泡にならなかった人魚姫より、あなたへ
泡って、弾ける瞬間、痛いのかしら?
ずっと考えてるの、このこと。答えは出ないのにね。だって弾けちゃったら、もう誰にも聞けないでしょう。
ごめんなさい、変なことから話し始めちゃったわね。もうちょっと先まで聞いてくれたら、なんであたしがこんなこと言い出したかわかるから。
最初から話すわね。
あたし、海の底で生まれたの。
お父さんは海の王様で、お姉さんが五人もいて、あたしは六番目の末っ子。末っ子って気楽でいいわよねって言われるけど、そんなことないのよ。だって誰もあたしのこと、ちゃんと見てくれないんだもの。
お姉さんたちはみんな美しくて、珊瑚の髪飾りをつけて、海藻のドレスをひらひらさせて、毎日お城の舞踏会で踊っていたわ。
あたし? あたしはいつも一人よ。お城の一番端っこの庭園で、沈没船から拾ってきたガラクタを並べて遊んでたの。
銀のフォーク。割れた鏡。錆びた懐中時計。
人間の世界のものって、どうしてこんなにあたしの胸をきゅうっとさせるのかしら。
十五の誕生日に、あたしは初めて海の上に出たの。それはもう、息が止まるほど美しかったわ。
空っていうものを初めて見たの。どこまでも広くて、青くて、でも海の青とは全然違う青。海の青は抱きしめてくれるけど、空の青は手を伸ばしても届かないの。
そういうものに、あたし、弱いのよ。届かないものに、どうしようもなく惹かれちゃうの。
そのうち、黒い雲が集まって嵐になったわ。
大きな船が波に揺られて、ぎしぎしって音を立ててばきっと折れたの。人間たちが海に投げ出されていくのが見えたわ。とっても怖かった。
その時、一人の男の人が沈んでいくのが見えたの。月の光が海の中まで差し込んできて、その人の顔を照らしてた。
きれいな顔だったわ。
苦しそうで、でも、どこか穏やかで。
死んでいく人の顔って、怒ってるみたいだと思ってたけど、その人は違ったの。まるで海に帰ってきたみたいな、そんな顔。
あたし、気がついたら泳いでたわ。その人を抱えて、一晩中泳いで、朝になったから浜辺に寝かせたの。
波打ち際に横たわるその人の髪を、指でそっと梳いたわ。人間の髪って、あたしたちのとは全然違うのね。海藻みたいに滑らかじゃなくて、もっとざらざらしてて。でも温かいの。生きてる温度がするの。
遠くから教会の鐘の音が聞こえてきて、あたしは岩陰に隠れたわ。
若い女の人が走ってきて、その人を見つけて、大きな声で叫んだの。彼が目を開けて、最初に見たのはその女の人の顔だったわ。あたしじゃなくて。
胸がね、ずきんってしたの。
海の中では感じたことのない痛みだったわ。
それからあたし、おかしくなっちゃったみたい。
毎晩、岩の上に座って、あの人のお城を眺めてたの。窓に灯りがともるのを見て、影が動くのを見て、時々聞こえてくる音楽に耳を澄ませて。バカよね。あたし、自分でもそう思ったわ。
でもね、やめられなかったの。
お姉さんたちが「あんた最近おかしいわよ」って言ってきたけど、あたしは笑って誤魔化したわ。おばあさまが「人間に関わるとろくなことがない」って言ったけど、あたしの耳には入らなかった。
恋って、耳が聞こえなくなる病気なのよ。
それであたし、海の魔女のところに行ったの。
魔女の住処はね、海の一番暗いところにあるのよ。光なんて一筋も届かない、ぐにゃぐにゃした気味の悪い珊瑚と、ぶよぶよした磯巾着が絡まり合った洞窟。あたし、何度も引き返そうと思ったわ。でも足が、いえ尾ひれが、勝手に進むの。
魔女はあたしを見て、にたあって笑ったわ。
「あら、王様の末のお嬢さん。何の用かしら。当ててあげましょうか。人間の男でしょう」
図星を言われて、あたし、黙っちゃったの。
「尾ひれを人間の足に変えてあげることはできるわよ。でもね、歩くたびにナイフで刺されるような痛みが走る。それから、代償としてあなたの声をもらうわ。そしてね」
魔女はあたしの顔を覗き込んだの。あの暗い目で。
「もしその王子があなた以外の女と結婚したら、あなたは次の朝日が昇ると同時に、海の泡になって消えるのよ」
あたし震えたわ。
それでも、頷いたの。
今思えば、バカよね、本当に。声を失うってことがどういうことか、あたし、全然わかってなかった。
声って、ただ音を出すだけのものじゃないのよ。「あたしはここにいるのよ」って叫ぶための、たった一つの手段だったのに。
魔女があたしの喉に手を当てた瞬間、何かがすうっと抜けていく感覚がしたわ。冷たくて、寂しくて、でもどこか懐かしいような。
あたしの声は小さな光の玉になって、魔女の瓶の中に収まったの。代わりに尾ひれが裂けて、二本の足になったわ。
その痛みったら。
あたし、声が出せたら確実に叫んでた。
人間の世界って、不便なのね。足っていうのは尾ひれより全然使いにくいし、息を吸うのにいちいち口を開けなきゃいけないし、服っていうのを着なきゃいけないし。
でもね、王子はあたしを拾ってくれたの。浜辺で倒れてたあたしを見つけて、お城に連れて帰ってくれたわ。
「君は誰? どこから来たの?」
あたし、答えられないの。口をぱくぱくさせるだけで。
王子はあたしのことを「不思議な子」って呼んだわ。あたし専用の部屋をくれて、綺麗なドレスを着せてくれて、毎日一緒に庭を散歩してくれたの。
嬉しかったわ。
歩くたびに、足の裏に釘を打ち込まれるような痛みが走ったけど、王子の隣にいられるなら我慢できた。
あたし笑ってたわ。痛くて泣きたいのに、笑ってた。だって声が出せないから、笑顔しかないじゃない。
けれど、気づいちゃったの。
王子があたしを見る目と、あの教会の近くで王子を助けた女の人の話をする時の目が、全然違うのよ。
あたしを見る目は優しいけど、なんていうのかしら、迷子の子犬を見るような目なの。可哀想ね、守ってあげなきゃね、っていう目。
でもあの女の人の話をする時はね、目がきらきらするの。声が柔らかくなるの。体ごとそっちを向くような、そんな感じ。
あたしが助けたのに。
嵐の夜、あの人を抱えて泳いだのはあたしなのに。
でも言えないの。声がないから。
何度思ったかわからないわ。もし声があったら、あの時ちゃんと言えてたら。「あなたを助けたのはあたしよ」って。
だけど、途中から気づき始めたの。
声があっても、たぶんダメだったんじゃないかって。
だって王子が好きなのは、あたしじゃなくて「あの朝、目を開けた時に最初に見た顔」なのよ。どんなに素敵な声で歌っても、どんなに美しい言葉を並べても、あの朝の光の中で最初に見た顔にはなれないの。
それって、あたしのせいじゃないでしょう?
足りなかったんじゃなくて、最初からあたしの席なんてなかったのよ。
ある日、王子が嬉しそうに言ったの。
「僕を助けてくれた人が見つかったんだ。隣の国の王女だった。僕はあの人と結婚する」
あたし、笑ったわ。
笑うしかないじゃない。
その夜、一人で甲板に出たの。結婚式は船の上で行われることになっていて、船はもう港を出ていたわ。夜の海は真っ黒で、月が水面にゆらゆら映ってて、あたし、柵にもたれて海を見下ろしたの。
明日の朝日が昇ったら、あたしは泡になる。
海の泡。
ふわふわって浮いて、ぱちんって弾けて、それでおしまい。あたしという存在が、最初からなかったみたいに消えてしまう。
怖かったわ。けれど、怖いだけじゃなかったの。どこかでほっとしてた。もう痛い足で歩かなくていい。もう声のない喉で叫ばなくていい。もう笑わなくていい。
その時よ。
海の中からお姉さんたちが現れたの。
五人とも、あんなに自慢だった長い髪がばっさり切られてたわ。
「あたしたちの髪と引き換えに、魔女からこれをもらったのよ」
お姉さんたちが差し出したのは、短剣だったの。
「日の出前にこれで王子の心臓を刺しなさい。その血があなたの足に落ちれば、また尾ひれに戻る。あなたは人魚に戻って、海で生きられるのよ」
あたし、短剣を受け取ったわ。
ずしりと重かった。
お姉さんたちの目が真剣で、必死で、あたしのことを本当に心配してくれてるのがわかったわ。ああ、あたし、誰にも見てもらえてないと思ってたけど、そんなことなかったのね。
短剣を握りしめて、あたしは王子の寝室に入ったの。
カーテンの隙間から月の光が差し込んでいて、王子と、隣に眠る花嫁の顔を照らしていたわ。二人ともね、幸せそうな顔して眠ってるの。手を繋いで。
あたし短剣を持ち上げたわ。
手が、震えた。
王子の寝顔を見たの。あの嵐の夜、海の中で沈んでいく時の、あの穏やかな顔と同じだった。
——ここから先が、本来のお話と違うところよ。
本当のお話だと、あたしは短剣を海に投げ捨てて、泡になるの。自分を犠牲にして、王子を生かして、空気の精霊になるの。きれいでしょう?
だけど、あたし思っちゃったの。
なんであたしが泡にならなきゃいけないの?
一体何をしたっていうの。好きな人のために声を捨てて、毎日ナイフで刺されるような痛みに耐えて、それなのに選ばれなくて、挙げ句の果てに泡になれ? それとも人を殺せ?
ふざけないでよ。
なんでこの二択しかないの。殺すか死ぬか? そんなの、おかしいでしょう。最初から選択肢がおかしいのよ。
あたし、短剣を降ろしたわ。
でも海には投げなかったの。
床に置いたの、静かに。
それから王子の寝室を出て、甲板に戻ったの。東の空がうっすら白み始めていたわ。もうすぐ朝日が昇る。あたしが泡になる時間が来る。
その時、海を見ながら思ったの。
誰が決めたのよ。
あたしが泡になるなんて。
魔女? 魔女が決めたルールでしょう。なんであたしが魔女のルールに従わなきゃいけないの?
柵を乗り越えて、海に飛び込んだわ。
足が海水を蹴った瞬間、あの刺すような痛みが全身に走ったの。でもあたしは構わず泳いだわ。人間の足で、不格好に、ばしゃばしゃと。
そしたらね、お姉さんたちが来てくれたの。
「バカ! 何やってるのよ!」
「泳ぎなさい! つかまって!」
あたしはお姉さんたちにしがみついたわ。冷たい海の中で、お姉さんたちの体だけが温かかった。
朝日が昇ったわ。
——あたし、泡にならなかったの。
どうしてかって? わからないわ。魔女のルールが間違ってたのかもしれない。あるいは、あたしが王子を殺さなかったことでも、自分を諦めなかったことでも、何か別の条件が満たされたのかもしれない。
ていうか、たぶんね、そんな大層な理由じゃないのよ。
ただ、あたしが「泡になんかなるもんですか」って思ったから、ならなかったのよ。
おかしいかしら。でもあたし、そう思うの。世の中の半分くらいのことは、本人がどう思うかで決まるのよ。
足はね、尾ひれには戻らなかったわ。声も戻らなかった。あたしは人魚でもなく人間でもない、中途半端なものになっちゃったの。海の中では足が邪魔だし、陸の上では声が出ないし。
でもね、いいのよ。
お姉さんたちがあたしを海の浅瀬まで連れて行ってくれて、あたしはそこで暮らし始めたの。半分海に浸かって、半分陸に出て。人魚でもない、人間でもない、あたしだけの場所。
朝は岩の上で日向ぼっこして、昼は海に潜って貝を集めて、夜は星を数えて眠るの。
声? 声はないわよ。今でも。
でもね、あたし、気づいたの。声がなくても伝わることって、あるのよ。
浜辺に来る漁師のおじいさんがいてね、あたしが貝殻を並べて模様を作ると、「きれいだな」って言ってくれるの。あたしが手を振ると、手を振り返してくれるの。
声がなくても、あたしはここにいるって、伝えられるのよ。
王子のこと? 忘れたわよ。
……嘘。忘れてないわ。たぶん一生忘れないと思う。
でもね、忘れなくていいのよ。忘れなきゃいけないなんて、誰が決めたの。好きだった気持ちは本当のことだったんだもの。嘘にする必要なんてないわ。
ただね、もう会いたいとは思わないの。
あの人はあの人で幸せにやってるでしょうし、あたしはあたしで、まあまあ楽しくやってるわ。
足はまだ痛いわよ。歩くたびにずきずきするの。でもね、この痛みもあたしの一部なのよ。あたしが選んだ結果なんだもの。誰のせいでもない、あたし自身の選択の結果。
それって、悪くないと思わない? だって泡になってたら、痛みすら感じられなかったのよ。痛いってことは、生きてるってことでしょう。
ねえ、あなたに一つ聞いてもいいかしら。
あなたも何か、泡にされそうになったことない?
誰かに「お前はこうなる運命だ」って決めつけられたこと、ない? 「お前の選択肢はこの二つだ」って言われて、どっちも嫌なのに選ばなきゃいけないって思い込んだこと、ない?
あるでしょう。
みんなあるのよ、そういうの。
でもね、選ばなくていいのよ。
嫌な二択を突きつけられたら、「どっちも嫌よ」って言っていいの。声が出なくたって、態度で示せばいいの。海に飛び込んじゃえばいいのよ。
……比喩的な意味でよ、本当に飛び込んじゃダメよ。
あたしが言いたいのはね、自分を泡にする権利は、誰にもないってこと。魔女にも、王子にも、お姉さんたちにも、物語を書いた人にも。
あたしの人生はあたしのものよ。泡になんか、なってたまるもんですか。
今日も海は穏やかだわ。岩の上に座って、水平線を見てるの。空は今日もきれいな青。手を伸ばしても届かない青。
でもね、あたし、もう届かなくていいって思ってるの。届かないものを見て、きれいだなって思える。それだけで十分じゃない。全部手に入れなくたって、見てるだけで胸がいっぱいになることって、あるのよ。
風が吹いて、髪をさらっていくわ。潮の匂いがするの。あたしの匂い。海と陸の間の、あたしだけの匂い。
あのね、お話、聞いてくれてありがとう。
声がないあたしの話を、最後まで聞いてくれたのは、あなたが初めてよ。




