虫の知らせ
朱瀬 稔様主催「始まらない恋企画」参加作品です。
黒い蝶。
それは、負の兆候。そいつを見かけたら要注意。必ずその近くにいた人間が死ぬ。つまり、文字通り"虫の知らせ"ってやつ。
クロアゲハだとかカラスアゲハだとかいったものとは全くの別物。正式な名前は俺も知らない。そいつらは模様も何もなくて、とにかく真っ黒。光が当たろうとも、その色は決して変わらない。絶望と闇をかき混ぜてそのまま塗り付けたみたいに、真っ黒。
残念ながら、俺はその蝶を見ることができた。
*
高まる鼓動をどうにか落ち着けようとするが、うまくいくはずがない。華美な部屋の中央に俺は一人で座っていた。
淡いピンク色に細かな花柄を散らした壁に大きな木製の扉。こげ茶色の戸についた金色のノブにはこれまた細かく装飾が施されていた。その扉と壁の境目をじっと見つめる。
とにかく俺は浮き足立ち、同時に緊張していた。なぜなら、今日は一生に一度の晴れ舞台。三年の時を経て、ついに彼女と式を挙げるのだから。
キイ。扉が小さく音を立てて揺れた。細く開かれた向こう側に人影が見える。
「ねえ、母さん。変じゃないよね?」
「ええ、綺麗よ。とっても素敵。ホラ、早く見せてあげなさい」
かすかに話し声がもれてくる。その声に、胸はさらに高鳴った。
キイイ。扉がこちら側に押される。白いドレスの裾。今日の花嫁、五路あおいが姿を現した。
座っていた椅子から腰を浮かせ、彼女に一歩近づく。
「お、おまたせ」
胸の前で両手を組むのは、彼女が照れている時の癖だった。今も、白いレースの手袋をした手をそのようにしている。
「どう? 変じゃ、ない?」
「……似合ってる。すごく、似合ってるよ」
はにかみつつ微笑んだあおいにつられて微笑みを返す。
マーメイドラインのウエディングドレスを身につけたあおいは、今まで見たことのないくらい美しかった。そして、幸福に満ちていた。ただののろけかもしれないけれど、これが自分の花嫁の姿だと思うと、とても誇らしくて、自分は幸せ者だと思えた。
結婚が視野に入ってから、あおいはいつも「ドレスはマーメイドラインがいい」と言っていた。そして、結婚が決まってからは着こなせるように、と別に太っていたわけでもないのに、ダイエットを始めた。
もちろん、俺がそれを指摘すると、男の人にはわからない、と一蹴されたが。
その努力をしっているからこそ、その姿は一層輝いて見えた。
「ほら、このネックレス。おばあちゃんの代からずっと使ってるのがあるって、言ってたでしょ」
そう言って、組んでいた両手を解いて胸元を指差した。その開いた胸元を見て俺は凍りついた。
視線が釘付けになる。
「お、お前、それ……」
「え?」
あおいは、俺の視線と指した先に気づいて自分の姿を見下ろす。そして顔を上げて、少し眉を困らせて首を傾げた。
「やっぱり、ちょっと大胆かな? でも、マーメイドラインのドレスって、このくらい胸元が開いてるのが普通で」
「いや、違う。そうじゃなくて──」
──そうじゃなくて、その胸元のリボンはどうしたんだよ。
出かかった言葉は、直前で飲み込まれた。
あおいの胸元。開いた胸元の中央に、純白のドレスには不似合いな真っ黒なリボンが、いや、蝶が止まっていた。
黒い蝶。負の兆候。
ぞわりと背中を悪い予感が走る。
蝶は自身が不吉を運ぶ存在だとも知らない様子で翅を動かしている。そのはばたきの場違いな優美さから目が逸らせない。
どうして。
俺たちは今日、結婚するんだよ。二人で地道に資金を貯めて、何気なく未来の理想を話して。それで、今日、やっと。
なのに、なんで。
ウェディングドレスを着たあおいはこんなにも綺麗なのに。こんなに幸せそうにしているのに。どうしてそれを奪われなければならない? これから、新しい人生が今日からはじまるっていうのに!
口の中が急速に渇いていく。伸ばした指先がこわばる。胃の奥が締め付けられるように鈍く痛む。
「大丈夫? 気分、悪いの?」
あおいの声にはっと我に返る。
目の前には心配そうな彼女の顔があった。
アイラインで縁取られたアーモンド型の目を歪めて俺を見上げている。見つめる瞳は小さく震えている。
「顔色悪いよ。ねえ、大丈夫?」
俺の様子がよっぽど酷く見えたのか、あおいの声は泣いてしまいそうなほど不安げに聞こえた。
本当に泣きたいのは俺なのに。今、誰かに泣かれるべきなのは君なのに。
「大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ。もしかして、緊張しすぎかな?」
わざとおどけて誤魔化そうとしたが、うまくいっただろうか。まだ胃の奥を締め付ける気持ち悪さは残っている。脳裏に黒い翅がちらちらと映る。
俺の言葉を信じたのか、あおいは安心したようで、少し俺から離れた。すると。
ヒラリ。彼女の背後から小さな蝶が二羽。黒い蝶が、また。
こいつら、まだいるのか?
新たな二羽の姿を追ってあおいの背後に目をやり、驚愕した。背筋を冷たいもので撫でられたかのように寒気が走り抜ける。
あおいの周りには気づけば数えきれないほどの黒い蝶が飛び回っていた。彼女の白い衣装がかえって浮いて見えるほどに。
「あおい……」
「なに?」
あおいが笑顔をつくる。何も知らない笑顔。
その先に自分が何を言おうとしたのかわからない。でも、名前を呼ばずにはいられなかった。
「いや、なんでもない。……これからも、よろしくな」
無意識に無難な言葉を先に置いていた。
これから、なんて、どの口が言う? 今となっては、何よりも残酷な言葉だっていうのに。
改まった言葉にあおいは頬を少し赤くさせた。そして、いつもの癖で両手を胸の前で組み合わせる。ひときわ大きい胸元の蝶に手が触れるが、気づいた様子はない。
「な、なに、イキナリ。やめてよ。照れるじゃない」
「ごめん。でも、ありがとう」
「だから、なんなの? ……こっちこそ、ありがと」
本当に言っておくべきなのはこっちだったかもしれないな。そんなことを考えつつ、飛び交う蝶にざわつく胸を抑えて彼女を見つめた。
彼女が照れて笑うたび、戸惑って目を泳がせるたび、彼女の背負う黒い蝶が増える。一羽、また一羽。
「じゃ、そろそろ行くね。まだ、お互いに準備あるでしょ?」
「ああ、うん。じゃあ、また後で」
部屋を出て行く彼女と共に黒い蝶たちも一羽残らず部屋からいなくなった。知らない間に耳に染み付いていた羽音から解放され、室内に静けさが広がる。
さっきまで見ていたのが夢であるかのように、何もかも空っぽになった。
「夢だとしたら、とんだ悪夢だ」
だとしても、死ぬほど苦しい悪夢だったとしても、夢だったならどんなによかっただろうか。俺が見た蝶は、夢でも幻でもない。
お願いだから、黒い翅で彼女を隠してしまわないで。
行き場のない願いは静けさの中に溶けて消えた。
*
「ウエディングドレスは、絶対にマーメイドラインがいい」
結婚する。それが二人の共通意識になってきた頃、あおいが唐突に言った。いきなり何を、と思って見ると、結婚雑誌を読んでいたようだ。
いくら結婚を視野に入れているとはいえ、彼女が結婚の話題を出す度に俺は何故だか緊張した。
「ほら、これこれ。きれいだよねー。私、小さい頃はこっちみたいな、ふわふわしてる、お姫様が着るみたいなドレスに憧れてたんだけどさ、こういうのもいいなーって」
そう言って指差した先には体のラインにピッタリと沿ったドレスを着た有名モデルの写真があった。ページの上部にはウエディングドレス集、とピンクの文字でタイトルが書かれていた。
「へえ。いいんじゃない。あおい、身長もあるしスタイルいいし、似合うと思う」
「ほんと? 嬉しい。でも、もし本当に着るとなったら、もっと細くならないと」
「え、なんで?」
そのままで十分細いのに、と言うと、あおいはおどけて口を尖らせ、頬を膨らませた。
「まったく、わかってないなー。白って、膨張色なんだよ。油断大敵なの」
それに、とあおいが付け加える。
「それに、結婚式は、女の子にとっては何より大事な日なんだから、出来るだけきれいでいたいものなのよ」
何よりも大事な日。嬉しいような、照れくさいような気持ちがこみ上げ、ああとかうんとか曖昧な返事をする。
俺が冗談半分に今までの結婚の話を聞き流していた訳ではないが、正直実感が湧かなかったというか、まだまだ先のことだとばかり思っていた。あおいは俺よりもずっと先の、明るい未来をのぞんでいる。
そうか、俺たち、結婚するんだ。
胸の内でつぶやくと、ほのかな実感がゆっくりと染み渡る気がした。
「ねえ、そういえば、『サムシングフォー』って知ってる?」
「え、知らない。なんだ?」
聞くと、あおいはにやりと自慢気な笑みを浮かべると、手にしていた雑誌をパラパラとめくり始めた。そして、あるページで止める。
見開き二ページが大きく四分割されている。
「サムシングオールド、サムシングニュー、サムシングボロウ、サムシングブルー。幸せな結婚生活を送るための、ちょっとしたおまじない」
「えーと。古いもの、新しいもの、借りたもの、青いもの?」
「そう、それらを結婚式当日に身につけた花嫁は幸せになれるのよ」
俺から逸らしたあおいの目線は、手元の雑誌ではなく、どこか遠くを見つめているようだった。彼女には、花嫁になった自分が見えているのだろうか。
二人で歩む未来が、見えているのだろうか。
*
そう大きくはないチャペル、中央にはバージンロード。真っ赤な絨毯が敷かれている。
俺はひとり壇上に上がり、花嫁を待つ。
ああ、とうとうこの時がやってきた。
ここまで来た長い道のりと、ここから先にあると思われる悲劇を思うと、名付け難い複雑な感情がこみ上げた。
ひらひらと目の端を何かがよぎる。視線だけを動かしてその姿を捉えると、黒い蝶だった。
あ。
その視界の端に色の違う光が差し込む。重苦しい扉が開かれ、その向こうに、父親と腕を組んだあおいの姿が見えた。
その姿に俺は思わずゾクッとした。
──ドレスはマーメイドラインがいい。
あの日の彼女の声が不意に蘇る。
彼女がまとっていた純白のウェディングドレス。それが、今は彼女が気に入ったその形を残したまま、真っ黒に染め上げられていた。
目を凝らすと小さな震え、蝶の翅の動きがかすかにわかる。
あおいに無数の黒い蝶が止まって、ドレスを覆い尽くしているのだ。それはまるで、今にも彼女を喰らい尽くそうとしているかのように。俺はこれまでにないくらい強く、死の匂いを感じた。残酷な運命を肌で感じた。なのに。
漆黒のドレスに身を包んだ彼女は、これ以上ないほどに美しかった。
祖母から受け継いだネックレス。新品のドレス。友人から借りたハンカチーフ。ブーケには白に混ざって、薄いブルーの花。
花嫁の幸福と、死の不幸をまとった彼女は、言いようのない魅力で俺を魅了した。思わず、感嘆の息をこぼす。
一歩一歩、彼女が壇上の自分に近づいてくる。
ヴェールの向こうの彼女と視線が絡み合った。今、本当の花嫁姿を見せた彼女が照れ臭そうに目を細める。その笑みは、本当に、本当に幸せそうで。
──幸せそうで、よかった。
心の中であおいに語りかけると、左目からはらり、一足早く涙がこぼれた。
ああ、残り僅かな時間、彼女が少しでも長く笑っていられますように。
壇上に二人並ぶ。どちらからともなく見つめ合う。
私は、貴女に愛を誓います。