父と母の離婚
ぼくの父は二人いた。まず実の父からの話しをする。
ギャンブルと酒の好きな漁師で名前は憲三という。ぼくが憲孝なので父の文字をもらったことになる。
父の見送りに清水港へよく行き、水色の紙テープをよく持ったりした。いまこんな光景はあるのかな。
一度船に乗れば三ヶ月や半年は帰って来ない。とにかく会えないため父が恋しかった。母にいつ帰るか聞いてカレンダーに丸をつけてもらっていた。
帰りも港へ出迎えに行く。船はすでに接岸していて、父は岸壁に座っていたので、ぼくは走って父の胸に飛び込んだものだ。
その帰りはレストランで食事をしたり、母へ服を買っていたのを覚えている。お腹に弟がいる母は、気にしながら服を選んでいた。
父のお土産は外国で買ったものが多い。英語のチョコレート、ワニのはく製、怖いお面、洋酒、小さな人形、こんなものが多く、ぼくが遊ぶようなものはなかった。
ビックリボールを飲み込んでお尻から出す手品をよくやってくれた。幼稚園当時はタネ明かしをしてくれず、それが不思議でならなかった。
父に連れて行ってもらった場所といえば『釣り』と『競輪場』だ。漁師だけあって秘密地帯を知っていたのか、清水でふぐの釣るところへよく行った。小さいふぐだけど、釣ったふぐはふくらみ、大きくなったところをぼくに見せて一緒に楽しんでいた。
競輪場はうるさい場所だなと思った。新聞を見ながら自転車が走っているところを叫んでいる。これはなんだ、と。
面白い場所とはいえず、ぼくはただアイスを食べて父の足元にいた。だんだんと父は酒臭くなっていたのも覚えている。
家にいても酒をよく飲んでいて、母とけんかもしていた。
一度、母と家を出て焼津のアパートに何日も住んだことがあった。いまから考えると、実家へ帰るということか。
当時は裏に母の祖父母家があった。そこへ行けばすぐ捕まるために焼津なのかはわからなかった。
そしていよいよ父から逃げた。ぼくが小学校へ上がる前、密かに引っ越しをした。そこは入江学区となり、アニメ舞台の入江小学校へ通うことになるのだった。弟もいて三人で借家住まいのスタートだった。
よくわからなかったが、酒での暴力で離婚したと思う。でも借家に小学四年ころ、ひょっこりと来たことがあった。そのときも酒臭かったのはいうまでもない。
実父はぼくが十六のとき亡くなったと母から聞かされた。そのときは死因を聞かなかった。後から聞けば、喉になにかつまらせたらしい。てっきり酒での病死と思ったので逆に驚いたくらいだった。
父とは五才までで遠洋漁業の漁師だったのもあり、実際はそれほど一緒にいなかった。それで父への愛情が薄くなっていたのだ。
義父
もう一人の父は小学校二年のとき現れた人だ。まず何度か食事をしたり、ぼくや弟へミニカーも買ってもらった。
そして遊園地に連れてってくれて、いつしか一緒に寝起きをしていた。その男性は酒をまったく飲まない。なぜだろうと不思議に思うが、そんな人を母が選んだのかもしれない。借家で狭かったが、義父としてぼくらの面倒を見ていたのだ。
小三のときは説教やピンタもされた。ぼくはそこら辺りから戸川先生まではいかないが、義父を嫌いになっていた。そのとき母と義父との妹が生まれた。
ぼくは進級するにしたがって口ごたえをする。すると説教。弟とけんかをすればピンタを受け、そんな日々が続いた。
ただ、ぼくが高校を辞めたいといったら、仕事の世話をしてくれた。でもそこは残業の多い鉄工所で、もっといいところを紹介してくれればよかったのに。
結局、義父の経営する土木作業員にもなった。義父も景気がよかったのか、型枠工場も出し、そこでも働いた。
そして上京し一時は途切れるが、十八才から義父と生活をともにする。
そのあたりから、大人になったせいか口けんかはない。そういえば高校は空手部だったせいで、義父と口けんかとなったとき空手のポーズをしたときは『のりたかはおれにむかって空手のポーズしてきた、たいしたもんだ』と呆れ果てていた。
二十代は義父の仕事が傾くが持ちこたえてもいた。なにもなく三十代を迎えたある朝、義父が背中の痛みを訴えていた。それもかなりひどく声が裏返っていた。これはただごとではない。母と病院へ向かった。そのころ弟は結婚して家にはいない。妹は東京で生活をしていた。
診断は肺がんだった。酒は一滴も飲まないが、タバコはとても強いピースを毎日四箱は吸っていた。それが原因かはわからないが、そこから義父の入退院があり、闘病生活が始まるのだった。
そして抗がん剤の投与から、みるみる痩せていった義父。
「憲孝、こんなになっちゃったや」
と、毛糸の帽子をとったら毛が一本もない。とても以前のたくましさはなくなっていた。これが抗がん剤の恐ろしさなのかとわかった。どうみても身体の影響にわるい。
退院したとき、義父はもう運転が出来ないのではないのか、と思うほど肉体労働で鍛えた腕の筋肉はなかった。
退院しても数ヶ月後には入院となり、それは三回にも及ぶ入退院だった。
ある日、毎日病院に行き来している母から、
「憲孝、今週が山場だというから会ってきな」
と、疲れた声でいった。母と義父は何度とけんかをしていた。
ささいなことだろうが、そんな場面のとき自分の部屋で聞き耳を立てていた。
そして義父は亡くなった。享年六十七歳だった。最後の義父は本当に小柄になっていて、実父よりか思い出があるせいで、あとからじわりと悲しくなった。小学校時代の家族とのドライブ、突然義父とやったキャッチボール、妹が生まれ義父の喜ぶ姿、サイフからお金を盗んだこと、仕事を紹介してもらったこと、車を一緒に見に行ったこと、義父の車を深夜乗り回したこと、弟の結婚式ではすばらしいスピーチをしたことなど頭を駆け巡った。
ぼくは五十だ。あと十七年後には義父と一緒の年。そういうことを考えると義父の生涯は真面目すぎたと思う。ぼくは酒も飲むし転職を繰り返し、とても不真面目であるからだ。
天国にいるだろうし唯一好きだった、金を掛けるわけでもない競馬観戦を思う存分見ているのではないか。