≪上≫
「おお! よくぞいらっしゃいました!」
声が生まれる。
さめざめと降り続ける雨を払うかのような、明るい声だ。
「ああ。しばらく世話になる」
それに返る声が一つ。
若い男の声だ。少し高めで耳に心地よく通る声。
男――いや、少年は、背中に大きな一振りの剣を背負っていた。大剣。柄頭に刻まれた銘は「シルファリアード」――デイリの国で「枯渇」を意味する語だ。
「ささ、勇者様、雨に濡れてお身体が冷えたでしょう。こちらに風呂を用意してありますので――」
やけに腰が低いこの男は、この村の村長である。
その言葉に対し、勇者と呼ばれた少年は、微笑と会釈を返した。
「すまない。あまり気を遣う必要はないのだが……好意に甘えるとしよう」
少年は勇者である。
農家の息子として誕生したが、七歳で神託を受けた。その後は中央女神教会に引き取られ、勇者として過ごしてきた。その齢は今年で十六。名を、イルデル・フィルアールス・ファン・マオと言った。農業を営む両親を持ち、二人の妹がいる。
☆☆☆
「あ~疲れたっ!」
勇者の声だ。
先程村長の前で固くなっていた人物とは同じと思えないほどに、だらけきっている。
風呂を借りた後案内された部屋に入るなりベッドに飛び込み、全力でゴロゴロし始めた少年には、勇者の威厳など皆無だ。
「おい、イル。ちゃんと防音魔法はかけてあるんだろうな」
「当たり前でしょ!」
部屋にもう一つの声が生まれ、少年――イルは、その声の方を見もせずに、枕に顔を埋めた姿勢でそう返した。日向にいる子猫のような、幸せそうな笑みを浮かべている。
もう一つの声は、イルの背負っていた剣から発せられているようだった。知能を持つ武器――その中でもとりわけ剣の形であるから、「人格剣」と呼ばれている。デイリの国があるエルシア大陸の中でも三振りしかない「ミュゼットコレクション」のうちの一つだ。ミュゼットは、神世の時代に実在したとされる伝説の鍛冶師で、神話に出てくる武器はほぼすべてが彼の製作によるものである。何を隠そうシルファリアードも神話に登場するのだ。
しかし今はそのほとんどが失われてしまい、表社会で実在が認められているのは三振りだけになってしまった――そういうことだ。シルファリアード以外の二振りは、デイリの国の隣国のそのさらに隣の国であるジャゲンの国に保管されている。
「そんな毎回言わなくたって大丈夫だよー。防音魔法をかけ忘れたことなんて、一度も……ありますね……」
「あの時は大変だったなあ。勇者が可愛い、って逆に人気が出ちまってよぉ」
「笑い事じゃないんだよー!」
あの時は本当に大変だった、と、イルは過去を回想する。当時イルはまだ十四歳、勇者として旅に出た直後のことであった。
今もあまり背の高い方ではないが、二年前ともなると声変わりすらしておらず、余計に祭り上げられてしまったものである。
「人気が出るのは良い事じゃあねえか。どうしてそう嫌がるんだ」
「い、嫌なものは嫌なんだよ。ヤなの」
「お前さんは俺から見ても可愛らしいと思うんだがな」
「それだよそれ! 可愛いって言われるのが嫌なの! 勇者なのに!」
「そのためにあんな角ばった話し方まで……ご苦労様なこったなァ」
「分かってるなら肩でも揉んでー」
どうやってだよ、とツッコむインテリジェンスソードの声には返事が無かった。
「寝やがった。疲れてたんだよなァ、やっぱり」
前の村で情報収集中、この村の近辺の魔物が活性化しているらしいとの報告を受け、そこから三日三晩寝ずの強行軍であったのだ。これで疲れないわけがない。いくら勇者といえども弱冠十六歳、色々と限界値が低い。
「それにしても、せっかく行軍で来たのに、問題を解決する前に寝ちまうってんじゃあ――まあ、アレだ。途中で休みながら来たってあんまり変わらねえと思うんだよなァ」
やっぱり王様からお供をつけてもらうべきだったんだよ、と、自分の言うことを聞かなかった素直じゃない勇者に聞こえないところで、シルファリアードは呟いたのだった。
☆☆☆
「では、町の周辺の調査に出かけてくる」
三時間の仮眠。三日三晩寝ずでいた休憩にしては、あまりに短すぎる休憩を打ち切って、勇者は村長に告げた。
「まだ夜ですよ、勇者様! 本日はお休みになられてはいかがでしょうか!」
至極もっともな意見を歯牙にもかけず、勇者イルは背中のシルファリアードを鳴らし、踵を返した。
その背中は、気遣い不要だ、と語っている。
村長は、あの勇者を、一人の少年として――どこか危なっかしいと感じながらも、魔物の脅威に晒され続けた生活がもうすぐ終わるのだと思うと、あまり強く言う事が出来なかった。
夕暮れ村の周りには柵が巡らせてある。これは、狼など野獣の侵入を防ぐためであった。魔物はこんな柵程度では防げないし、魔物を防ぐ事が出来るような「壁」を作るには、この村はいささか辺境にありすぎた。王城からの物資が届かないのだ。壁を造るのに必要な石材が、手に入らない。
そんな王国の端の端にあるような村であるから、三方は森に囲まれている。一方は王国に続く道が細々と馬車の轍を刻むのみだ。開拓が為されていないのだ。ほとんど手つかずの自然が残っている。
森に入って村が見えなくなり、もう十分だと判断したころ、イルは足を止め、そして、
「わあああああああああ――――……!」
叫んだ。それこそ夜の帳を強引に開こうとしているかのような、天を突く大音声の顕現である。眠りにつこうとしていた昼行性の野生動物は驚いて目を覚まし、未だ眠りについていた夜行性の動物たちは驚いて飛び起き、そして。
縄張りを侵されたと判断した魔物たちは、音源から逃げる動物たちとは逆走して――まっすぐに、声が聞こえた方へと向かって来た。
「はあ……オーガか……」
明らかに嫌そうな声を出すシルファリアード。
「そう言わずに力を貸してよ、僕の剣」
「オーガはよぉ……脂ばっかりで刃がなあ……」
「あとで死ぬほど手入れするからさあ」
「久しぶりに人間の姿になりたいなあ……それで手入れされたいなあ……」
「それは勘弁してください」
オーガは豚の頭を持つ人型の魔物だ。身長は大きいもので三メートルに届き、小さいものでも二メートルは下らない。
また、その体にはかなりの重量の脂肪がついており、刃物を得物とする冒険者なんかにはもっとも忌避される魔物のうちの一つでもあった。なにせ、刃の切れ味がガタ落ちするのだ。だが、まだ切れ味が落ちるくらいなら良い。手入れすればどうとでもなる。
では、どうとでもならない部分とはどこか。
それは、その皮下脂肪を支えられるだけの強大な筋肉だ。ちなみに、オーガの中では太っている個体ほど偉いということになっているらしい。脱線した話を戻す。つまり、強いオーガほど太っており、すなわちその筋肉量は多いということを意味し、だからその筋肉を刃で打つと最悪刃こぼれあるいは折れる可能性すらあるという三段論法が展開されるのだ。
巨体を揺らしながらオーガが走ってくる。イルは眼球の動きだけで敵の数を把握した。右手に三、左手に二、そして正面に三だ。別に統率がとれているわけでもない。元来オーガの知能は低い物であり、得物を殺し犯しむさぼり喰らうことしか頭にない低能な種族であるから――
「左の二体はあとで良い! 正面の三体が先に来て、そのあと数秒のラグを置いて右だ!」
インテリジェンスソードの未来演算による指示が飛ぶのと同時、左の二体がぶつかり、互いに互いを攻撃し始めた。激しい怒声が飛び交い、手にした大木が強かに肉を打ち付ける音が鈍く夜闇を揺らす。
その数秒後、正面の三体の内イルから見て左側にいる個体が、一番先に大剣の間合いに入った。
「ッ!」
裂帛の気合いと共に振り下ろされた大剣がオーガの右肩から左腰までを断ち割り、真っ二つにした。
「真ん中回避! その次に右を倒してから真ん中を斬れ!」
「…………!」
大剣の指示のきっかり二秒後に、「オーガが」その通りに動く。先んじて対処をしていたイルは右のオーガの胴を横薙ぎにし、返す太刀で、棍棒代わりの大木を振り切った状態で固まる中央のオーガの首を刎ねた。
両刃の大剣はその重さに任せて振り回し、相手を「叩き斬る」武器である。だが、イルの技量とミュゼットの武器の性質――武器が認めた使用者に重さを感じさせない――が合わさった結果、本来なら刀や太刀なんかによる「断ち割り」を可能としているのだ。その証拠に倒れ伏すオーガの切断面は滑らかであり、切断面と言われても信じられないほどである。
「右右中央左!」
いくら未来予測が可能でも、それが正確に伝わらなければ意味が無い。こと戦闘に関しては、それがより顕著である。だからこそ発された、極限まで切り詰められたこの言葉は、正確にイルに伝わった。
右のグループで一番右の個体を袈裟斬りに断ち割り、そのまま回転して大剣を引き戻す動きとしつつ、遠心力を乗せた横薙ぎを中央の個体に放つ。遅れて追いついた左の個体の棍棒を避けるために、たった今斬った中央のオーガを遮蔽物とし、
「ルゥ! 貫く柱!」
「おうよ!」
ルゥ、と呼ばれたシルファリアードは白金の光を放つと、イルの右手の突き出しに合わせ、遮蔽物にした中央のオーガごと、背後で棍棒を振り下ろしている個体を刺し貫いた。モノが焦げる嫌な臭いが辺りに立ち込める。
十メートルほどに伸びた光の柱が消えると、胸と腹を刺し貫かれた二体のオーガは、どう、と崩れ落ちた。
そして、釣りをするように大剣を背後に振り上げ、剣の重みに引っ張られるようにして背後に高速移動。一瞬前までイルの体があったところを、もう片方に投げ飛ばされた左の一体が通り抜けていった。頭から地面に落ち、自重で脛骨を折ったようだ。その動きが止まる。
だから、
「あと一体!」
☆☆☆
「ゆ、勇者様!?」
明くる日、昼を告げる鐘が全部で八回鳴り終わった頃くらいに、勇者イルは夕暮れ村に再び姿を見せた。全身余すことなく血に濡れて、髪の色さえ分からなくなっている。
「水の入ったバケツを持ってきてくれないか。さすがに村を汚すのは忍びない」
言葉通り、勇者イルが立っているのは村の敷地の一歩外だ。ちなみに今勇者と対面している村人は、村の入り口汚されるんならあんまり変わらないのに、と思っている。
「すまない、出来れば早くしてほしい」
ぱしゃ、と、足元の血溜まりにさざ波を立てながら、勇者が村人を急かした。
「あ、はい、今すぐ!」
勇者は大剣以外とは固い言葉で話し、大剣は勇者と二人きりのとき以外口を開かない。
ゆえに、その場にしばらく会話は無かった。
「勇者様! ご用意いたしました!」
「ありがとう」
水が並々注がれたバケツを持って駆けてきた村人に指示し、水を手にかけてもらう。それから木桶を受け取った勇者は、頭からその水を被った。血の赤が流れて地面に染み込み、髪が日の光を受けて黒い艶を放つ。
「勇者様! ようこそお帰りなさいました!」
バケツを取りに行く道すがら、村人が呼びに行った村長が息を切らしながらやって来て言う。
「今まで何をなされていたのですか」
「付近の魔物の掃討だ。オークはおそらく全滅したと思う」
体術で足音を殺し、技術で風下の位置取りを欠かさず、オークの巣を見つけるに至ったのだ。オークは巣の周りでだけ他の個体との諍いをやめ、群れて生活する魔物なのである。多いときには千匹単位での巣が形成され、もし万が一にでも迷い込んでしまったら百パーセント生きては帰ってこれないという。
だからこそ、
「い、今なんと? 年を取ったからか、すっかり耳が遠くなりましてな……」
「だから、この付近のオークをすべて狩りつくし、他の魔物もいないかどうか確認してきたと言ったのだ」
「…………すいません、仰る意味が」
「この村はもう、魔物に脅かされる心配はないと言った」
「そんな、信じられるわけが」
当たり前である。
いくら勇者が凄くて、デイリ国民皆がその力を盲信しているといっても、まさかそんな、一晩で魔物全部狩ってくるなんて、
「……本当、ですか」
「証拠ならある。一緒に来てくれ」
勇者はそう言って踵を返し、村長は慌ててそのあとを追った。