三章③
その日はよく晴れた日だった。ある春の日のこと、過度に暑過ぎず寒過ぎずちょうどいい季節だ。秋は寒さと暑さがはっきりしているから京介は春の方が好きだった。
水上京介は割と優秀な人間だった。
監視員を就職先に選んだのも大学の教授だった。京介は勧められたからという理由で監視員の試験を受けた。そして何故か通ってしまった。
監視員はこの国でもエリートが就く仕事だという認識が高い。それと同時に、人外魔境と恐れられる収容所と共に恐れられる存在でもあった。
軽い気持ちで受けた監視員の試験に合格した京介は複雑な気持ちだった事を覚えている。監視員は明確な意志を必要とする仕事だと言われていたからだ。それ即ち適応者を人として見ない事。
花でもいい。動物でもいい。石でも有機物でも無機物でもいい。ただ人間と思わない事。それが監視員の条件だった。
自分と同じように生きている彼らは人間ではないのだ。
国がそう定めた。どこからどう見ても、彼らは人間なのに。
その定義を受け入れられないまま、京介が収容所に入って三カ月が経った頃、その少女と出会った。
少女は懸命に空に手を伸ばしていた。収容所の壁の前で。外と内を隔てる問の前で、空を捕まえるぞと言わんばかりに。
「何してんだ?」
京介は思わず聞いてしまった。彼女は京介に背を向けているので京介が監視員だという事は知らない。だが振り返れば、逃げられるだろう。泣かれるかもしれない。何もしていないのだが、悪い気がしてならない。
「印を付けているんです」
少女は答えた。振り返れらずに、まだ虚空に手を伸ばしていた。
「印?何でそんな事してるの?」
「一週間に一度、こうして印を付けてるんです。あとどれくらい伸びればあの壁の天井に届くのか」
注意してよく見ると、彼女の手には親指くらいの大きさをした石が握られていた。それで収容所の白い壁に傷を付ける。傷は下から続いていた。それは自分の身長分の高さを柱に刻みつける遊びに似ていた。成長の記録でもある。
「この調子で伸び続ければ、私が二十歳になる頃には一番上に届きますね」
そう言って少女はえへへと照れたように笑った。京介は上を見上げる。外と内を遮る壁の高さは十メートルくらいだろうか。一体どのペースで成長すれば身長十メートルが実現するのだろう。というか不可能だ。町でそんな身長の人を見かけたら新人類と勘違いする事請け合いだ。
その事実を教えてあげようか迷ったが止める事にした。子供の夢を壊すのはよろしくない。その内きっと気づくだろう。そしてまた一歩大人になるのだ。
「外に出て何するんだ?」
収容所の外に出たがる人間は珍しい。京介が監視員になって知った事だ。その前までは出たくても出られないと思っていた。
「私はこの世界しか知りません。地球はこんなにも広いのに、私はその中のほんの少ししか知らないんです」
少女はゆっくりと振り返る。
「だから私は世界を知りたい。この青空はどこまで続いているのか見てみたいんです」
少女の寂しそうな横顔が京介の胸を締め付けた。
「あ、わわ。ごめんなさい。監視員さんだったんですね?気安く話し掛けてしまいました」
振り返った少女は京介を見てたじろいだ。だが他の適応者ほど恐れを顔に出さなかった。
「いや、俺から話し掛けたから。君は悪くないよ」
そもそも、監視員に話し掛ける事は罪でも何でもない。
「そう……ですか」
少女は考え込むように俯いてしまう。京介はそんな彼女をジッと見つめていた。特にする事がなかったからだ。
「あ、あの……」
思い切ったように少女は頭を上げ京介の方を見た。
「監視員さんは……外から来たんですよね?」
「うん」
「じゃ、じゃあ、私の知らない世界も色々知っていますよね?」
「ま、まあ…」
京介自身もそれほど世界を知っているわけではない。世界情勢もテレビで見る程度だし、海外旅行も修学旅行の一度きりだ。それで世界を知っているというのはおこがましいとも思う。だがそれでも少女の知る世界とは比べ物にならないのだろう。
「それじゃあ」
少女は顔を輝かせる。純粋無垢な明るい眩しい笑顔。見ているだけで力が貰えそうだった。
「―――空はどうして青いのですか?」
それが花梨との出会いだった。
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「水上、お前所長から呼び出しくらったみたいだぞ」
次の日朝食を食べに食堂に行く途中で同僚の一人が憐れむようにそう言った。
食堂の前にある掲示板に足を運ぶと確かに『水上京介。八月八日午前十一時までに特別人権適応法適応者統制中央局〈所長室〉』と貼り紙が貼られていた。
ちなみにこの長ったらしい名前の建物は『詰め所』と呼ばれている。
科学の最先端の国のくせに人事要項を貼り紙で伝えるはおかしな話だ。電話なり電子メールで伝えれば良いのでは?とも思ったが、収容所内でそういった電子機器を目にした例がなかった。あるとすれば所長室くらいだろう。
呼び出された用件はなんだろうかと京介は考える。
言わずもがな退職試験の話だろう。あれから一月以上経っている。そろそろ皮肉の一つ贈られてもよい頃だ。諦めろと耳元で囁かれるかもしれない。それは嫌だと京介は思った。だって口臭臭いし。
だが京介は既に一人協力者を見つけてしまっているので、今更引き下がれない。何より中止になったなんて言えるはずがない。下手をすれば殺されてしまう。
「………はあ…」
自然とため息が出る。不幸だと言ってみたくもなったが、なんだか失礼な気がして、そのまま言葉を飲み込んだ。
不幸は幸せを際立たせるスパイスらしい。だったらそろそろ幸せを提供してくれてもよい頃ではないだろうか。どんなスパイスもかけ過ぎると辛いだけだ。
――――――――――――――――――――――――
「どうした水上?あれから一月経ったがやはり思い直したのか?結構結構。お前も監視員として一皮剥けたという事か」
幸せを噛みしめてますとばかりに所長の皮肉気な声が響く。
こいつの座右の銘は『人の不幸は蜜の味』なのだろう。まさにムシウマ状態だった。
「皮肉言うだけの為に俺を呼び出したんですか所長殿?」
だったらはり倒すぞ!と京介は心の中で叫ぶ。
「まあそれがほとんどだと思ってくれて構わんよ」
「……だったら帰っていいですか?」
「ほとんどだと言っただろう。つまり他に用があると言う事だ」
相変わらず所長は観葉植物の水やりを欠かさないようで、今もじょうろで土に水を染み込ませている。根腐れすればいいのに。
「……何ですかそれは」
京介は嫌々ながらに尋ねる。
「ふむ、これだ」
所長は引き出しから一枚の用紙を取り出した。反面刷りのB5用紙。
所長に渡された用紙に目を通す。何故か用紙には握られたような皺が出来ていた。
「搬入リスト?」
京介は首を傾げる。
「そうだ。物資の搬入が今日の午後に来るのだが、ちょうど物資の管理をしていた職員が病気でな。代わりの監視員が必要になった」
「それを俺に?」
「うん」
「何で?」
「どうせ暇だろう?」
明らかな妨害行為だった。所長は京介が一人目の協力者を見つけた事を知っているのかもしれない。
「なに。簡単な仕事だ。物資を確認してチェックを入れるだけ。運搬は他の職員がやってくれる。一時間もかからんよ」
「そこに行くまで何時間かかると思ってんだ?」
「高々五キロだろう?若いくせに怠けるな」
外は今年最高気温らしい。今朝ニュースで見た。
常にスーツの監視員の京介が熱中症で倒れても文句は言えない気温である。むしろそれが所長の狙いなのかもしれない。
なんとも回りくどい。
「たまには真面目に働いてみろ給料泥棒」
してやったりと所長はほくそ笑む。殴りたくなった。
「……不幸だ」
今度こそ京介は大きなため息をついた。
収容所の東側と西側にゲートは存在する。主に物資の搬入は東側を利用している。理由は東側の方が道がなだらかだからだ。過疎地の山奥に作られる収容所に大型のトラックを向かわせるには大きな道路が必要になる。
東側にはその道が作られているので西側を使う事はあまりない。
とめどなく噴き出る汗を白いタオルで拭いながら京介は東側ゲートまで足を運んだ。
中央と違って人がいない寂しい場所だった。乱雑に生えた草は普段から手入れをされていないと言う事を明瞭に示している。東側がこれなら西側はもっとひどいのだろう。
三十六度の真夏日、もとい猛暑日の中、黒尽くめのスーツは燦々と降り注ぐ日光をこれでもかとばかりに溜め込んでいる。歩くサウナ、もしくは歩く加湿器と言う所だろう。
この姿で熱中症になり病院に運ばれたらと考えるとなんとも恥ずかしい。熱中症とかマジ勘弁。
京介はゲートの前に出来た大きな影に避難する。
「ちょうどいい時間だな」
京介は腕時計に目を向ける。
二時五十七分。トラックが来る時間は三時と紙に書いてある。
手に持っていたペットボトルの蓋を開け口をつける。
中から流れ出る純粋な水は、夏の暑さにやられて冷気を失っていた。
ぬるい水はあまり好きではなかったが我がままは言っていられない。水は京介の生命線だからだ。
「……来たか」
分厚い壁の向こうから微かにエンジンを回す音が聞こえてくる。音は次第に大きくなり、やがて停止した。時刻は三時きっかり。運ちゃんはいい仕事をしていた。
『物資をお届けに参りました。ゲート右側の搬入口からお贈りいたしますのでご確認ください』
「了解」
向こう側から聞こえてくる言葉に返事を投げかける。
それを聞いた運ちゃんは何かを操作する為に遠ざかって行く。
ふと、ローラーを回すような機械音が鳴り響く。
音のする方に目を向けると人の身長くらいのサイズをした大きな穴があった。正方形の穴の口の部分には垂れ幕のような物がついている。一瞬考えて、空港などで見る荷物が出てくる穴だと判断した。たしか搬入口と呼ばれていた。
案の定搬入口から垂れ幕を押し出し荷物が出てくる。
一メートルくらいの大きめの箱だった。
「え?俺が持つの!?」
持ち運びは他の人がやると所長は言っていたが嘘という可能性もある。むしろ嘘の可能性の方が高い気がする。
その間にも物資はどんどん流れ込み入り口を塞ぎそうになっている。京介一人では運べる量ではなかった。
「ちょ、ちょっと待って」
あたふたしつつも壁の向こうの運ちゃんに向かって叫ぶ。物資が物資を押しつぶしそうだった。
「うわっ何だお前ら!」
京介の体を避けるように小さな体が通り過ぎた。一つかと思われたそれはどんどん数を増し積み上げられた荷物に群がる。
どうやらこれが所長の言っていた運搬係りのようだ。引っ越しロボットとでも呼ぼうか、小さな体で自分よりも大きな荷物を軽々と持ち上げる様は働き蟻を彷彿させる。
「……確認もロボットにやらせろよ」
全部ロボットで出来るじゃんと京介は呟く。
全ての物資を運び終えたらしくトラックが再びエンジンを噴かし遠ざかっていく。数十秒もすると音は完全に聞こえなくなった。
振り向けば引っ越しロボット達が横一列にずらりと並んでいた。確認待ちなのだろう。
京介は折りたたんでポケットに入れた搬入リストを取り出した。
そして横目でリストと荷物を往復させながら、横並びになった荷物にボールペンでチェックを入れていく。
チェックを入れられた荷物はどんどんこの場を去っていく。遠目から見れば箱が勝手に道を歩いているように見えてかなりシュールだった。
生物が入っていたら腐るのではないかと心配するくらいにこの場は暑かった。暑さを感じないロボットには分かるまいと悪態をつくが返事はない。一応人工知能を搭載しているのだから何かアクションを起こしてくれてもよいのに。
「……う」
クラッときた。少し足元が覚束ない。早く宿舎に戻って夏場の友、エアーコンディショナーとお話したいと切に願う。
太陽がニヒルに笑っているようだった。決して手の届く事のない遙か高みから見下ろされているような錯覚。熱にやられたようだと京介は呟く。
そして京介はそれを見た。
長方形の箱だった。横幅五メートルくらいの縦長の箱で、引っ越しロボットが四台掛かりで持ち上げている。
箱はダンボールではなくプラスチックのような素材で所々に穴が開けられている。湿気を嫌う物なのだろうか。
半ば朦朧とした意識で京介は箱の前まで向かう。
白い箱だった。陽の光を反射して輝いているようだ。
白い箱の左上にチェック覧があり、そこに京介が印をつければロボット達によって運ばれていく。
だというのに京介は箱の中身が気になった。他とは違う、異質な白い箱の中身を見てみたくなった。
『……………………』
「っ!?」
うめき声が聞こえた気がして京介は辺りを見回した。京介以外にこの場に人間はいない。ならば幻聴なのだろう。熱中症の症状にあったような気がする。
だけど、京介の注意は箱から離れなかった。
箱から声が聞こえてきたような気がした。
「…はは、妄想だろ常考」
本格的に熱が回ってきたようだ。先ほどから汗が出ない。体に熱が溜まるばかりで放出されない。
白い箱には留め具が三つついていた。鍵はない。中を見る事は簡単だ。
京介は留め具の一つに手をかけた。中身を見たい訳ではない。ただ確認したかった。この白い箱の中に変な物は入っていなかったと。
パチンと弾くような音を立て留め具が外れる。だが中身は見えない。
京介は二つ目の留め具を外す。それでも中身を見る事は出来ない。
いつの間にか呼吸が荒くなっていた。まるで拒絶するように京介の手が震える。
そして三つ目に手をかける。
留め具は一瞬解錠を拒んだが逆らえず役目を失う。
心臓が高鳴る。頭がガンガン痛む。コンディションは最悪。
一息ついて、京介は箱の蓋に手をかけた。中が正常だと確認してさっさと帰ろう、と何度も心の中で唱える。
蓋は思いの外軽く、簡単に持ち上がった。外よりもさらに暑い熱気がむわっと溢れ出る。例えるならサウナ状態だ。
京介はゆっくりと中を覗く。
「………」
そしてゆっくりと蓋を閉じ、チェック覧に手首のスナップを利かせた印をつけた。
下の引っ越しロボットはそれに反応し動き出す。あれはどこに運ばれるのだろうと無駄な事を考えてしまう。
そのまま立ち尽くし箱を見送る。一緒に帰る気にはなれなかった。
暑さの所為で覚束ない視界から箱が見えなくなった所で京介は歩き出した。
宿舎に帰る前に寄り道していこうと京介は考える。たぶん向こうもそれを予測しているような気がした。
箱の中身は確かに生物だった。