≪下≫
村からほど近いところに、森の木々を五〇本ほど倒して拓かれた空き地があった。否、空き地と言うのは少々語弊がある言い方か。「空いていない」のだから。
「う……」
「これは全部、この森に生息していたオーガの死骸だ。燃やす前に村長に見せるべきだと思ってな」
村長は思った。
勇者とは、かくも凄まじいものなのか――と。
また、こうも思う。
勇者と魔物の違いとはなんなのか、と。人間に味方するかしないかでしか、勇者と魔物の線引きはできない。正直そう思うほどに、勇者の強さは歴然――異常であった。
そして勇者はこの死骸の山を前に、微笑を浮かべていたのだ。まるで誇らしげに。自分は正しいことをした、それを疑わない笑みだ。
村長は、死骸と化していてもオーガが怖かったが――この少年の方がなお怖いことに驚きを隠せない。
しかしそのことに気付いたのは、物言わぬ大剣のみであった。
☆☆☆
村は平和になった。
確かに平和になった。
勇者のおかげで、だ。
「あの、ゆうしゃさま……良ければこの、えっと、そのぅ」
イルと同い年くらいのおさげの少女の背後には、数人の友人と思しき少女たちがいて、にやにやと下世話な笑みを浮かべている。
「あ、違、まずじこっ! 自己紹介! えっと、アイリーン・ゼパートです! 彼氏はいません!」
おさげ――アイリーンと名乗った少女が、顔を真っ赤にして、聞かれてもいないことを口走る。数瞬後にそのことに気付いて、更に頬の赤みを増した。あわあわという擬音が非常に似合う狼狽ぶりである。
「その、これ――良かったら食べてください!」
「ありがとう」
イルの微笑み。ちなみに現在、アイリーンの視界ではイルの背後に花が咲き乱れている。卒倒しそうだった。憧れの勇者様。しかもとっても可愛らしいお顔。惚れないわけがない。渡したケーキに体液や毛を混入しそうになったことは墓まで持っていくつもりだ。危なかった。危うく一線を越えてしまうところだった。土着のお呪いである。
「ああああああああああああああああの! ゆうしゃさま!」
しまった。とりあえずケーキを渡せた、という安堵とそれでも消えない緊張がごちゃ混ぜになって滅茶苦茶に声が震えた。恥ずかしさで顔が上げられない。目をきゅっと瞑ると、更に耳の温度が上昇したのがわかった。これ以上体温が上がったら高熱で倒れちゃうよぅ……
「僕はイルデル・フィルアールス・ファン・マオだ。イルと呼んでくれ」
「い、いいいいいいいいいいいいいいのででですじゃ」
ですじゃ!
声が震えまくりな上に噛んだ。もうダメだ自殺しよう私なんてそもそも全然、勇者様となんて釣り合うわけがないし勇者様が私の事なんて見てくれるわけがないしそんなだったら今日付き添いで来てくれたメイヤの方が可愛いしスタイルはミビの方が良いし髪はマオの方が綺れ――あああああマオって同じ名前じゃない羨ましいぃぃぃぃぃ!
「あはは、可愛いね、なんだか。そんなに緊張しなくても良いのに」
「か、可愛……ッ!?」
こめまーく。きぜつしました。
☆☆☆
「可愛かったね、さっきの子」
「街中で女ァ気絶させた男がなんか言ってるぞ」
「でも、可愛かったよね。ちょっと重かったけど」
気絶した彼女を、家まで運んだのだ。両親には娘を頼みますとか土下座されたけど、なんか交際とか結婚とかの話が進んでいるような気がする。何が悪いのだろう。たぶんお姫様抱っこで連れて行ったのが原因だと思われる。大剣背負ってるんだから仕方ないんだけど。
と、その時である。
部屋のドアがノックされ、声が入ってきた。
「勇者様。今日の祭りの衣装をお持ちいたしました」
「あー」
まるで興味が無いという風にイルは呟いて、抱えていた大剣を音のしないように壁に立てかけた。それから大剣の力を借りて発動している、防音魔法を解くための手印を切る。
「どうぞ」
「し、失礼します」
「ん、アイリーンか。もう寝てなくて大丈夫なのか?」
「は、はひ! 大丈夫れす!」
自分が結構致命的に噛んでしまっていることに気が回らないほどにアイリーンは緊張していた。なにせ自分は、先程憧れの勇者様にお姫様抱っこまでされて自宅まで送ってもらったというではないか。
「お、重くなかったですか!」
「鍛えてるから。全然重くなかった」
良かった……と、アイリーンは内心で胸を撫で下ろした。ちなみに彼女が重いのは、太っているからではない。口が悪い大剣に言わせれば「むっちり」とか、そんな表現でもするのではないだろうか。
「それで、衣装を持ってきてくれたんだよね。ありがとう」
村長や村民、大人に接するときは必要以上に固い口調のイルも、同世代の子供と話すときはいささか柔らかい口調となる。本人的には、大人ほど気を遣わなくて良いので、非常に楽だ。
アイリーンは、イルの問いかけにはい、と返すと、持ってきた籠を椅子の上に置いた。
そして何事か言うのをためらった後、思い切った様に顔を上げ、少し睨むような表情で、宣言する。
「お、お着替えお手伝いいたしますっ!」
☆☆☆
結局イルは、自分で着替えるから大丈夫と言って聞かなかった。
アイリーンにとっては一世一代の告白のようなものであったので、手ぶらでの帰路は肩が落ち込んでいる。
「で、結果は――まあ、その様子だったら振るわなかったのね……」
アイリーンの横で発された声の持ち主はマオ。勇者様と同じという、なんとも羨ましい名前の少女であり、かつ村長の娘である。本来勇者に衣装を持っていくのは彼女の役目であったのだが、頼み込んで代わってもらったのだ。
はあ、とアイリーンはため息をついた。心なしか周囲の空気が澱んでいる――マオはそう思う。
「まだ今から祭があるんだから、チャンスが無いわけじゃないわよ。だから落ち込むのはやめにしなさい。ね?」
「うん……ありがとマオ……」
☆☆☆
祭があった。
盛んに松明を燃やし、村のどこにも影などないというような明るさである。日はこの村の名前である美しい夕焼けを見せ、もうじき沈もうとしていた。
夕暮れ村の村民、約三百名が一堂に会し、無礼講の宴会を行うのだ。この日に限り、村長や村民、学校の先生や生徒といった上下は関係無しに、皆が平等な夕暮れ村の子だということで、酒を飲み歌を歌い踊ることが許可されている。
なにもかも――勇者が魔物を退治してくれたおかげであった。
イルが村付近の森の魔物たちを掃討してから一週間。村の有志で山狩りを行っても魔物には出会わず、晴れて夕暮れ村が魔物たちの恐怖から解放されたことを記念しての祭りである。
「勇者様!」
無礼講といっても、もちろん勇者様は敬われる。そういうものだ。イルはどことなく居心地の悪さを感じていた。アイリーンがアプローチをかけてくることには本人は気づいていないので無問題。では、居心地の悪さの原因はと言うと、アイリーンの両親による娘の売込みやら泣き落としやらであった。
今も勇者を前にして、ぜひ娘を嫁に! だのなんだのと土下座せんばかりの勢いで捲し立てている。イルも確かに、アイリーンは可愛いと思う。細い金髪のおさげに、流麗な鼻梁。青色の瞳を縁取るのは長い金色の睫毛であり、その頬は健康的に上気し赤みが差している。身体だって女性らしい丸みを帯びているし、かと思えばくびれもちゃんとある。そのドモりがちなところも、完璧すぎず逆に良い。
「しかし、僕は勇者だ。嫁を貰うわけにはいかない――危険だから」
「一緒に連れて行ってもらわなくとも良いので! 娘との間に子供を作ってくれるだけでも良いので!」
「ほら、アイリからもお願いするんだ!」
「お、お願いしま――ふぇぇ!? こど、子供!? 聞いてないよ!?」
アイリーンは混乱している。
イルはふかしイモを口に運んだ。返答に困ったからだ。正直、嫁は邪魔になる。旅をしている時に守らなければならないからだ。だから、危険だ、と理由づけるのだが、確かに子を生すだけで同道はしないというのなら、全然危険ではない。故に、いくら勇者といえど、ひたすら修行に打ち込んできた十六歳の少年には、危険だから無理以外の断る理由が思いつかなかったのである。
「いや、でも、やっぱり断らせてもらう。えー、あー、みだりに勇者の遺伝子をばらまいてはならないと女神教会に止められているのでな」
もちろん口から出まかせである。それどころか、勇者の候補は多いに越したことはないので、むしろそういった「行為」が推奨されてすらいたのだが、そんなことは無かったこととする。まだ早い。
ただ、口から出まかせにしてはそれなりに筋の通った理由だったように思う。その証拠に、アイリーンの両親も引き下がってくれた。
「その好意だけは、ありがたく受け取っておこう」
「もし勇者の仕事が終わったら、その時はアイリを嫁に貰ってやってください……!」
「ああ、その時はよろしく頼む」
勇者の終わりは殉職した時「のみ」だ。
存在するだけで魔物を活性化させる魔王を倒したとしても――その魔王が死んだ瞬間、また世界のどこかで魔王が転生してしまうからである。そして新しく生まれた魔王は十数年の成長期間を経て、再び魔物の王へと君臨する。そのサイクルが繰り返されるのであるから――束の間の平穏はあれど、勇者が終わることはない。だからここでイルが言う「その時」が来ることは――永久的に無かった。
そしてこのことを、一般人である彼らが知ることも無いだろう。
「それでは私どもは席を外しますので、後はアイリ、頑張るのよ!」
「アイリ。……うまくやれよ」
イルは聞かなかったことにした。し、父親のジェスチャーも見なかったことにした。
女子一人に力で負けるわけがないので、もし押し倒されそうになっても悠々受け止めて立ち上がらせることくらいできるだろう。見なかったことにしたが対処を考える程度には意識しているイルである。
そして残されたアイリーン――アイリの脳内は、真っ白になっていた。
「おお押しお押し押し押し……」
「アイリーン? アイリーンってば」
「ひゃわっ!」
アイリの意識が勇者の声によって呼び戻された。焦点が合うと、眼前に勇者の顔がある。覗きこまれていた。そのまま時間が止まったような気さえする無限の時間が、彼女に到来する。アイリは緩やかに意識を手放した。
そして数秒で持ち直す。これ以上憧れの勇者の前で無様は晒せないという乙女の本能的なものが起こした奇跡とも言えた。
「わ、私、ちょっとお花を摘みに行ってきます!」
しかしアイリは逃げ出した。
☆☆☆
アイリがいなくなり、数分して。
イルはシルファリアードを抜き放った。
「出て来いッ!」
突然剣を構えた勇者に騒然とする村人たち。
「お前ら、さっさと逃げやがれッ!」
そんな彼らに、大剣の一喝が飛んだ。今回ばかりは、勇者以外の人間がいる時には黙るという不文律を犯さざるを得なかったのである。溢れ出る魔力と殺気がイルの背筋を冷やす。
「ほう。よく私が分かったね。褒めてあげるよ」
指示通り避難した村人たちが遠巻きに見守る中、広場の中心に、突然闇色の竜巻が現れた。竜巻は鋭さを増し、そして人型をとる。イルと同じくらいの身長の男性体。
「私が誰だか……は、さすがにわからない。そうだろう? だって名乗っていないのだからね。でも私は君のことを知っている。なんという優越感! 圧倒的勝者が私だ!」
両手を広げ、上空を見上げて自己陶酔したように呵呵大笑を上げる「そいつ」に、油断なくシルファリアードを構える。普段はあまりしない、両手持ちだ。こうすることで、左右どちらの攻撃にも均等に対処できるようになる。
「これで私の一勝だ! 名乗ろう――私はベルフェゴール。当然知っていると思うけど――魔王の腹心の一人だ」
神話級……!
イルは衝撃を受けた。
神話級悪魔とは、神話に登場する悪魔のことである。そして「それ」が目の前に現れたということはすなわち、神話の時代――神代の神魔戦争を生き残り、今の世まで勇者からも滅ぼされずに生き延び続けているということを表す。
しかしこちらだって神話級だ、と、イルは自分を奮い立たせた。
☆☆☆
頬に手を当てる。
熱すぎる。こんな林檎みたいな真っ赤な顔で勇者の前には出られない。
アイリーンは木桶で組んだ井戸の水で顔を洗った。
☆☆☆
神話級が出た。
それだけで、村はいとも簡単に阿鼻叫喚の地獄と化す。だから、村長は冷静であり続けた。無秩序に逃げようとする村人たちをまとめ、村の入り口から森の方へと向かったのだ。
「雑魚に用はないね。今私の前には勇者がいるんだから。これで私の二勝だ。勇者が村人を逃がすのを見逃してやった」
「閃く剣山!」
シルファリアードが金色に輝く。閃く剣山も、貫く柱と同じく射程拡張の技だ。しかし貫く柱が突き技に特化していたのに対し、閃く剣山は連続技に特化している。秒間百回、射程距離二十メートルの突き技を放つのだ。当然魔力の消費量も大きいし、身体への負担も、よりかかってしまう。
不意打ちに使うには、少々手加減が無い技だと言えた。しかしそれほどまでに、神話級の存在は大きい。
ベルフェゴールは悠々と、避けようともしないで手印を切り、魔力のシールドを張った。
ここだ! と、イルは思った。剣に込める魔力を、一気に十倍にしたのだ。その分剣の貫通力が上がり、ベルフェゴールのシールドをいともたやすく破壊してみせる。
秒間百発の内十数発が直撃。しかしバックステップで後の突きが全てかわされてしまう。
「……ちょっと油断しすぎたようだね。年を食うといけない、自分の能力を過信しすぎてしまう。今のは文句なしで君の一勝だ。私の一敗、でもまだ二勝一敗で私が勝ってるね」
大剣が付けた傷が煙を上げながら塞がっていく。まるで効いた様子も無い。イルは焦りを覚えた。手汗で柄が滑る。
「瞬く道!」
今度は貫く柱を更に細くし、その代わりに光が伸びる早さと鋭さ、射程を上げた魔法技だ。文字通り光速で飛んだ白銀の光はベルフェゴールの心臓を貫く。
「かはっ! これは効いた! 喀血してしまったよ。心臓が潰れたかな?」
光に刺し貫かれたまま、ベルフェゴールは笑みを浮かべた。口端から血が垂れている。
「あ、そうだ、せっかく動きが止まったんだから私が来た目的を聞いてくれよ」
「聞く気などない!」
大剣を動かすと、それに付随して光の束も一緒に動く。それでベルフェゴールの体内を焼き、穿った穴を広げていく。一秒でも長くこの光を敵に接触させていなければならないのだ。
「いやまあ聞きなって。えっとね、この辺のオーガが全滅したからさ。何があったのかって見に来ただけなんだけどさ。大した理由じゃなかったね! あはは!」
狂気に染まった笑顔を浮かべ、ベルフェゴールは三歩右に移動した。つまり、心臓から左体側にかけてを光の束が貫通して抜けたことを意味する。同時に魔力が切れ、光の束が消失する。
「これ、身体はすぐに再生するから良いんだけどさあ、服が再生しないんだよね」
「知るかッ!」
☆☆☆
もう大丈夫だろうか落ち着いてきた。
そう思って顔を上げ、いざ勇者様の所へ戻ろうとする度に彼のことを思い出し、顔が赤くなってしまう。
ああダメだ、思い出したらまた顔が熱くなってきた。
☆☆☆
「お前、一体何をした……?」
ベルフェゴールが不思議そうに問うた。
対してイルは、何も返さない。否――返せなかった。とうに息は切れ、流れ出る血液の量はおびただしい。しかし彼が何をしたかと言えば、一目瞭然であった。簡単な話である。イルが魔法を使うたびにベルフェゴールの魔力が激減し、イルの魔力が増大していくのだ。これは明らかに、イルが何かしている。誰でもそう考える。
いまやベルフェゴールの魔力より、イルの魔力の方が多いくらいであった。
イルがシルファリアードを正眼に構えなおす。
「ルゥ……全力だ。翳す神魔の光!」
大剣から溢れ出る光が、ベルフェゴールを焼き焦がした。
「吸魔剣シルファリードア――この剣で斬り付けた時、相手の魔力を『枯渇』するまで吸い上げる、神話級の剣だ」
☆☆☆
もう大丈夫かな、とアイリーンは思う。さすがに待たせすぎた。多少顔が赤くとも気にするものか。
ここまで踏ん切りをつけるのに十数分がかかっている。
さて、恋に逸る彼女は、どうして不思議に思わなかったのであろう。
いや、恋に逸るがゆえに、不思議に思えなかったのだ、か。正確には。
村に誰もいなくなっていることに、どうして気づけなかったのであろう――
☆☆☆
「これでトドメだ、ベルフェゴール」
大剣を突きつけ、宣告する。ベルフェゴールの持っていた分ほぼすべてを吸い上げたので、彼我の魔力差はダブルスコアじゃ言葉が追いつかない。向こうは一桁。こちらは五桁くらい。魔力に正確な数値があるわけではないので多少変動するが、大体それくらいの差があるのだ、現状。
「や、やめろ、やめてくれ! 魔力を返してくれたら、どんな願い事でもかなえてやるから、頼む! お願いします!」
「言い残すことはそれだけか」
「ひぃぃっ!」
シルファリアードを振り上げ、べルフェゴールの首を刎ねようとした瞬間――
「ゆうしゃさま、遅くなりま――」
「しま――ッ逃げろッ!」
ベルフェゴールが、最後の魔力を振り絞ってか、一瞬でアイリーンを拘束した。
「ふ、ふは、あははは、ははは! どうだい勇者! コイツは私の人質だ! 『勇者』ってのは不便だよなあ! 人質を取られたら、身動きが取れなくなる!」
大剣を、ベルフェゴールに向けて構える。
悪魔は今、アイリーンを背後から絡め捕り、右手を口に当て、左手で腰を締めている。必至でもがいているが、口の拘束が少し緩む程度だった。
「剣を捨てろ!」
大剣を、降ろさない。
「勇者様! アイリがまだ逃げて――アイリ!」
そのとき、アイリーンの父親が駆けてきた。他の村人たちと逃げ出したが、愛娘の姿が見えないとわかるや否や戻ってきた次第である。
そのことに、極限まで集中を高めた勇者は気づかなかった。
息を吸う。吐く。
勇者とは何かを、今一度自分に問い直す。大丈夫、間違っていない。再認識。
「どうした、さっさと剣を捨てないか、勇者!」
顔を歪めながら、悪魔が言う。しかし勇者は、剣を捨てない。
「たすけてくだ――」
涙に濡れるアイリーンの瞳が「勇者」をとらえた。勇者様は私を助けてくれる――彼女は信じている。
そして――否、しかし。次の瞬間には、ベルフェゴールの胴体が空を舞っていた。アイリの胴体が滑り、下半身と上半身が今生の別れを告げる。
「あ、アイリ――ッ!? 勇者様――勇者! 貴様ッ! 勇者じゃなかったのかッ!」
ベルフェゴールとアイリーンの上半身が地面を打ち、下半身が共倒れるのを見守ってから、「勇者」はゆっくりと振り向いた。アイリーンの父親の方へと、顔が向く。
悪魔の絶命時には、その場にその悪魔の色の炎が燃え上がるという。ベルフェゴール――深紅の炎に背後から照らされた「勇者」の顔には、微笑が張り付いていた。
アイリーンの父親は、その笑顔が、ひたすらに怖かった。
触れるだけで壊れて無くなりそうな、その儚い笑顔と同居する脆さに、父親は、いや、父親でも無く、この場に誰が居合わせても気付いたに違いない。
「『勇者』は、その背中に世界を背負っているんだ。確かにアイリーンは……」
「勇者」はそこで父親の方を見て、言葉を変える。
「アイリーンさんは、気立ても良くて可愛らしくて、素敵でした。でも、です。でも、その命は、果たして世界と天秤にかけられるほど重たいのか。僕は、『勇者』として、決めなければならない。ここで躊躇したばかりに世界が滅んだら?」
「勇者」は濡れる大剣の血を払った。乱暴なその行為に、しかし大剣は黙するのみ。
「僕が先ほどアイリーンのために剣を捨て、全裸で土下座して、ベルフェゴールに許しを請うていたら? そんなことをしても、どうせ奴はこの町の全員を殺す。悪魔はそういう生き物だから、仕方がない。だから『勇者』がいる」
深紅の炎がアイリーンをも焼きそうになったので、「イル」は彼女「たち」を抱き上げ、父親の元まで運んだ。
「僕は『勇者』だ。この背中に、世界を背負っている。だから一を切り捨てることに、躊躇いは無い。僕は、間違っていない。正しい」
その時、深紅の炎がひときわ強く燃え上がった。
「『勇者』……お前の方が、よっぽど悪魔だよ」
『勇者』は、何も言わず、ただ壊れそうな笑みを浮かべただけだった。
次話、完結。