三章②
とある喫茶店で京介と美野里は向かい合い座っていた。
頼んだ物が来るまでの手持ち無沙汰な時間を会話で消化することなく二人は互いに視線を外したままだった。
京介は水の入ったグラスを傾ける。中には氷が照明の光に当たりキラキラと輝きを放っている。飽和した水蒸気が水へと変わり表面を濡らす。京介はそれをお絞りで拭き取り元の場所に戻した。
「―――あれから一月が経ちました」
見計らったように、美野里の声が響く。声色には怒気が含まれている。
「だというのにあなたは未だに二人目を探しだせていません」
何か弁明は?とドスの利いた声に京介は首を九十度反らす。
「私が荷造りを完了させたのは二十日前よ。あまりにも遅いから一度解いたわ」
「……申し訳ない」
京介は机に頭をこすりつける勢いで頭を下げた。近くの客は頭を下げる監視員と頭を下げさせている適応者に驚きの視線を向けていた。
「話し掛けるだけで逃げられるんだ。逃げなくても怯えて話も出来ない」
「……よっぽど嫌われてるのね」
嫌われているというより恐れられているに近い。京介が何かした覚えはないが、きっと他の監視員がやらかしているのだろう。それを止める手段は京介にはない。
「お前と夏紀と花梨くらいだよ。俺とまともに会話してくれるのわ」
京介がそう言いきった後に、お盆を持ったウエイトレスが二人の机の前で立ち止まった。京介は頭を上げ、アイスコーヒーとサンドイッチを受け取る。
受け取る際にウエイトレスの方を少し見つめてみたが、一度も目を合わそうとはしなかった。少し悲しくなり、無心でストローに口を付けアイスコーヒーを吸い上げた。砂糖もミルクも入っていないコーヒーは苦かった。
「私もあなたを初めて見た時は少し怖かったのよ」
ウエイトレスが過ぎ去っていくのを確かめた後、美野里は小さな声で言った。
「俺ほど人畜無害な人間はいないと自負してます」
「仕方ないのよ。監視員って総じて悪魔みたいな奴だと思ってたから」
ひどい話だ。少なくとも京介は自分や自分の同僚が適応者に危害を加えた事を見たことはない。彼らは無害だ。本当に何もしないのだから。
「……その理屈はおかしいよ」
京介は力無く答えた。先入観ととは恐ろしい。
「ええ。でも今は怖いだなんて思わないわよ。だってあなたは私に逆らえないし」
「……対等くらいの力関係にしてくれない?」
自分が監視員だから主張しているわけではない。彼女を上に置いてしまうと何を要求するか分からないからだ。
「まあ、今後の働き次第ね」
美野里はテーブルの真ん中に置かれたサンドイッチを一つ掴んで端をかじった。口に手を当てて咀嚼する。その姿は女性っぽいと京介は思った。
「どうして空は青いんだと思う?」
「は?」
急に聞かれた美野里は疑問の声を上げる。
「花梨に聞かれたんだ。昔に。いつか答えると言ったまま早二年」
「待たせすぎよ。もう花梨ちゃんも忘れてるんじゃない?」
「いや。毎日会うたびに聞いてきた。最近は言ってこないけど」
京介に気を使っているのだと思う。京介が退職活動(?)で忙しいから。
「科学的な理由なら知ってるんじゃないの?」
「それじゃあ駄目らしい。もっとロマンチックなやつ」
「そうね……」
アイスコーヒーを口に含み飲み込んだ後、美野里は目をつむって考える。別に答えを求めているわけではなかった。ただ美野里との話の話題として出しただけ。答えは自分自身で見つけなければならないと京介は思う。
「神様の気分じゃないの?世界を作った時に、何となく今日のラッキーカラーが青だったとか」
「神様は意外とミーハーなんだな」
世界を作る前に星座占いとかやってたの遊んでたのだろう。
「まあ、そんな大ざっぱな神様に創り出されたと思うと自分が滑稽に見えるけどね」
「そうだな」
それには同感だった。仮に神様が大ざっぱではなかったのなら、世界はもっと単純に出来ていたはずだ。もっと簡単に幸せを感じられる。悲しみや苦しみなんて最初から作らないはずだ。大ざっぱな神様は世界から悲しみを取り除くのを忘れた。それは意図的なのか偶然なのかは分からない。ただこちらとしてはいい迷惑だ。
「話題がずれたわね」
軌道修正するように美野里はまたサンドイッチを掴んだ。何故か一つずつ間隔を空けるので隙間から先の景色を見る事が出来る。
サンドイッチから覗いた世界の視野は酷く狭かった。
「普通に話が出来ればよかったから」
京介は皿の上のサンドイッチを掴んだ。真ん中の玉子サンド。サンドイッチの間隔は二倍になる。それでも全てを見渡すには狭すぎた。
――――――――――――――――――――――――
「美野里は働かないのか?」
「まるで人の事をニートみたく言わないで」
事実なのだが口には出さない。
「働きたい人が働けばいいのよ。みんなそうやってる」
美野里はウエイトレスに目を向ける。彼女も美野里と同じ適応者だ。
収容所内には様々な店がある。
ショッピングセンターから喫茶店、美容院からガソリンスタンドまで。外にあるものなら大体揃っている。そこで働くのは正規の社員でなく監視員でもない。病院や一部の機関を除き、他全てが適応者達で行われている。
美野里の言う通りで、実際収容所内では働かなくてもいい。必要な物は望めば与えられるのだから。働いて私腹を肥やす必要もない。
だが収容所内で職を持っている適応者の割合は四割を上回っている。
それは何故か、理由は複数あると思うが一番は自分の立ち位置をはっきりさせる為だと京介は思っている。
その証拠に職を持っている適応者のほとんどは外にいた頃の職に就いていた。
アイデンティティの確立。それが彼らが求めて止まないものの一つであった。収容所に入ると強制を強いられる事がなくなる。納税の義務や、働かなければならない義務。子育てする義務や生きる義務さえ強制されなくなる。ただ一点。監視員に逆らわない義務を除いて。
人はルールに縛られているからこそ、辛うじて人としている事が出来る。
この町にはルールが少なすぎた。人の形を保つには、あまりにも頼りがない。
だから彼らは自分達でルールを作る。作ると言うより、作られたルールを適応する。彼らは人権を奪われ、人でないとされたが彼ら自身は自分がまだ人間であると信じたいのだ。
その為に地位を求める。自分が社会に役立っていると、歯車の中に埋め込まれているのだと信じる為に。
「その点美野里は社会的地位に興味が無いんだな」
「私がここに来たのは学生の時よ。卒業もしてないのに連れて行かれたから今も留年中なのよ。だから私の地位は今でも学生」
もの凄く便利な言い訳だと京介は思った。あまり留年し過ぎると除籍されるのでは?とも思ったが、彼女は校長から除籍と言う言葉を聞くまでは納得しなさそうだ。永遠の学生。いい響きだった。青春の香りがする。
「便利だな。何歳になっても学生料金だ」
「ここでお金は使わないわよ」
その通りだ。適応者に貨幣経済は存在しない。何時でも何処でも無料だ。
「その点俺達は何故か給料制なんだが……」
京介は小さくため息をついた。
適応者に貨幣経済は存在しないが監視員は別だった。月給が存在し、物を買うときはクレジットカードを使う。もちろん預金を使い果たせば使用出来なくなる。
「どうせ貨幣経済もない原始的なあなた達とは違って、文明人の私達はお金という概念がありますよって言う嫌味でしょう?ロクに仕事もしないくせによく言えるわね」
確かに監視員は基本的に仕事をしていないように思える。町を闊歩して彼らを見ているだけでお金が貰えるのだ。
町で働く適応者や、毎日町を掃除しているロボットの方がよっぽど価値がある。だが適応者は監視員に逆らえない。腐敗しきった太古の王制のようだ。
「大言壮語が得意技ですから。実際束になって襲われたら一溜まりもない」
一万対五十人では話にならない。向こうにも多少の被害が出るかもしれないが、その間にこちらは全滅しているだろう。
「そうね。そのスーツ動き辛そうだし」
美野里は身を乗り出して手を伸ばし京介のスーツを指で掴んだ。材質を確かめるように指で撫でる。
「無駄に高級そうね。年中着てるけど替えはあるの?」
「家に数十着くらい」
「ある意味一張羅ね」
美野里は椅子に座り直す。
「………やっぱり花梨ちゃんしかいないと思うのよ」
突然美野里はそう言った。
彼女が何を言っているのかは理解出来る。
「あいつは親を見付けるまでここを出る気はないよ」
だが花梨の決意は固かった。あれから何度か彼女に話を持ち掛けたが、返事は同じだった。
「親が見つからないかもしれないじゃない。あの子が何年親探しを続けてるのか知らないの?」
少なくとも京介が花梨に出会った二年前、すでにその時から彼女は親を探している。そしてその時から外への憧れを抱いていた。
「俺が知ってるのは二年前からだ」
美野里は小さく首を振る。
「もっと前よきっと。多分、物心ついた時からあの子は親を探してる」
花梨は十二歳だそうだ。どの時点で物心がつくのかはっきりとしないが、十年近くは経っているのだろう。彼女の人生はその事に埋め尽くされていたのだろう。とても空虚なものに京介は思えた。
「多分あの子の両親は……。いえ、そうでなくとも諦めてもいい頃だと思うの」
美野里は何かを言いそうになってそれを止めた。口にする事を躊躇った。変わりに諦めていいと、言葉を変える。
「まあ、それを決めるのはあいつだからさ」
そう言って京介は話を打ち切った。まただった。そうやってすぐ決断を他人に委ねた。京介自身、どちらに転んで欲しいかなんてはっきりしているくせに。保身の為に嘘をつく。それがたまらなく嫌だった。
「まあ確かにね。でも示唆する事は悪い事じゃないと思うの。それがあの子にとっての幸せになるのなら」
「幸せの基準なんて人それぞれだよ」
「だったら幸せに感じられるようにする。あの子の新しい幸せを見つけてあげる」
彼女は正しい。それが人として理想的な姿だ。彼女は京介なんかよりもよっぽど人間らしい。自分と他人の為に何かを考えられる、幸せを求められる、あるべき人の姿。京介には時々それが眩しい。
「理想論だ。現実を見ないと」
そうやって京介は何故か否定する。理想の何が悪い。理想と現実なんて曖昧模糊な関係だ。
例えば戦争を無くしたいと理想を抱く人がいて、目の前で戦争という現実を見せられる。
一方その後ろで、軍事会社の社長は自分の利益の為に戦争という理想を抱く。
どちらも現実は同じ方向を向いている。だが理想は違う。戦争を無くしたいと思う人の理想と、戦争を求める人の理想は対極と言える。そして一方の理想は叶っている。
叶った理想は何と呼べばいい。
それこそ現実と言うだろう。
叶わなかった理想は何と呼べばいい。
それもまた現実だ。
叶った理想も叶わなかった理想もどちらも現実ではないか。
ただの言葉遊びである。
「そうね。ここにいると現実を忘れちゃいそうになるの」
少し怒った口調で美野里は答える。
「いや、責めてるわけじゃないんだ」
「……そう。もう時間だし行くわ。花梨ちゃんを諦めるなら早く別の人を見つけなさいよね」
美野里は立ち上がり喫茶店を出て行った。呼び止める暇もない。時間だと言うが彼女にこれから予定があるとは思えなかった。知り合い少なそうだし。レンタルショップの返却期限でも迫っているのだろうか。
「………俺達はお金を払わなきゃいけないってさっき言ったじゃん」
美野里がレジで適応者専用のカードを使った形跡はなかった。
つまり京介は二人分を支払う事になる。
逃避したくなった。
だが文明人は文明人らしく現実と向き合わなければならないらしい。
午後のほとんどを勧誘に回したが、結局一人として外に出たがる人間はいなかった。
というか話すらまとも聞いてもらえない。宗教勧誘やキャッチセールスをしている人を尊敬しそうになった。彼らはきっと狩りの達人であり、口先の魔術師なのだろう。適材適所という言葉が思い浮かんだが言い訳にはならない。
京介は宿舎に戻り少し早い夕食をとることにした。
思いのほか食堂は他の監視員達で埋まっていた。京介が普段夕食をとる時間の方がまだ空いている。
「ご注文の方はお決まりでしょうかぁ?」
妙に甘ったるい声で、接客ロボットは注文を伺う。アキちゃんとは違い彼女は話す言葉が限られているので、言葉があまり途切れない。
「今日はナポリタンの気分です」
「ナポリタン、ですねぇ?少々お待ち下さぁい」
接客ロボット、通称セっちゃんは後ろを向く。
その先には厨房に控えた調理ロボットがいて、セっちゃんは何か電波のような光線を送った。調理ロボットは命を吹き込まれたように動きだし、人間と変わらない動きで料理を作る。
「お先にカードの方をお預かりいたしますぅ」
セっちゃんにカードを渡す。セっちゃんはカードを指でなぞり、その後京介にカードを返えした。その間数秒。仕事熱心だ。京介はそう思った。
数分してお盆に乗ったナポリタンを渡され京介は辺りを見渡す。席はあらかた埋まっている。出来れば端に座りたかったが、退いてもらうわけにもいかず、京介は空いていた真ん中辺りの席についた。
「お前がこの時間に来るなんて珍しいな」
隣から聞こえる声に京介は首を横に傾ける。
その男は一本のうどんを箸でつまみながら、京介を見ている。少しにやけた面構え。これが男のデフォルトなのだろう。
「……えーと、前川さんだったっけ?」
「『ま』から『ん』まで一文字も合ってないわ!朝霧だよ。朝霧一樹。二年も同じ屋根の下で暮らしておいてそれはないぞ」
あらぬ誤解を招きそうだが、別に彼と一緒に暮らしているわけではない。同じ宿舎で暮らしているだけだ。しかも京介の部屋の上にはさらに三つほど屋根がある。
「それで、前川さんは何で俺なんかに話しかけるの?」
「前川さんじゃないって」
「あだ名だから気にしないで」
前川さん(あだ名)は不満そうにうどんを啜った。汁が弾け飛び、京介のナポリタンに少しかかってしまった。
これでは和風ナポリタンだ。
「……お前ってさ、最近この時間に晩飯食いに来たことないじゃん?昔は俺らと同じくらいだったのに」
前川さんは箸で時計を指さす。七時十二分。テレビで言う所のゴールデンだ。
「ああ…うん、基本的に夕食は十時くらいだからな」
「何でそんなに遅いの?」
「生活習慣」
答えになっているのか分からない回答で京介は前川さんから視線を反らす。
あなた達とあまり関わりたくないからなんて言えるわけがない。
京介はフォークを和風ナポリタンの上に突き刺す。そしてぐりぐりと中をじっくりと蹂躙した後、巻き付いた赤いパスタを口に運ぶ。標準的なナポリタンだ。料理人の腕が光るというわけでもない。代わりに料理人から光が出ている。反射的な意味で。
「そういやさ、なんか最近お前が適応者の尻追っかけ回してるって噂よく聞くんだけど。あれマジ?」
前川さんはうどんの中に七味を入れながら尋ねる。あまり信じていなそうな様子だった。
「………」
京介は無言を貫いた。あながち間違っていない。監視員はその少なさ故、ネットワークは狭いと踏んでいたが流石に見られていたようだ。
「え、マジなの?」
向けられた視線を避けるように京介は横を向く。
ふと、向いた先で京介に熱い視線を送る人物がいた。怒りにも似た侮蔑の視線。その視線の主は京介の方へとゆっくりと向かって来た。
ラーメンの汁がこぼれないように。
「貴様も落ちたものだな水上。よもや適応者に欲情するとは、それでも監視員か?」
その男は京介隣の席にお盆を強く置いた。味噌ラーメンの汁が京介のナポリタンへと注がれる。和風と洋風と中華の遺伝子を持つ夢のナポリタンが完成した。
キッと音が鳴りそうなほど鋭い視線が京介を射抜く。
「それは誤解だって。えーと石田さん?」
「僕の名前は浅井だ!浅井拓真。国会議員、浅井佐久間を祖父に持つ生まれながらにしての勝ち組。二年も一緒に暮らしておいて何故覚えない!?」
石田さんは必要以上の自己紹介をする。一族に誇りを持っているのは素晴らしい事だ。彼もまた一族繁栄の為に頑張っているのだろう。
「あだ名だって気にするな」
「そうそう。俺だってさっきこいつにあだ名つけられたし。前川さんだって」
京介の左に座っていた前川さんが介入すると、石田さんはフンと鼻で笑った後、京介の右側の席についた。
「浅井って、いつもラーメンとかカレーとかB級な感じのするやつばっか食べてるよな?」
「浅井の家にいた頃はこんな庶民の食べ物食べれなかったからな。戻る前に一度は食べておきたかったんだ」
「その割に頻度が高いみたいだけど、案外味覚が庶民派なんだなお前って」
「馬鹿にするな!僕は浅井の長男だぞ。監視員という優秀な実績を残し、いずれ政界の重鎮にまで登りつめる男が庶民の生活を知らないでどうする?」
「言い訳のスケールがデカいねー」
自分を挟んで繰り広げられる会話に居心地の悪さを感じた。
前川さんと石田さん、もとい朝霧と浅井は京介と同期の監視員だ。朝霧は飄々とした中にも優秀さを兼ね備え、浅井は一族の誇りを背負い努力を惜しまない男だと記憶している。
どちらも監視員の中では一つ頭が出た存在で、京介とはタイプの違う人間だ。
「……ごちそうさま」
和洋折衷ナポリタンを腹に収め、京介は立ち上がる。
「部屋に戻るのか?」
「ああ、前川さんと石田さんはまだ食べてるだろ?」
朝霧はともかく浅井は食事を始めたばかりだ。二人を置いて京介は歩き出す。後ろから僕は浅井だ!という抗議の声が聞こえたが京介が振り返る事はなかった。
お盆を専用の場所に置き京介は時計を見た。まだ八時にもなっていない。普段よりもかなり早く食事をしたせいか胃に少し違和感を感じる。
「……明日に備えて寝るのが一番か」
「―――ねえ水上君」
透き通る声に京介は視線を移した。いつの間にいたのか、京介の目の前に一人の女性が立っていた。切れ長の瞳と黒いスーツに身を包んだその姿は凛々しいという印象を受ける。
「私の名前は何かわかる?」
からかうように女性は京介を見つめる。
「………神道沙耶」
「あら、あだ名で呼んでくれないのね。仲間外れにされてるみたいで少し寂しいわ」
そう言った彼女はちっとも寂しそうではなかった。彼女は何時も一人だった。誰ともなれ合わず、誰とも行動を共にしない。野良猫のように気まぐれで、孤高な存在。だからこそ京介は彼女を凛々しいと感じる。
「どんなあだ名がお好みなんだ?」
「そうね。さーちゃんとでも呼んで貰おうかしら」
「安直な上に似合わないな」
「そう?子供の頃はみんなからそう呼ばれて親しまれたものよ」
彼女に友達などいたのか不思議な所だ。美野里とは違う次元で友達を作らなさそうだと思う。
「くすくす。次に会う時まで考えておいてね」
そう言って彼女は笑う。感情が希薄な笑み。アキちゃんやセっちゃんとは違う人間らしいその表情は真意を掴み取らせない。一言で言うなら、京介は彼女が苦手だった。最初に会った、その時から。
気づけば彼女は消えていた。どこに行ったのか分からない。外に出たのかもしれないし、部屋に戻ったのかもしれない。探す気はない。野良猫は探すのに苦労するから。
「……あだ名ね」
野良猫。彼女にぴったりだと思う。本人が気に入るかは別として。
「おい水上!!」
怒号に似た呼び出しに京介は振り返る。
そこには石田さん、浅井拓真が仁王立ちして待ち構えている。
「お、お前い、今…沙…神道さんと何か話してただろ?いっ一体何を話していたんだ?言ってみろ……」
その割に言葉は途切れ途切れで、語尾は最初の半分くらいの声量になっている。
「あー。浅井ってさ、神道に惚れてるみたい」
隣にいた前川さん、朝霧一樹は京介に耳打ちする。言われなくても態度で分かる。流石良家の生まれで恋愛には耐性がないようだ。
「な、何だ水上、い言えないのか?言えない事なのか!?まさか……まさか沙耶さんが…こんな男に……」
浅井は一人で盛り上がっている。心の中では名前で呼んでいるのだろう。色々と勝手に妄想を膨らませていた。
「彼女に素敵なあだ名を考えてやれ」
石田さんの肩を叩き、京介は部屋に戻った。
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部屋に戻り軽くシャワーを浴びた後、京介はベッドに倒れ込んだ。
疲れが一気に押し寄せてきたとは言い得て妙だと思う。ある一定のラインまで気を抜くと今まで感じなかった披露は体を駆け巡る。防衛する暇もない。陣形を組む前に落城してしまう。
仰向けに横たわり京介は天井を見つめた。天井が木の板で出来ていれば模様で何かを形作り、暇つぶしになるのだが、あいにく天井は無機質な白に埋め尽くされている。
無いので在るような気になってみる。
天井の模様は時に人の顔に見える事がある。というか点が三つあれば顔に見える。のっぺりとした顔についた目目口。とてもじゃないが友好的には見えない。取って喰われてしまいそうだ。
「幽霊に出会ったら無条件で逃げるけど、あれって逆効果だよな」
基本的に幽霊は足が遅い。足があるのかも分からないがとにかく動きは鈍い。逃げる事は容易いだろう。
だが何故逃げる必要があるか。この時祟りはないと仮定する。彼らが使えるのは己の体のみだ。彼らが武器を持っていない場合は彼らより俊敏に動ける人間の方が有利だ。
まず幽霊に触れないという先入観がいけない。こちらが触れなければ、当然向こう側も触れない。彼らが触れなるなら我々も触れる。よく彼らは規格外の力を持っていると言うが、死後なにも口にしていない彼らに満足な力が出せる筈がない。彼らだけが触れられるなんてこの世の理から反している。だから幽霊なのでは?という議論は置いておこう。今はそれを話し合う時間ではない。
ならば彼らは無害だ。出会った時は鼻で笑ってやろう。
そう考えて子供の頃京介はよく深夜のトイレに行った。前向きな子供だった。
「俺達もそれと同じなんだよ」
監視員も無害だ。無害というより無力に近い。複数で囲んでしまえばひとたまりもないのだ。だが彼らは自分達を恐れる。戦う意志を見せない。
国が怖いからだろうか。反逆者と呼ばれたくないからだろうか。彼らは反逆者とは呼ばれない。まず人として扱われないから。
「あいつらは異常なんだよな」
頭に思い浮かべたのは三人。
三枝美野里。安藤賢。そして花梨。
彼女達は京介を恐れない。対等として接してくる。京介はそれが嬉しかった。
そう、あの日も。京介が初めて花梨と出会った日も、同じ気持ちだった。




