プロローグ
登場人物にギリシャ神話の神の名前を使ってはいますが、実際の神話とは掛け離れたものです。予め、ご了承下さい。
もう、幾日が過ぎただろう。
この狭き牢獄では、何かを感じる事は出来ない。
自分は何故、幽閉されているのか。
それ以前に、自分の存在とは何なのか。
物心つく前から此処にいた。
飽きぬようにと、小間使いが持って来てくれる書物。
そこからでしか、外の世界を知る事は出来なかった。
何度、死に憧れたことか。
死を持ってでしか、開放の道を見出だせなかった。
「サン様、王が直にお越しになります」
小間使いが、私に深々と頭を下げた。
「それは誠ですか??」
信じぬ、そう一蹴すれば小間使いは大層狼狽して見せた。
「誠でございます。貴方様にお伝えしたい事があると……」
そう言って小間使いは、怖ず怖ずと新しい召し物を差し出した。
どうやら嘘ではないようだ。
まだ一度も会った事のない父が何故、私を……
そう呟くと、小間使いは分からないと返した。
新しい召し物に袖を通し、小間使いに身なりを整えて貰った。
小間使いが去った後、一人の男が姿を見せた。
厳格を絵に書いたような、眼光鋭い男だった。
これが、私の父。
地に足を付け跪けば、彼は頭を上げるよう私に言った。
「こうして顔を合わせるのは初めてだな」
人を威圧する、重苦しい声。
私は再度、頭を深く下げた。
「守護神自らの足運び、有難うごさいます。御用というのは??」
「まあ、座りなさい」
長話になるからと、彼は粗末な椅子に腰掛けた。
私も、空いている椅子へ座った。
「お前が此処へ入って、もう十五年が経った」
父は感慨深そうに口を開いた。
「儂の兄を知っているであろう??」
私は頷いた。
今の世を綴った書物を読んでいたから、知っている。
父の兄は、この広い世を治める神々の長であり、人々から大神と崇められているゼウスという名の男だ。
そして父はその腹心として、死の国太陽を治めるアポロン。
「神とはいえ、決して万能ではない。いずれは死を迎える。兄は老体の身、何時も予断は許されぬ」
書物によれば、ゼウスはもう五千年は生きているとされている。
神の寿命等、私が知りうるところではないが、同じ神である父が言うのだからそうなのだろう。
「そしてそれは、儂も同じだ」
父もゼウスとそう年は変わらないと、書物で読んだ。
「後権を育てるのに、何処の神も躍起になっている。順当でいけば、兄の伜が引き継ぐだろう」
それでは面白くない、父はそう付け足した。
彼の瞳には、計り知れぬ野心が映っている。
「それでは兄が一線を退いても、情勢は一つも変わらぬ。ならば、その力に匹敵する人物がいればいい」
父は、意味ありげに口の端を上げた。
そして強く私を見据えた。
「まさか、私を?!」
父は腹の底から笑い声を出した。
何と、突飛で安直な考えだ。
生まれてからこのかた、一歩も外の世界に出た事のない私が世を治める等と……
父は、夢物語にでも魅せられているのだろうか。
「お前には見識はないが、書物で得た広い知識と母親譲りの聡明さがあると小間使いから聞いておる。自己流ながら、剣も振るえるのであろう??」
戯言を口にするな。
それだけで私が神に匹敵する力を持つと、本気で思っているのか。
母親にだって会った事はない。
これ以上、私に構わないでくれ。
「過信でございます。私にそのような大役……」
「出来るかではない。やるのだよ、サン」
私の言葉等、軽く一蹴されてしまった。
初めて父に名を呼ばれたのが、こんな不愉快な場とは何とも皮肉だ。
「これをお前に授ける」
父が声を掛けると小間使いが深々と頭を下げ、こちらへ歩み寄った。
差し出されたのは、真っ赤な軍服。
胸元には、我が国の紋様が施されている。
「父上……」
「お前は儂の、参謀士官として働いて貰う。主要な神々にはもう通達してある」
逃げることは出来ないと言いたげだ。
腹を括るしかないのか……
しかし、一つだけ疑問が残る。
父はそれを察したようで、私を強く見据えた。
「女では後権は握れぬ」
そう、私は女なのだ。
まだ未発達ながら、私が女である証は胸元にしっかりと存在している。
「私に女を捨てろと、おっしゃるのですか??」
父は満足げに頷いた。
「なあに、胸元をきつく縛れば誰も分かるまいて。幸い、お前が女だと知る者は四人しかおらん」
それは両親と小間使い、そして私自身だ。
「半刻後、身なりを整えて玉座へ参れ」
父は私に細剣を託し、部屋を後にした。
私に断る権限はない。
男として、父の野望を遂げる駒として生きるしか道はない。
どうせ何度も捨てかけた命だ。
戦で落とそうとも、惜しくはない。
私は、父から授かった細剣を強く握りしめた。
「おお、やはり似合うな」
私は父の御前にひざまづいた。
着慣れぬ筈の軍服が、やけに身体に馴染んだ。
「顔を上げよ、サン」
父の隣には、病弱そうな女性が座っていた。
私を見る目が、とても哀しみに溢れている。
この人が私の母親か。
「お前の為に新しく部屋を宛てがっておいた。明日の謁見時までは、好きに過ごすとよい」
たったそれだけか、他に何か伝える事はないのか。
この男に任せていたら、ゼウスの後権を握る等到底無理ではないだろうか。
「恐れながら父上、一つお伺いしたい事がございます」
放っておけばよい。
無謀とゼウスに知られて、一家が皆殺しにされても私は構わない。
しかしながら、私が知恵のない無能で浅はかな人間だと思われるのは釈然としない。
どうせならば、本気で後権を狙う。
それには先ず、この浅知恵の父を何とかせねばならない。
「何だ、申してみよ」
「父上は先刻、ゼウス様の後権は伜にとおっしゃいました」
「それがどうしたのだ」
父は少し苛立ちを見せた。
「ゼウス様には、息子が二人と孫一人がおります。傍系も合わせればキリがありません」
かくいう私も、その一人だ。
「仮に私が、後権を採るに相応しい人間になったとしても……」
ゼウス様の中ではもう、後権を託す人物は決まっているのではないか。
力のある者が世を治めるとは限らない。
逆に目立ち過ぎる力は、摘み取られてしまう。
父は押し黙り、長く唸りの声を上げた。
理解してくれたであろうか。
「では、どうすると言うのだ」
何となく理解は出来ても、その先は浮かばないらしい。
「そうですね。後権者の参謀となるというのは、如何でしょう??」
「お前に任せる」
考えるのが面倒なのか、父は私に邪険な目を向けた。
やはり、この男では役不足か。
まあいい、私に任せると言ったのだ。
その言葉、忘れるなよ。
私は両親に深く頭を下げ、踵を返した。
そして扉に手をかけた。
戦と欲に塗れた、汚れた権力争いの道を歩む為に。