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ダンジョン化現象とドヤ顔王子とback rooms 【改稿版】

作者: 猫モフ師団
掲載日:2026/09/12

私はクレア。16歳、女性。

孤児だから家名はない。

今世の実母が私を「橋の下から拾った」と言って神殿に置き去りにしたのは、神官長から聞いている。

……というか、前世の実母も「お前は橋の下から拾ってきたんだ」と長年私に言い続けていた。

だから私は前世で、「私とこの人は養子縁組していない(から扶養義務はない)」とケアマネと弟に告げて、海外にトンズラする計画を立てていたのだ。

いや、さすがに弟に送金くらいはするつもりだったけれど。

で、今私がこうして異世界にいるということは、結果的に最高の形でブッチできたということだ。

おめでとう、私。ごめんね、弟。

それにしても、前世も今世も「橋の下」スタートとは、一体なんの因果だろう。

――おっと、話が盛大に脱線した。

消しゴムがないからこのまま本題に戻る。

私の職業は、ソラリス教の上位神官。

上位神官といっても中身はただの研究者で、主なテーマは「瘴気」と「結界」だ。

使える魔法は「ともしび」と「鑑定」。

「ともしび」は数値で言うと5カンデラ(手元を照らす種火)程度。

光属性持ちが現れたと神殿や王家に期待されたけれど、面倒なことに巻き込まれないよう、回復魔法はあえて消失させた。

一方の「鑑定」は、おそらく転生者特典だろう。

魔力量は1600mp。

国民平均が1000mpだから「やや多い」程度で、無双できるほどじゃない。

ちなみに、この世界の「鑑定」や「インベントリ」といった一部の特殊なスキルは、頭の中にゲームのメニュー画面のような半透明のポップアップウィンドウが表示されて操作する仕様になっている。

このあたり、神の悪ふざけか、あるいはこの世界のシステム自体が前世のゲームの法則を模しているかのようで、実に興味深い研究対象だ。

その代わり、私には前世から引き継いだ特技がある。

機械工作、機械修理、製図、そして金属加工。

この地味な魔法とゴリゴリの理系スキルで、私はこの異世界を生き抜くつもりだ。



私にとっての不幸の始まりは、国を治める王家の、実につまらない嫌がらせからだった。

カスマン王家にとって、ソラリス教は目の上のたんこぶだったらしい。

信徒の数、勢力、そして何より信徒たちが一様に清廉潔白であることなど、諸々が気に入らなかったのだ。

王家はソラリス教の力を削ぐために、ありとあらゆる嫌がらせを仕掛けてきた。

たとえば、たびたび行われた神殿への増税。

だが不思議なことに、ソラリス教は常にノーダメージだった。

増税が言い渡されるたび、なぜかうちの神殿の後輩君が、ずっしり重い金貨袋を抱えて石垣から何度も何度もピョンピョン飛び降りていたのだ。

……一体何の儀式だったのだろう。

雰囲気的に闇が深そうだったので、私は見なかったことにした。

そんな風に、王家の策の大半は自分たちの浅薄さを露呈させるだけの結果に終わっていた。

――ただ、その中の一つの策だけが、私の人生に重篤な悪影響を及ぼすことになる。


ある日、カスマン王はソラリス教王都神殿の神官長・ソルロック(37歳)に対し、こう問うた。

「女性神官で一番優秀な者は誰だ? 王太子オーレリアン(27歳)の婚約者に迎えたい。

これを機に、我が王家とソラリス教の融和を図り、長年の確執に終止符を打ちたいのだ」


王家の真の狙いは見え透いていた。

神殿から「優秀な回復魔法の使い手」を引き剥がし、戦力を削ぎたかったのだ。

ところが、どういうわけか、そこで私の名前が上がってしまった。

――いや待ってほしい。

私、回復魔法なんて持ってないよ?





ここで、私の専門である「瘴気」について、これまでの研究成果を一度整理しておこう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


【瘴気の発生原理】

一言で言えば、瘴気とは「魔素の産業廃棄物」だ。

本来、魔素は属性変化させながら消費されるものだが、これを長年、過剰に繰り返すと魔素自体が変質し、やがて「崩壊」を始める。

この崩壊し始めた魔素が放つ有害な残滓こそが、瘴気の正体である。

さらに、魔素の崩壊を劇的に早める「コツ」がある。

それは相反する属性への変化を強制し続けることだ。



事例1(火→水)

: 活火山(火属性の高濃度魔素)の近くで、魔導具を使って人工の川(水属性)を強引に作り続けた国があった。

結果、魔素の崩壊が加速。

発生した広大な瘴気によって狂暴化した魔物のスタンピード(大氾濫)が起き、その国は消滅した。


事例2(聖→闇)

: 聖魔法を込めた結界石(聖属性)に囲まれた密室で、高位神官が長年、闇魔法を使って信徒を洗脳し続けた事例。

閉じ込められた空間で魔素が崩壊し、溜まった瘴気からグールが大量発生。

やはりその国も滅びている。



【瘴気の遮蔽(防ぐ方法)】

瘴気はとにかく厄介で、物理的な干渉をほとんど透過する。

レンガの壁は意味をなさないし、密閉したガラス容器に入れた食材すら瘴気汚染(瘴気やられ)を起こす。

密閉空間すら素通りするのだ。

物理金属である「鉄」でほんの僅かに遮ることはできたが、気休め程度。

過去の文献によれば、「魔鉄」や「ミスリル」といった魔法金属なら完全に近い形で遮蔽できたらしい。

また、魔法としては「第7位階結界魔法」で遮断可能とされているが、現代のソラリス教にそんな高等魔法を使える神官は一人もいない。



【瘴気とダンジョン化】

瘴気が一定の濃度を超えて満ちると、高い確率でその土地に「ダンジョン」が発生する。

いわゆるダンジョン化現象だが、これには数十年単位の長期的な観測が必要なため、個人の研究論文としては未だ体系化されていない。

……私の代で、なんとか証明したいテーマの一つだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





王太子の婚約者なんて、研究の邪魔以外の何物でもない。

当然、私はソルロック神官長に「謹んで辞退させていただきます」と伝えた。

しかし、神官長は困ったような顔でこう宣った(のたまった)のだ。

「ごめんね。こういう不条理を打破できるのは君くらいなんだよ。

君一人に多大な負担を掛けてしまうけれど、ソラリス様は神界から君の奮闘をしかとご覧になっているよ。

絶対にね。

これも神官の修行だと思って頑張って欲しい」


――偉い人はいいなぁ、本当に。

どんなに無責任な発言をしても、最終的に部下が尻拭いをしてくれるのだから

額に青筋が浮かぶのを自覚しつつ、私はこの理不尽な押し付けに対する「正当な報酬」を受け取ることにした。

狙うは神殿の宝物倉。

そこには、時折この世界に流れ着くという「異界の漂流物」がいくつか厳重に収納されている。

私は宝物庫(ほうもつこ)に忍び込むと、転生者特典の「鑑定」をフル稼働させた。

紐、カード、ペットボトル……。

現地の人間には使い道のわからない、しかし私にとっては見覚えのある様々な形状の「漂流物」たち。


その中から、今後の役に立ちそうなものを鑑定結果を元に適当にピックアップし、手際よく鞄へと詰め込んでいく。これだけ押し付けられたのだ。

このくらいの「見舞金」は許されるはずである。

最後に、一番奥の棚で見つけた、日本の神社でお馴染みのしめ縄にそっくりな「藁(わら)で編まれた一本の縄」を鑑定してみた。

鑑定結果は【あ#$けの※モ:使用すると最後に立ち寄ったx&$へ¥x%sx】

……いや、どんな異界からの漂流物だ。

ウィンドウに表示されたテキストが全部文字化けしててどうやって起動すればいいか分からない。

まあ、お守り代わりにでもなるかと、私はそれもカバンの隅へと放り込んだ。



大夜会7日前の朝。

王家から私のもとに、一冊の「紙綴り」が届けられた。

開いてみれば、それは7日後の王家主催の大夜会で繰り広げられるという、演目の脚本(台本)だった。

持ってきた使者は、この世の終わりかと思うほど申し訳なさそうな顔で、

「……セリフは当日までに暗記しておくように」とだけ告げて逃げるように去っていった。

逃げ帰るのも無理はない。


その中身を少し抜粋してみる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

オーレリアン(以下オ):

「お前はここにいるアイナの実家の領地の結界装置の点検を後回しにしたな!」

クレア(以下ク):

「そ……それは……」

アイナ:

「クレア様のせいで、私の領地のみんなは全員魔物に食べられちゃったのよ!みんな良い人たちだったのに。優しい八百屋のおかみさんも、笑顔のかわいいお孫さんも、結婚が決まっていた宿屋の看板娘も……もうあの笑顔を見ることはできないのよ!」

オ:

「お前のような悪人は、俺の婚約者にふさわしくない」

ク:

「私ほど王妃が似合う女は他にはいないわ!!」

オ:

「お前のような女は婚約破棄だ!」

ク:

「いやああああぁああ嫌よぉおぉぉ!!」(※絶叫)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


読み終えた瞬間、私の両腕の毛がピンと立ち上がった。

恐怖ではなく、あまりの寒さと恥ずかしさに全身に凄まじい鳥肌が立ったのだ。

誰が言うか、こんなクソみたいなセリフ。

「ちょっと、ここ手直しして欲しいんだけど!」

叫んだときにはもう、使者の姿はなかった。


確かに、アイナちゃんの実家であるゴルカ男爵家の結界装置の点検は後回しにした。

そしてそれによって、ゴルカ領が甚大な被害を出したのも事実だ。

だが、原因を作ったのは私ではない。

そこの無能な王太子(27歳)である。

事の発端は、数ヶ月前のオーレリアンのドヤ顔発言だった。

『ゴルカ家には、俺から帝国製の最新式結界装置をプレゼントした。

だからお前らソラリス教の連中は、今後ゴルカ領に一切立ち入り禁止な?』

私は親切心から、ちゃんと言い返してやったのだ。

『地脈の関係上、我が国の魔獣は、我が国で作られた結界コアを使用した機器でなければ結界の役目を果たさないのですが?』『はっ、お前らそうやって嘘を吐いて、俺が贈った最新装置をこっそり破壊しようとしてるんだろ?

お前らの浅薄な策略なんて馬鹿でもわかるんだよ』

ああ、そう。

馬鹿でもわかるなら、本物の馬鹿であるあなたには理解できないよね。

私はため息をつき、ソラリス教が作製した乾電池大の「代替結界コア」をオーレリアンに叩きつけた。

『いいですか? これに換装しないと、ゴルカ家の領民は98%が魔物に喰い殺されます。

よろしいですね?

私クレアは、今、確実に王太子オーレリアン様に危険性を伝えましたからね?

換えの部品も渡しましたよ。


『そこの書記官の皆様! 今のやり取り、一言一句漏らさず記録してください! 記録したら書記局の公印を押して、記録局、監査局、神殿、そして陛下に提出してください。あ、神殿には控えとして2部ください。絶対ですからね! とにかく私は伝えましたからねーーーっ!!』




大夜会7日前昼。

私はあの不愉快な脚本を思い返し、どうしても譲れないセリフ(主に最後の絶叫)を変更させるべく、王城へと向かった。

実は、王城と神殿は同じ敷地内にある。

もともとはソラリス教の信徒が建国した国を、現在の王家が乗っ取ったのがこの国の始まりだ。

国土の真ん中、綺麗に整地された台地に神殿がそびえ立っているのだが、後から王家が無理やりその敷地内へと城を建ててきたのである。

そのため、神殿と王城は目と鼻の先。

私は神殿の敷地を、文句を言ってやるぞと言わんばかりの力強い足取りで歩いた。

だが、王城と神殿を区切る石垣まで辿り着いたとき、目に入った城の様子に足が止まった。


――城の雰囲気が、明らかにおかしい。

豪奢な建物の全体から、不気味な黒い靄(もや)が立ち上っているのだ。

私はセリフの手直しどころではないと判断し、一度研究室へと猛ダッシュで引き返した。

自作の「瘴気計」を掴み、再び城へと向かう。

城に近づくにつれ、手元の瘴気計が「ピーピー」とけたたましく鳴り響いた。

液晶の数値は、すでに人体に深刻な悪影響が出るレベルに達している。

私は瘴気計を構えたまま、引きつった顔で一歩ずつ、慎重に後退した。

神殿の本堂は、壁の芯材に「魔鉄」が使われている。

本堂の中に駆け込むと、ようやく瘴気計は鳴り止み、静寂を取り戻した。

しかし、試しに一歩外へ足を出すと、再び「ピーピー」と騒ぎ出す。

これは尋常ではない。

あの馬鹿(王太子)が何かやらかしたんだろうか?

私は即座に、計測した瘴気濃度を書き留めたメモを手に、ソルロック神官長の執務室へと突撃した。

データを一瞥した神官長は、片側の口角を吊り上げ、実に治安の悪い笑みを浮かべた。


「――よし。今から結界石に魔力を詰めさせる。

充填が終わり次第、速やかに王城を『結界』で囲み、隔離しよう。

人目に付かない深夜の作業がいいね。

クレア、君は明るいうちに、王城を均等に囲む5箇所のポイントへ目立たないように目印をつけてきてくれ」

「分かりました。……作戦に、うちの(ピョンピョン跳ぶ)後輩を連れて行ってもいいですか?」

「構わないよ。存分に使いなさい」


大夜会7日前の、深夜未明。

私たちは昼間に印をつけた5箇所のポイントへ向かい、ソルロック神官長の光属性魔力がギチギチに詰まった結界石を埋め込んでいった。

そして土を被せた上には、結界石の排熱口を隠すためのホワイトセージの苗を植える。

一緒に来た後輩君は、ちまちまとその根元に水を吸わせる作業に精を出していた。

彼の名前はシミュラクラ。13歳。

職業は上級神官補佐。

使える魔法は「インベントリ」と「回復」。

孤児院時代からの付き合いで、3歳年下のこいつは昔から私の後ろをカモの雛みたいにトコトコとついて回る奴だった。

「シミュラクラ」なんて奇妙な名前をつけたのは、私だ。

理由は、そこの真ん丸な顔に目、鼻、口が「3つの点」のように並んでいたからである。

この世界には、親(名付け親)が子に名前を贈る際、自分が持つスキルを一つ譲渡できるというシステムがある。

私は6歳の時、当時3歳だった彼に自分の「回復魔法」をすべて譲り渡した。

将来、国や神殿から『聖女』などと祭り上げられてブラック環境に監禁されるのが、死ぬほど嫌だったからだ。

つまり私は、自分の保身のために面倒な回復魔法をこの少年に押し付けたのである。

その負い目もあって、孤児院時代は何かと親切に(甘やかすように)接していたのだが、

その結果こいつの「懐き度(なつきど)」が限界突破で爆上がりしてしまった。

今や、ほぼ毎日24時間一緒にいる気がする。

5箇所すべての結界石を丁寧に埋め終え、無事に結界を起動させる。

念のため「瘴気計」で計測してみたが、王城からの漏れ出しは完全にシャットアウトされていた。

完璧な仕事だ。

私たちは神殿の寄宿舎に戻り、それぞれのベッドに潜り込んだ。

その日の夜中、王都を断続的に何度も大きな地震が襲った。

だが、前世が地震大国・日本生まれの私にとって、これくらいの揺れは日常茶飯事、ただの心地よい揺り籠だ。

一度も目を覚ますことなく爆睡した。

翌朝、シミュ君に聞いたら彼も「熟睡してました」と3つの点で笑っていた。


ちなみに、この世界の人間である神官長ソルロック氏は、生まれて初めて経験するレベルの大地震に本気でビビり散らかし、一晩中部屋の片隅でオロオロと震えていたらしい。

威厳が形無しである。


大夜会5日前の朝

先日と同じ使者が、王室儀典部からの書類を携えてやってきた。

渡された資料には、大夜会における服装規定、持ち物、受付時間、さらには入場手順までが、これでもかと事細かに書き連ねられている。

要約すると、

「5日後の朝一番の鐘が鳴ると同時に、入場控え室に待機していろ。例の『演目』に万が一にでも遅れたら、重い罰則を科す」

ということらしい。


――遅れませんとも、絶対に。

念願の婚約破棄をしてくださるという一大イベントなのだ、参加しない理由がどこにある。

オーレリアンのあの無様なドヤ顔と、極上の婚約破棄のセリフを聞き逃すなんて、人生最大の損失だ。

5日後の朝一ですね、承知しました。

絶対に、絶対に遅れませんから安心してください。

ちなみに、当日の衣装は神殿側が用意してくれることになっていた。

もし「きらびやかな聖女のドレス」なんて代物だったら、その場で引きちぎって破棄してやるところだ。

何度も言うが、私は回復魔法を消失させている(シミュ君に押し付けた)ので、聖女を名乗る資格など1ミリもない。

結局、私は「上級神官の儀礼服」を着用することに決めた。

動きやすくてデザインも格好いいし、何より深い紺色なので、何らかの理由で血や泥がついても汚れが目立たないのが素晴らしい。

すでに汚れを落として綺麗にたたんだ一着を、シミュ君のインベントリ(無限収納)へしっかりと格納してもらってある。

さらに、イベント後にそのまま「地下牢へ収監される」という最悪のコンカールートを想定し、事前準備も徹底した。

大量の水、携帯食料、回復ポーション、寒さをしのぐ寝袋、そして不衛生な地下牢には必須の虫除けスプレー(自作品)。

――よし。荷詰めは完璧だ。

いつでも投獄してくれ、王太子殿下。



大夜会1日前の、朝9時。

現在、私は魔鉄製の全身鎧に身を包んでいるのだが――正直、めちゃくちゃに重い。

歩くたびに関節部分から「キシッ、キシッ」と変な音が響く。

断っておくが、これは金属の擦れる音ではない。

私の膝関節が重量に耐えかねて悲鳴を上げている音だ。

瘴気対策として意図的に用意した魔鉄鎧だったが、あまりの重さに絶望した。

この移動速度では明日までに辿り着けないと判断し、大夜会の24時間前である「1日前・朝9時」に登城することにしたのだ。

24時間後に控え室に入れればいい。

着替えは神官儀礼服なので20秒、化粧は5秒、髪を整えるのも5秒。

オーケー、時間はある。

控え室で夜まで待機する間、シミュ君のインベントリに仕込んだドライフルーツ、ナッツを贅沢に練り込んだ贅沢な手作りクッキーをつまむ時間もあるはずだ。

……うん、良い仕上がりだった。


――おっと。

膝の痛みのあまり、思考が現実逃避して盛大に脱線した。

話を戻そう。

研究室を出てから3時間。

重い魔鉄鎧の歩行訓練も兼ねてようやく辿り着いた王城の前には、なぜか奇妙な人だかりができていた。

皆、入り口から中に入れずに立ち往生している。

様子を見に行かせたシミュ君が、困惑した顔で戻ってきた。

「クレア上官。どうやら6日前の朝あたりから、王城の入り口が消失し、滑らかな一つの壁になってしまっているそうです。

文官や使用人が外に出ることはできたようですが、二度と中には戻れないのだとか」

閉め出された、というよりは城そのものが変異している。


私はしばらく人だかりの後ろでぼんやりしていたが、「這ってでも登城して婚約破棄を見届ける」という絶対の目標を思い出し、城の壁に近づいて継ぎ目を探した。

触れてみて驚いた。

本来なら石造りのはずの壁が、まるで陶器――それも前世で触った「半磁器」のような、

ツルリともザラリともつかない奇妙な質感に変わっている。

その手触りに思考を巡らせた瞬間、急に重力の方向がぐにゃりとズレた。

気づいた時には、壁の中に身体が半分飲み込まれており、そのまま奈落の底へと真っ逆さまに落下した。


「――痛たた……」


あたりを見回すと、壁に設置された燭台のろうそくが、小さな炎を頼りなく揺らしている。

足元は湿っぽい絨毯。

一歩踏み出すごとに「ビチャビチャ」と不快な水音が響いた。

嫌な予感がして「瘴気計」のスイッチを入れた瞬間、空間にけたたましい警告音が鳴り響き、慌ててオフにする。

数値を見るまでもない、ここは致死量の瘴気溜まりだ。

そこでようやく、自分の腰回りに人間の腕ががっしりと巻き付いていることに気づいた。

なんのことはない、シミュ後輩である。

カルガモの雛ばりに私を追尾する彼の習性に、この時ばかりは心の底から感謝した。

何せ、私たちの全財産とサバイバル物資は彼のインベントリの中にあるのだから。

シミュ君が、私の腰に抱きついたまま小さく手を挙げた。


「クレア上官、発言の許可を」

「シミュ補佐官、発言を許す。……とりあえず腰から手を離しなさい」

「クレア上官、提案がございます。実は最近知ったのですが、『瘴気やられ』には回復魔法が特効薬だそうです。先日、自分の身体で試したので間違いありません」

「ふむ」

「そこで、その重い魔鉄鎧をインベントリに収納して進むのはいかがでしょうか。何が飛び出してくるか分からない視界の悪い空間です。これからの戦いは、逃げ足がすべてだと思うのです」

「……その提案を採用する」


鎧をパージして神官儀礼服になった瞬間、私の進行速度は爆上がりした。

私は、一瞬だけオンにした瘴気計の「警告音がより激しかった方角」へと足を進める。

瘴気の発生源(王太子が何かやらかしたんだろか?)こそが目的地だ。

これは技術者としての勘である。

学術的な根拠はない。


薄暗がりの長い廊下には、等間隔にろうそくが灯っていた。

途中、何度も道を折れ曲がり、階段を上っては梯子を降りる。

構造が狂っている。

王城の敷地はこんなに広くないはずだ。

完全に空間が歪んで無限回廊と化している。


静まり返った長い長い廊下を、二人きりで歩く。

シミュ君は、一定時間ごとに私へ「回復魔法」を重ねがけして、瘴気の毒性を完全に相殺してくれた。

たまに、奇跡的に床の絨毯が乾いている部屋を見つけることがある。


そういう安全圏を発見したら、即座にビバーク(露営)決定だ。

部屋の出入り口に手あたり次第に大型家具を積み上げて強固なバリケードを築く。

さらに靴と靴下を脱いで干し、部屋の隅にあるクローゼットや大型家具の中に二人で潜り込んで、息を潜めて眠るのだ。

大夜会まで、残り時間は刻一刻と削られていく。

私たちは、この狂った無限迷宮の最深部へと、一歩ずつ確実に進んでいた。




大夜会から7日後の、夜。

私たちは狂った回廊の中で、かれこれ7回目の睡眠をとっていた。

ここには昼も夜もないが、シミュ君が空中に指を滑らせてステータス(?)を確認し、「夜9時です。睡眠時間となりました」と告げてくる。

一体何の魔術か知らないが、もし彼の時間が正確だとしたら――すでに大夜会から7日が経過していることになる。

……大夜会、大遅刻じゃん。

「婚約破棄」の言質を取るために、あれほど絶対に遅れないと誓ったのに!

何としてでも、あの馬鹿のドヤ顔を拝みに行かねばならない。

いや、それ以前に大問題が発生していた。 

おそるおそる後ろを振り返る。

ついさっきまで私たちが歩いてきたはずの、等間隔にろうそくが灯る長い廊下――そのすぐ後ろの空間が、まるで行を詰められたテキストデータのように、 ぐにゃり と歪んで完全に消失していた。

そこにあるのは、ツルリとした陶器のような、継ぎ目のない一枚の白い壁だけだ。

つまり、来た道を引き返すという選択肢は、物理的に消滅した。 

この狂った空間において、生き残るために進める方向はただ一つ。

瘴気の発生源(あの馬鹿が何かやらかした場所)がある、この無限迷宮の最深部を突き抜けることだけだ。 

私はもたもたしていられないと、自作の瘴気計をバラしてアラームを外し、針の振れ幅だけで濃度が分かるように急ぎ改造を施した。

生き残るために、そして何より、私をこんな目に遭わせたあの馬鹿のドヤ顔にこの魔改造瘴気計を叩きつけてやるために、前へ進むしかない。


その横で、シミュ君がポリポリとクッキーを食べる音がした。

贅沢にドライフルーツとナッツを練り込んで焼いた、私の自信作だ。

人が食べているとつられる。

私も一枚口に放り込む。

美味しくないはずがない。

クッキーを食べたら、当然コーヒーも飲みたくなる。

いや、寝る前だぞ?……と思いつつ、シミュ君は平気な顔で淹れたてを嗜んでいる。

漂う芳醇な香りは、理性を狂わせるほど魅力的だった。

私も誘惑に負けて寝る前のコーヒーを一杯、胃に流し込んだ。

それが、すべての引き金だった。



「――っ!?」

シミュ君が急に動きを止めた。

「どうしたの?」

「足音です……」

「え、やだ怖い。何それ」

「静かに!」

廊下の奥から、何かを重く引きずるような不気味な足音が近づいてくる。

ブツブツと、聞き覚えのある声の呟きまで聞こえてきた。

『……おかしいわ。コーヒーの香りがする。この国、コーヒーなんて取り扱ってたかしら? ねぇ、誰かいるの?』

入り口に積み上げたバリケードの隙間から、何かがこちらを覗き込んできた。

コード類や針金が異様に絡みついた、茶色く長い腕が家具を掴んでガタガタと動かしている。

(怖い、怖い、怖い……!)

その茶色い異形が、抉じ開けた隙間からずるりと首を差し込んできた。

『あたしにもコーヒーくださる? あんたたちだけ、こんな良い匂いさせてズルいわ』

「……え? 嘘、アイナ、さん?」

私の声を聞いた瞬間、その異形がビクッと硬直した。

『まさか、あんたクレア!? なんでこんなところに引きこもってるのよ! 断罪劇にあんたが来ないって、オーレリアンがめちゃくちゃに怒ってたわよ! アタシだって困ったわ、イベントの進行がグダグダじゃないの! 最低だわ、あんたって女は!』

異形アイナは激怒していた。

「え……終わっちゃったの? 頑張ってここまで歩いてきたのに……」

『遅刻しといて謝りもしないのね! 最低よ最低!! 許さないわ、アタシが一番輝く舞台だったのに!! セリフだって、いっぱい練習したのよ!? 許さない、許さないわあああああ!!』

狂乱した異形が手当たり次第に家具を掴み、壁に叩きつけて粉々に粉砕し始めた。

破片が私の腕をかすめ、血が滲む。

防衛線だった家具がみるみる減っていく。

その背後から、さらに一回り大きな異形がのっそりと現れた。

天井に届きそうなほど異常に伸長した四肢。

皮膚のあちこちから、城の防衛設備だったであろう鉄柵や装飾用の槍が、肉を突き破って不揃いに生えている。『貴様はクレア! なぜ大夜会に来なかった!? 必ず来るように伝えたはずだが!?』

その歪んだ声は、間違いなく王太子オーレリアンだった。

……二人とも、あんな凄惨な姿になってしまって、可哀想に。

捕まれば、私たちもあんな風に「改造」されてしまう。

オーレリアン声の異形も長い手足を振り回し、私たちが立て籠もる最後の砦をめちゃくちゃに壊し始めた。

この世の地獄だ。

もう終わりだ、喰い殺されて咀嚼されるんだ。

「ぎゃああああ! 怖い怖い怖い!! シミュ君、助けてっ……!!」

半狂乱で叫ぶと、シミュ君はなぜか「藁(わら)で編まれた一本の縄」を掲げたまま、おろおろと狼狽えていた。

彼は再び空中に指を滑らせ、青ざめている。

「クレア上官、ポップアップウィンドウが出ません! どうしよう、どうしたらいい……っ!?」

「シミュ君どうしたいのそれ!」

「これを使いたいんです、でも使い方がわからない……!」

その時、私は自分の目が「ゲームのバグ」を探すシステムエンジニアのように鋭くなっていることに気づいた。

こいつは地震でも起きない超弩級の天然だが、そういうことか。

この世界は、前世のゲームの法則で動いている部分がある。

ポップアップが出ないなら、物理(音声)入力だ!

眼前に異形の鋭い爪が迫る。



私は両手両脚でシミュ君の身体をキつく抱きしめ、その藁縄をひったくるように掲げて絶叫した。

「使用!! 使います!! 使う!!」

――『使う』と宣言した瞬間。

私たちの身体が、強烈なGを伴ってクルクルと高速回転を始めた。

「えっ、消えるんじゃないの!?」

私の腕の中で、シミュ君が消え入りそうな声で微笑む。

「……これで、合ってます」

浮遊感が消えたとき、私たちは、王城の正門前の広場に転がっていた。

「た……助かった、ね……」

「はい……」


私たちは冷たい地面にへたり込んだまま、2時間ほど放心していた。

夕方、日が暮れ始めたので、よろよろと起き上がって神殿の寄宿舎に戻ろうとした。

――だが、戻るべき場所は、すでに存在しなかった。

王城の核(コア)から溢れ出た瘴気は、城の容積そのものを異常膨張させ、隣接していた神殿ごと、すべてを飲み込んでいたのだ。

寄宿舎を失った私たちは、街の宿屋を目指したが、どこも満員だった。

城に近いエリアから逃げ出してきた避難民で溢れ返り、部屋など空いているはずもない。

「……行こうか」

「はい、クレア上官」



私たちはその足で隣国へ向かう乗り合い馬車に乗り込み、住み慣れた王都を後にした。

ガタゴトと揺れる馬車の中、私たちは二人で、ただぼんやりと外の景色を眺めていた。

無言のまま、沈む夕日を眺め、翌朝に昇る朝日を眺め、流れる雲を眺め、また沈む夕日を眺めた。

ふと、移動中ずっと、隣のシミュ君にぎゅっと手を握られていることに気がついた。

けれど、振り解く気には到底なれなかったので、私はそのまま、彼の体温を感じておくことにした。




――それから、隣国へ渡って10数年。

私の隣には、相変わらずあの「3つの点」の顔をしたシミュ君がいる。

あの夜、王城の中心で一体何が起きていたのか。

王家や神殿がどうなったのか。結局のところ私たちは何も知らず、分からずじまいだったけれど。

今となっては、本当に、どうでもいい些事である。


Fin

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