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泡にならなかった人魚姫より、あなたへ

作者: 松本雀
掲載日:2026/06/27

 泡って、弾ける瞬間、痛いのかしら?


 ずっと考えてるの、このこと。答えは出ないのにね。だって弾けちゃったら、もう誰にも聞けないでしょう。


 ごめんなさい、変なことから話し始めちゃったわね。もうちょっと先まで聞いてくれたら、なんであたしがこんなこと言い出したかわかるから。


 最初から話すわね。 


 あたし、海の底で生まれたの。


 お父さんは海の王様で、お姉さんが五人もいて、あたしは六番目の末っ子。末っ子って気楽でいいわよねって言われるけど、そんなことないのよ。だって誰もあたしのこと、ちゃんと見てくれないんだもの。


 お姉さんたちはみんな美しくて、珊瑚の髪飾りをつけて、海藻のドレスをひらひらさせて、毎日お城の舞踏会で踊っていたわ。


 あたし? あたしはいつも一人よ。お城の一番端っこの庭園で、沈没船から拾ってきたガラクタを並べて遊んでたの。


 銀のフォーク。割れた鏡。錆びた懐中時計。


 人間の世界のものって、どうしてこんなにあたしの胸をきゅうっとさせるのかしら。


 十五の誕生日に、あたしは初めて海の上に出たの。それはもう、息が止まるほど美しかったわ。


 空っていうものを初めて見たの。どこまでも広くて、青くて、でも海の青とは全然違う青。海の青は抱きしめてくれるけど、空の青は手を伸ばしても届かないの。


 そういうものに、あたし、弱いのよ。届かないものに、どうしようもなく惹かれちゃうの。


 そのうち、黒い雲が集まって嵐になったわ。


 大きな船が波に揺られて、ぎしぎしって音を立ててばきっと折れたの。人間たちが海に投げ出されていくのが見えたわ。とっても怖かった。


 その時、一人の男の人が沈んでいくのが見えたの。月の光が海の中まで差し込んできて、その人の顔を照らしてた。


 きれいな顔だったわ。


 苦しそうで、でも、どこか穏やかで。


 死んでいく人の顔って、怒ってるみたいだと思ってたけど、その人は違ったの。まるで海に帰ってきたみたいな、そんな顔。


 あたし、気がついたら泳いでたわ。その人を抱えて、一晩中泳いで、朝になったから浜辺に寝かせたの。


 波打ち際に横たわるその人の髪を、指でそっと梳いたわ。人間の髪って、あたしたちのとは全然違うのね。海藻みたいに滑らかじゃなくて、もっとざらざらしてて。でも温かいの。生きてる温度がするの。


 遠くから教会の鐘の音が聞こえてきて、あたしは岩陰に隠れたわ。


 若い女の人が走ってきて、その人を見つけて、大きな声で叫んだの。彼が目を開けて、最初に見たのはその女の人の顔だったわ。あたしじゃなくて。


 胸がね、ずきんってしたの。

 海の中では感じたことのない痛みだったわ。


 それからあたし、おかしくなっちゃったみたい。


 毎晩、岩の上に座って、あの人のお城を眺めてたの。窓に灯りがともるのを見て、影が動くのを見て、時々聞こえてくる音楽に耳を澄ませて。バカよね。あたし、自分でもそう思ったわ。


 でもね、やめられなかったの。


 お姉さんたちが「あんた最近おかしいわよ」って言ってきたけど、あたしは笑って誤魔化したわ。おばあさまが「人間に関わるとろくなことがない」って言ったけど、あたしの耳には入らなかった。


 恋って、耳が聞こえなくなる病気なのよ。


 それであたし、海の魔女のところに行ったの。


 魔女の住処はね、海の一番暗いところにあるのよ。光なんて一筋も届かない、ぐにゃぐにゃした気味の悪い珊瑚と、ぶよぶよした磯巾着が絡まり合った洞窟。あたし、何度も引き返そうと思ったわ。でも足が、いえ尾ひれが、勝手に進むの。


 魔女はあたしを見て、にたあって笑ったわ。


「あら、王様の末のお嬢さん。何の用かしら。当ててあげましょうか。人間の男でしょう」


 図星を言われて、あたし、黙っちゃったの。


「尾ひれを人間の足に変えてあげることはできるわよ。でもね、歩くたびにナイフで刺されるような痛みが走る。それから、代償としてあなたの声をもらうわ。そしてね」


 魔女はあたしの顔を覗き込んだの。あの暗い目で。


「もしその王子があなた以外の女と結婚したら、あなたは次の朝日が昇ると同時に、海の泡になって消えるのよ」


 あたし震えたわ。

 それでも、頷いたの。


 今思えば、バカよね、本当に。声を失うってことがどういうことか、あたし、全然わかってなかった。


 声って、ただ音を出すだけのものじゃないのよ。「あたしはここにいるのよ」って叫ぶための、たった一つの手段だったのに。


 魔女があたしの喉に手を当てた瞬間、何かがすうっと抜けていく感覚がしたわ。冷たくて、寂しくて、でもどこか懐かしいような。


 あたしの声は小さな光の玉になって、魔女の瓶の中に収まったの。代わりに尾ひれが裂けて、二本の足になったわ。


 その痛みったら。


 あたし、声が出せたら確実に叫んでた。


 人間の世界って、不便なのね。足っていうのは尾ひれより全然使いにくいし、息を吸うのにいちいち口を開けなきゃいけないし、服っていうのを着なきゃいけないし。


 でもね、王子はあたしを拾ってくれたの。浜辺で倒れてたあたしを見つけて、お城に連れて帰ってくれたわ。


「君は誰? どこから来たの?」


 あたし、答えられないの。口をぱくぱくさせるだけで。


 王子はあたしのことを「不思議な子」って呼んだわ。あたし専用の部屋をくれて、綺麗なドレスを着せてくれて、毎日一緒に庭を散歩してくれたの。


 嬉しかったわ。


 歩くたびに、足の裏に釘を打ち込まれるような痛みが走ったけど、王子の隣にいられるなら我慢できた。


 あたし笑ってたわ。痛くて泣きたいのに、笑ってた。だって声が出せないから、笑顔しかないじゃない。


 けれど、気づいちゃったの。


 王子があたしを見る目と、あの教会の近くで王子を助けた女の人の話をする時の目が、全然違うのよ。


 あたしを見る目は優しいけど、なんていうのかしら、迷子の子犬を見るような目なの。可哀想ね、守ってあげなきゃね、っていう目。


 でもあの女の人の話をする時はね、目がきらきらするの。声が柔らかくなるの。体ごとそっちを向くような、そんな感じ。


 あたしが助けたのに。

 嵐の夜、あの人を抱えて泳いだのはあたしなのに。


 でも言えないの。声がないから。


 何度思ったかわからないわ。もし声があったら、あの時ちゃんと言えてたら。「あなたを助けたのはあたしよ」って。


 だけど、途中から気づき始めたの。


 声があっても、たぶんダメだったんじゃないかって。


 だって王子が好きなのは、あたしじゃなくて「あの朝、目を開けた時に最初に見た顔」なのよ。どんなに素敵な声で歌っても、どんなに美しい言葉を並べても、あの朝の光の中で最初に見た顔にはなれないの。


 それって、あたしのせいじゃないでしょう?


 足りなかったんじゃなくて、最初からあたしの席なんてなかったのよ。


 ある日、王子が嬉しそうに言ったの。


「僕を助けてくれた人が見つかったんだ。隣の国の王女だった。僕はあの人と結婚する」


 あたし、笑ったわ。

 笑うしかないじゃない。


 その夜、一人で甲板に出たの。結婚式は船の上で行われることになっていて、船はもう港を出ていたわ。夜の海は真っ黒で、月が水面にゆらゆら映ってて、あたし、柵にもたれて海を見下ろしたの。


 明日の朝日が昇ったら、あたしは泡になる。


 海の泡。


 ふわふわって浮いて、ぱちんって弾けて、それでおしまい。あたしという存在が、最初からなかったみたいに消えてしまう。


 怖かったわ。けれど、怖いだけじゃなかったの。どこかでほっとしてた。もう痛い足で歩かなくていい。もう声のない喉で叫ばなくていい。もう笑わなくていい。


 その時よ。


 海の中からお姉さんたちが現れたの。


 五人とも、あんなに自慢だった長い髪がばっさり切られてたわ。


「あたしたちの髪と引き換えに、魔女からこれをもらったのよ」


 お姉さんたちが差し出したのは、短剣だったの。


「日の出前にこれで王子の心臓を刺しなさい。その血があなたの足に落ちれば、また尾ひれに戻る。あなたは人魚に戻って、海で生きられるのよ」


 あたし、短剣を受け取ったわ。


 ずしりと重かった。


 お姉さんたちの目が真剣で、必死で、あたしのことを本当に心配してくれてるのがわかったわ。ああ、あたし、誰にも見てもらえてないと思ってたけど、そんなことなかったのね。


 短剣を握りしめて、あたしは王子の寝室に入ったの。


 カーテンの隙間から月の光が差し込んでいて、王子と、隣に眠る花嫁の顔を照らしていたわ。二人ともね、幸せそうな顔して眠ってるの。手を繋いで。


 あたし短剣を持ち上げたわ。

 手が、震えた。


 王子の寝顔を見たの。あの嵐の夜、海の中で沈んでいく時の、あの穏やかな顔と同じだった。


 ——ここから先が、本来のお話と違うところよ。


 本当のお話だと、あたしは短剣を海に投げ捨てて、泡になるの。自分を犠牲にして、王子を生かして、空気の精霊になるの。きれいでしょう?


 だけど、あたし思っちゃったの。


 なんであたしが泡にならなきゃいけないの?


 一体何をしたっていうの。好きな人のために声を捨てて、毎日ナイフで刺されるような痛みに耐えて、それなのに選ばれなくて、挙げ句の果てに泡になれ? それとも人を殺せ?


 ふざけないでよ。


 なんでこの二択しかないの。殺すか死ぬか? そんなの、おかしいでしょう。最初から選択肢がおかしいのよ。


 あたし、短剣を降ろしたわ。


 でも海には投げなかったの。

 床に置いたの、静かに。


 それから王子の寝室を出て、甲板に戻ったの。東の空がうっすら白み始めていたわ。もうすぐ朝日が昇る。あたしが泡になる時間が来る。


 その時、海を見ながら思ったの。


 誰が決めたのよ。

 あたしが泡になるなんて。


 魔女? 魔女が決めたルールでしょう。なんであたしが魔女のルールに従わなきゃいけないの?


 柵を乗り越えて、海に飛び込んだわ。


 足が海水を蹴った瞬間、あの刺すような痛みが全身に走ったの。でもあたしは構わず泳いだわ。人間の足で、不格好に、ばしゃばしゃと。


 そしたらね、お姉さんたちが来てくれたの。


「バカ! 何やってるのよ!」


「泳ぎなさい! つかまって!」


 あたしはお姉さんたちにしがみついたわ。冷たい海の中で、お姉さんたちの体だけが温かかった。


 朝日が昇ったわ。


 ——あたし、泡にならなかったの。


 どうしてかって? わからないわ。魔女のルールが間違ってたのかもしれない。あるいは、あたしが王子を殺さなかったことでも、自分を諦めなかったことでも、何か別の条件が満たされたのかもしれない。


 ていうか、たぶんね、そんな大層な理由じゃないのよ。


 ただ、あたしが「泡になんかなるもんですか」って思ったから、ならなかったのよ。


 おかしいかしら。でもあたし、そう思うの。世の中の半分くらいのことは、本人がどう思うかで決まるのよ。


 足はね、尾ひれには戻らなかったわ。声も戻らなかった。あたしは人魚でもなく人間でもない、中途半端なものになっちゃったの。海の中では足が邪魔だし、陸の上では声が出ないし。


 でもね、いいのよ。


 お姉さんたちがあたしを海の浅瀬まで連れて行ってくれて、あたしはそこで暮らし始めたの。半分海に浸かって、半分陸に出て。人魚でもない、人間でもない、あたしだけの場所。


 朝は岩の上で日向ぼっこして、昼は海に潜って貝を集めて、夜は星を数えて眠るの。


 声? 声はないわよ。今でも。


 でもね、あたし、気づいたの。声がなくても伝わることって、あるのよ。


 浜辺に来る漁師のおじいさんがいてね、あたしが貝殻を並べて模様を作ると、「きれいだな」って言ってくれるの。あたしが手を振ると、手を振り返してくれるの。


 声がなくても、あたしはここにいるって、伝えられるのよ。


 王子のこと? 忘れたわよ。


 ……嘘。忘れてないわ。たぶん一生忘れないと思う。


 でもね、忘れなくていいのよ。忘れなきゃいけないなんて、誰が決めたの。好きだった気持ちは本当のことだったんだもの。嘘にする必要なんてないわ。


 ただね、もう会いたいとは思わないの。


 あの人はあの人で幸せにやってるでしょうし、あたしはあたしで、まあまあ楽しくやってるわ。


 足はまだ痛いわよ。歩くたびにずきずきするの。でもね、この痛みもあたしの一部なのよ。あたしが選んだ結果なんだもの。誰のせいでもない、あたし自身の選択の結果。


 それって、悪くないと思わない? だって泡になってたら、痛みすら感じられなかったのよ。痛いってことは、生きてるってことでしょう。


 ねえ、あなたに一つ聞いてもいいかしら。


 あなたも何か、泡にされそうになったことない?


 誰かに「お前はこうなる運命だ」って決めつけられたこと、ない? 「お前の選択肢はこの二つだ」って言われて、どっちも嫌なのに選ばなきゃいけないって思い込んだこと、ない?


 あるでしょう。

 みんなあるのよ、そういうの。


 でもね、選ばなくていいのよ。


 嫌な二択を突きつけられたら、「どっちも嫌よ」って言っていいの。声が出なくたって、態度で示せばいいの。海に飛び込んじゃえばいいのよ。


 ……比喩的な意味でよ、本当に飛び込んじゃダメよ。


 あたしが言いたいのはね、自分を泡にする権利は、誰にもないってこと。魔女にも、王子にも、お姉さんたちにも、物語を書いた人にも。


 あたしの人生はあたしのものよ。泡になんか、なってたまるもんですか。


 今日も海は穏やかだわ。岩の上に座って、水平線を見てるの。空は今日もきれいな青。手を伸ばしても届かない青。


 でもね、あたし、もう届かなくていいって思ってるの。届かないものを見て、きれいだなって思える。それだけで十分じゃない。全部手に入れなくたって、見てるだけで胸がいっぱいになることって、あるのよ。


 風が吹いて、髪をさらっていくわ。潮の匂いがするの。あたしの匂い。海と陸の間の、あたしだけの匂い。


 あのね、お話、聞いてくれてありがとう。


 声がないあたしの話を、最後まで聞いてくれたのは、あなたが初めてよ。

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― 新着の感想 ―
「魔女が決めたルールでしょう。なんであたしが魔女のルールに従わなきゃいけないの?」 えーそれは……魔女とそういう契約の取引を交わしたからではないでしょうか? 大分理不尽なルールではあるけど魔女は全部事…
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