一章
水上京介はとある建物に足を運んだ。町の中央に位置するその建物は町の顔として有名である。長ったらしい名前が付けられていたが多くの人は『詰め所』と呼んでいる。実際ここにはそういった職種の人間が集まるのでその名前に違和感はない。
「水上、お前がここに来るなんて珍しいな。所長に会うなら服装正してけよ」
「ああ、分かってるさ」
同じスーツに身を包んだ2人だが着こなしは正反対だった。もちろん異常なのは京介なのだが。
同僚の若い男が階段を下りていくのを見送った後、京介はネクタイの結び目を緩め抜き取った。これが京介流の正装なのだろう。
京介は詰め所の最上階に来ていた。12階建てのビルの窓から見下ろす景色は絶景で京介も上から物を見下ろすのが好きだった。自分が下の人間より特別な人間になれたような気がするからとどうしようもない理由からだが。
だが京介はこの階が嫌いだった。この階というかこの階にある唯一の部屋の住人が嫌いだった。それは京介の上司に当たる。普段ならある事を除いて呼ばれないかぎり絶対に来ることなどありえないのだが、今回は要件がそのある事だった。
扉の前に立つ。京介はジャケットを脱いで廊下の端に放り投げた。ネクタイ無しのYシャツとズボンという上司に会うには相応しくない恰好なのだが今から会う人間にそんな礼儀はいらないと京介は判断している。
このドアを開けた日には必ずと言っていいほど生傷を作っていた。そんな嫌な思い出思い出しながら京介はドアを力強く開け放った。
開けたドアの先には一人の男が立っていた。普段なら高級そうな椅子に座りながらふんぞり返っているはずだ。何故立っているのかと注意深く見ているとどうやら植物に水をやっているようだ。似合わない事をと京介は思ったが口に出すべきかどうか迷った挙げ句
「似合わない事やってんのな」
迷わず口に出した。
「私がお前に会うと何時も不快な気持ちになるのだが、これが職場いじめというやつか」
男は水やりを終え、京介と向かい合った。嗄れた声と脂っぽい顔、中年真っ盛りで加齢臭のほのかに香る御仁こそが京介の上司である坂城春麻である。
「これがいじめならいじめられる方に問題があったんだな。きっと」
「馬鹿か、何時の時代もいじめる方に原因があるに決まっておる。何故心に留めておく事が出来んのか」
「思ってるだけならまだしも、それを口にしたら戦争ってか?」
「いかにも、戦争だ」
そう言いながら所長は高級そうな椅子に腰掛け、また高級そうな机に肘を置き、うっとうしそうに京介を見上げた。
「それで、お前は私に戦争を仕掛けにきたのか?」
ギラギラとした獣のような視線が京介を刺す。蛇に睨まれた蛙のように固まってしまってもおかしくないほどの重圧を、京介は飄々とした態度で受け流す。
「まさか、腕っ節であんたに勝てるかよ」
「なら何をしにきた。お前が呼ばれる以外にここに来たことなど一度もなかった筈だが」
「呼ばれる以外に一つだけ自発的に赴く理由がある」
「それはなんだ?」
「俺“監視員”辞めるわ」
京介が自発的に所長に会いに行く唯一の機会。それは退職する時にある。
所長は京介の言葉に一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに皮肉気な表情へと変化する。所長は人を小馬鹿にするような表情をデフォルトでしている。もうその形に固定されているのでは?と思うほどだ。
「水上、お前この国から出られると思っているのか?」
「ええ、第51項目に書かれてますから。“所長”の許可が下りればと」
「その所長から許可が下りるとでも?」
「あんたと俺の仲じゃん。ノリで許可しちゃえよ」
「帰れ」
京介の要求は所長に一蹴される。そう簡単にはいくまいとは思っていた。機密保持の収容所に入った人間が外に戻ってきたという話は聞いたことがない。京介の要求はかなり常軌を逸する行為だった。
「しかし何故辞めたいと思った?職場環境は最高水準だと思うのだが……お前は何に不満がある?」
「全部だ。この町も人も在り方も全てに嫌気がさした」
「ふん、くだらんな」
実にくだらない。所長はそう言って京介を鼻で笑った。その態度に少しムッとした京介だったが日頃からこの所長はこんな感じだったと思い直し、小さな怒りの火を吹き消した。
「ここに勤めて12年になるが、お前みたいな奴は腐るほどいた。くだらない正義感を抱き、こんな非人道的な行いが許される筈がないと私に刃向かった人間がどうなったかわかるか?」
固定された不敵な笑みをさらに吊り上げ所長は愉快に笑った。所長は残忍な人間だ。人が苦しむ姿を見るのを好む。その所長に刃向かった人間がどうなったかなど想像するだけで気分が悪くなる。
「さあね、磔にでもしたのか?」
「全員改心して真っ当な監視員になったよ。私の教育の賜物だ」
そう言って所長は誇らしげに胸を張った。おどけるような態度は心底人を見下しているように感じられた。なってはいけない大人の典型だと京介は心の中で毒づく。
「『特別人権適応法』の施行によって我が国での犯罪率は7割減少という快挙を成し遂げた。元々平和な国だったが、この法律で更なる平和を実現した。世界一安全な国と言っても過言ではない」
腕を後ろで組み、京介に背中を見せるようにし、昔話をするように所長は話始めた。誰に向かって話すでもなく。独り言のように淡々とした口調でこの町の経緯について語り始める。京介は口を挟むことも出来ずただ所長を見つめる事しか出来なかった。
「当時犯罪者の再犯率は3割を上回っていた。それは何故か、刑が甘いからだ。殺人さえしなければすぐに社会復帰ができる。さらに未成年というだけで刑が軽くなることさえあった。この国の法律は犯罪者を守るように作られていた。犯罪者の社会復帰を応援しようという団体まで現れた。だから奴らは繰り返した。どうせまたすぐに戻れると甘い考えを持って」
「そして国明党の有力議員だった三島新多氏はある法律を提案した。犯罪者から人権を奪ってしまおうという内容だった」
そしてその法律は施行された。
「人権をなくした彼らは法の加護を受けれなくなり、彼らは居場所を求めた。そして収容所が作られた」
所長は向き直り、京介を睨むように見上げた。
「とまあ、ここまでが教科書でならう範囲だ。お前も嫌というほど聞かされただろう」
「ええ、まあね」
京介は小さく頷く。
「監視員は適応者を指導する目的の下作られた機関だ。何故指導員にしなかったのか、理由は一つ。何もせず、ただ見ていればいいからだ」
その数は一つの収容所で五十から六十ほど。収監されている適応者は一万から一万五千。あまりにも少ないと感じるだろう。
「彼らが逃げ出さないようにと組織された監視員だが、この国から逃げ出そうと考える奴はそうはいない。外に出た所で待っているのは苦痛の日々だからな」
人権と引き換えに与えられる恩恵は、彼らに十分な対価だと思わせる。だから彼らは出たがらない。外で待っているのは犯罪者としての烙印を押された自分を冷ややかな目で見つめる社会だけだ。
では監視員の存在意義とは何なのだろう。
かつて京介は所長にそれを尋ねた。所長はそれに答えなかった。たった一言まだ早いと言っただけだ。
ならば何故監視員は彼らから恐れられているのか。京介が収容所に来たときからそうだった。スーツについたネームプレートを見た瞬間に、彼らは遠ざかった。何もしていないのに、何故恐れられているのか。京介には分からなかった。
「二人連れてこい」
京介は息を呑んだ。
「この国から本当に出たいと望む適応者を二人連れてこい。そうすれば考えてやろう」
二人。一万を超える適応者の中から二人連れてくる。一見簡単のように聞こえるが、所長がそんな簡単な要求で退職を容認するはずがなかった。本当に社会復帰を望む適応者。存在するのかも分からない。
所長は狡猾そうな笑みを浮かべていた。お前に出来るはずがないと言っているようだった。
「……了解。次来るときは三人で来る事になりそうだ」
京介は踵を返して歩き出した。可能性は0ではない。時間はかかるかもしれないが、一万もいれば二人くらいなら見つかるだろう。前向きに考える。
「―――そうだ、水上。ちょっと待て」
京介が振り返った刹那。
乾いた破裂音と共に一筋の風が京介の横を掠めた。
「宿舎以外でネームプレートを外す事は許されていないはずだが、どういうつもりだ?」
所長は手に持った拳銃の銃口を下ろした。横目で後ろの壁を見ると小さな穴が空いていた。人を殺すには十分な穴だ。この収容所で所長は唯一拳銃の携帯を許されている。
「それをつけていないかぎり、お前は監視員ではない。監視員以外がこの建物に入ると、どうなるかは分かるよな?」
つけていないかぎり監視員ではない。監視員を辞めたかっている京介にはちょうどいい言葉だ。だが京介の目的はあくまでこの町から抜け出す事にある。適応者として暮らすのは勘弁願いたい。
「部屋の外に置いてあるよ。あんたに会うからわざわざ脱いだ」
京介はそう言って部屋から立ち去った。後ろで気味の悪い笑い声が聞こえてきたが、振り返らなかった。
外に出ると乱雑に投げ捨ててあったはずのスーツは綺麗に折り畳まれていた。まるでスーツが神聖な物だと言わんばかりに。
京介はそれを掴むと、袖に腕を通す、高級な素材で出来ているのか着心地はすこぶるよかった。