーポリシュ』が中古でもついていた。
それを持つと結構な重さで自転車もふらついた。だれにも見つかりたくなかったので、裏道ばかり通ってどうにか帰宅した。
ワタに報告しようか迷った。クラブ員でなければ話すが、どうもふと口が滑りそうだ。クラスでは持てるワタで、仲のいい女子もいた。三年時代より閉鎖的ではなくなり、開放感あるワタになってもいた。ぼくは黙っていることにした。
家で早速組み立てると、スライドする部分が固い。よく調べれば棒がどうも曲がっているではないか。たぶんこれが原因で二万円とわかった。あのときワタがいった『……壊れてる』とはこのことかもしれない。でもこれは見えないところなので、買わないとわからなかった。これを買おうとした人たちは、クラブ員で一度吹いてやめたのかもしれない。
『ちょっと失敗したか』とつぶやき、組み立てたトロンボーンを吹いてみた。
音は鳴った。バジングはほぼ出来たので、スライドさせながらド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドを繰り返していた。なぜ楽譜を読めない自分が音階のポジションを知ったかというと、クラスの奏者に何度も聞いたり図を書かせたからだ。なぜそんなに知りたいのか聞いてきたら、〇×小学校の親せきの子がトロンボーンやるから音階を知りたがっている、とうそをついた。
そして一人で家を歩いてトロンボーンを吹いていた。ところが楽器自体長いため、そこらじゅうのタンスや机に当たる。それで歩くのはやめて正座で吹いていた。
やがて家族にばれ『うるさいし、なんでこんなむだ遣いしたの?』と母がいう。三歳の妹は耳をふさいでいた。
ある日、スライドがいつも固くていらいらとしていると、棒を力で少し戻せばよくなるのではないかと思った。そしてやってみたら少し軽くなった。これなら少しはいい。でも翌日には固くなっていた。なぜか戻ってしまうらしい。もう少し強く戻そうと思ってやったら、
「バキッ!」
と一箇所が割れたというか、はがれてしまった。『あーっ』と悲鳴に近かった。鉄の部分をはんだか溶接でとめてあった。そこがとれた。ということは、もう吹けないのかもしれない、とそのとき思った。
「どうしようか」
とつぶやいて、ふと思うことは瞬間接着剤。それしかないだろう。ということで当時の瞬間接着剤『アロンアルファー』を文房具店に買いに行った。いまのように便利な百金はなく、それは三百八十円もした。
工作は得意ではなかった。でも二万円もしたのでなんとか直したい。プラモデルとはわけが違う。それに瞬間接着剤だ。素早くつけなければならない。一発勝負だった。
ぼくは何度も接着剤をつけた振りをするリハーサルをやる。
ちなみに瞬間接着剤は一度友だちが使っていたのを見たことがあるだけ。テレビのCMでは鉄同士が瞬間で接着し人間が三人で引っ張っていた。それだけ強力らしい。
そしていざ同封のビニール手袋をつけて接着する。練習のせいかなんとか接着した。しかも瞬時だった。指について熱くなったので、これはまずいと思い水道で手を洗う。すごい強力だ。
でもここから瞬間接着剤との葛藤をする。
翌日の練習中に接着がとれてしまった。『えっ、なんで?』と。
宣伝では強力でとれないのに、なぜだ、と思っていた。そしてまた接着する。だがその日にとれてしまった。
あの宣伝はうそか、と疑問も出た。
それからつけてはとれて、またつけてを繰り返す。そして卒業したあとワタが、『はまじ、ブラバン入るなら春休みに楽器を決めたほうがいい』という。ワタはホルンに入ると意気込ませている。
中学は野球かブラスバンドと決めていた。日曜や春休みに中学の練習を見に行くととても厳しく、一発であきらめた。そしてブラバンに入るとワタには伝えていた。
トロンボーン獲得しないとならない。でもワタの情報からそれはむりという。六年の一人がトロンボーンに決定し、もう四人いると。あとの二人はフルートに入った。トロンボーンからフルートとは、一からではないか、そう思ってもいた。
空いているのは、木管系、打楽器、金管ではトランペットかカタツムリのような格好のわるいホルンだけ。
「はまじもホルンやろうぜ」
ワタが誘う。
「かっこわるいな、それにマウスピースが超小さいよ」
「慣れるよ、おれも教えるし」
「そうかなー」
ワタとならなにも知らないぼくは共感出来る。
「クラスは違った場合でも部活は一緒だし」
それもそうだと思って、
「じゃ、やるよ」
というと、ワタは喜んで肩をたたいた。
それからは葛藤の連続だった。
そのころになるとトロンボーンは吹かなくなっていた。わずか三ヶ月で二万の威力がなくなったのだ。もしトロンボーンなら、自分のマウスピースもあって、二万もむだにならずにすんだはずだった。
そして離任式の終わった春休みから、中学のブラスバンド部へ通った。ところが四月三日ごろ軽い交通事故にあってしまった。
ぼくと友人二人は靴投げをやるために公園のブランコを争って自転車に乗っていた。公園近くになったときぼくだけ近道をした。
そしてTの字交差に差し掛かり、ブレーキ機を掛けずに急いでいた。そして車の急ブレーキ音。
『キキーン!』と『いてー』が同時だった。右太ももがバンパーに当たり、ぼくは自転車ごと倒れた。
それは一瞬痛かった。でもすぐに起き上がり、なにごともないように公園へ行こうとする。
「はまじが事故だ」
友人たちの声が聞こえた。太ももが自然に震えている。なぜ震えているのだろうと思っていた。
「大丈夫?」
と運転の人に聞かれ、うなずいたけど、ももが異常に痛み出してきた。
すると中学の野球部のユニホーム姿の部員も集まった。ちょうど部が終わったのか、ぼくが入ろうとした部活の先輩たちが、『あいつ見たことある』、『ももがショックでけいれんしてるよ……』と聞こえた。
そしてぼくの表情をじろじろ見ている。ぼくは痛みをこらえて自転車を起こし、とにかくこの場から離れたくなった。ひたいからこめかみに冷や汗が流れた。買い物帰りのおばさんたちも集まり、ここにいるのがとても恥ずかしくなった。
「ダメだよ、そのももでは医者に行こう。車に乗って」
おじさんは困ったような顔でぼくにいった。
「ぼくの自転車があるし」
車のおじさんは友人たちに頼んでいる。
そして車に乗って接骨院に向かった。
治療で打撲だった。足へシップをはり、包帯でぐるぐる巻かれた。痛みは少し治まった感じだったが、歩くときはびっこを引いていた。
その事故は別に警察を呼んだわけではない。いまから考えれば、警察を呼んでいたならば、実況見分をしておじさんは人身事故になったのかもしれない。でも治療費は全部出してもらった。
そして中学はいきなり足を引きずる格好で通い始めた。当然ブラスバンドのホルンも練習に入るのだった。
はまじの小学校生活を実際に話しました。本当の三年四組は伝わりましたか?
アニメでのはまじは小学五、六年生なのです。でもいまから思えば、それが引き金で泳げたのかもしれません。腰がわるいため、水泳で治そうと趣味にまでなってしまったのです。五十分間をクロールや背泳ぎで泳いでいます。数えていませんが二千メートル以上です。
それを二時間泳ぎます。たぶん戸川先生以上に泳げると思います。
先生は中学一年のとき、三年四組の同窓会を開きました。
あのようなひどいことをされ、頭にこびりついていましたので、当然参加していません。参加した女子生徒から伝言をもらいました。『浜崎に会いたかったよ』といったようです。それでも会いたくなかったのがそのときの心情です。
中学では泳げていたのだから、会っていればよかった、といまは思っています。なぜなら先生は、同窓会の数年後に肝臓をわるくして他界しました。
それを聞いたとき、悲しく思いました。あの鬼だった先生と一度だけ、ウイスキーを飲んでいればよかったなあ、と。アニメの戸川先生では優しくて、だれからも共感を抱くと思います。
現在もちびまる子ちゃんは放映しています。クラスはずっと三年四組ですが、この書で実際と大きく違うけれど、いつまでも温かい目でさくらのことを応援してくださればと思っています。