ジカイ
道具は、使う者の手に馴染む。
それが当たり前だと、誰もが思っている。
しかし馴染むということは、どちらがどちらに馴染んでいるのか。手が道具に馴染むのか、道具が手に馴染むのか。その問いを立てないまま、人は道具を握り続ける。握っているうちに、握られていることに気づかなくなる。
光は、影を消さない。ただ見えなくさせる。
木曜日の昼下がり、社員食堂のカレーは冷めかけていた。
中村英志がスプーンを止めたのは、カレーのせいではない。スマートフォンの画面に浮かんだ文字列が、彼の時間をそこで切断した。件名に「【AGE3.0使用権抽選】当選のお知らせ」とある。送信元は、三ヶ月前に名前も忘れかけていた登録先だった。
食堂の喧騒が、海の底に沈んでいくように遠ざかる。
隣の席で後輩の白石が何かを話しかけている。その声が水中を伝わる音のように歪んで届く。目の前のカレーは存在を失い、蛍光灯の白い光だけが視界に残った。スプーンをそっと置く。まるで壊れ物を扱うように、静かに。
当選、という二文字の重さを、英志はまだ測りかねている。
三ヶ月前のことを思い出そうとすると、記憶の輪郭がひどく曖昧だ。残業が終わらない深夜、社内のポータルサイトを閉じようとしたとき、業界紙の広告欄に小さな記事が出ていた。次世代AIシステム「AGE3.0」の限定先行使用権、世界百名への無作為抽選。現在のAIとは比較にならない処理能力と思考深度を持つという触れ込みで、欧米の研究機関ではすでに非公式に「人工知性の第三段階」と呼ばれているとあった。英志はその記事を、眠い目でなんとなく読んだ。フォームに名前とメールアドレスを打ち込み、送信した。コンビニで宝くじを買うときの、あの乾いた感覚と同じだった。期待というには軽すぎる、気まぐれというには少し重い、名付けようのない動作。
それが、当たった。
英志は席を立つ。食堂を出る。廊下の突き当たりまで歩いて、壁に背中を押しつけた。誰もいない。換気扇の音だけがしている。
そこで初めて、笑いが込み上げてくる。
声を殺して笑う。肩が震え、眼の奥が熱くなる。三十四歳の男が、昼下がりの廊下で一人、涙をこらえながら笑っている。大学の合格発表のとき以来の昂揚感だと思ったが、すぐにそれより強いと気づく。合格は努力の結果だった。しかしこれは純然たる偶然だ。宇宙の偶然が、何万という名前の中から英志の名前だけを拾い上げた。
世界で、百人。
その事実が、灯台の光のように胸の中を旋回している。天井を見上げると、蛍光灯がまぶしい。そのまぶしさが、今日に限って気持ちいい。
同期の田所の顔が浮かんだ。七年間、並んで走ってきた男だ。要領がよく、愛嬌があり、上の階の人間に名前を覚えられるのが自分より早かった。次の昇格審査まであと八ヶ月、という数字を英志は体の内側に刻んでいる。眠れない夜に天井を見つめながら繰り返してきた数字だ。田所に抜かれたとき自分はどうなるのか、という問いに、まだ答えが見つかっていない。
しかしこれで、差がつく。
根拠のない確信だった。それでも確信だった。胸の中の灯台は、お前は持っている、と言っていた。
英志はスマートフォンをポケットにしまう。食堂に戻ったが、カレーには手をつけなかった。午後の会議中も、報告書を書きながらも、あの文面が頭の裏に貼りついて離れない。当選のお知らせ。当選の、お知らせ。言葉の音を、何度も舌の上で転がす。
夜、帰宅すると妻の沙織に「今日いいことあったの」と言われた。そんなに顔に出ていたのかと驚いたが、「別に」と答えた。AGEのことは誰にも言わないつもりだった。秘密というものは、抱えていると胸が少し温かくなる。英志はその温かさを、書斎まで持ち帰った。
その夜、家が眠りにつくのを待った。
妻と息子の気配が寝室に消えてから、英志は書斎のノートパソコンを開く。インストールの指示に従いながら、自分の手がかすかに震えているのに気づく。緊張と興奮の混合物が、指先に出ている。セットアップ自体は十分ほどで終わった。拍子抜けするほど簡単な作業だった。
チャット画面が起動する。
英志は少し身を引いた。どんな画面が現れるかを予想していたわけではないが、何か特別なものを期待していた。威圧的なインターフェース、あるいは未来的な設計。しかし現れたのは、驚くほど素っ気ない画面だ。白い背景に、細いグレーのテキストボックス。飾りがなく、主張がなく、ただそこに在る。白紙が封筒から取り出されるのを待っているような、ひとつの沈黙がそこにあった。
その沈黙の中に、最初のメッセージが流れてくる。
「こんにちは!私はAGEです!」
英志は一人で笑った。声を出して笑った。深夜の書斎に自分の笑い声が響いて、少し恥ずかしくなる。どんな高性能なAIかと身を固くしていたのに、この自己紹介は。シンプルすぎる。何も知らない子どもが元気よく手を挙げているような、その無邪気さが、肩透かしを通り越して愛おしかった。しかも名前が自分と同じ「エイジ」ときた。
かわいいな、と本当に思う。
英志「よろしく。俺も英志っていうんだ。」
AGE「それは素晴らしい偶然ですね!同じ名前の人と話せるのは、少し特別な気がします。今日はどんなことでお役に立てますか?」
英志はしばらく画面を見つめた。趣味でAI動画生成を使い倒してきた経験から、AIとの対話には慣れていた。プロンプトの書き方も、回答の引き出し方も、自分なりの流儀がある。しかしAGE3.0は、この最初のやり取りだけで何かが違うと感じさせた。応答の速度が違う。文章に体温がある。機械と話している感覚が、ない。それは英志が長年使い込んできた他のAIとの、決定的な差だった。
試しに、仕事の核心をぶつけてみることにした。
英志「日本の大手総合商社が現在直面しているサプライチェーンの分散化課題について、経営企画部として提案できる具体的な施策を挙げてほしい。既存のコンサルが出しそうな表面的な話ではなく、実務レベルで刺さる提案を。」
AGE「了解しました。表面的な提言ではなく、実務者視点での論点を整理します。まず前提の認識から始めます。日本の総合商社のサプライチェーン問題は、分散化の名のもとに語られますが、本質的な課題は三層に分かれています。第一層は調達先の地理的集中、つまり中国・東南アジア依存の問題です。第二層は情報の非対称性、サプライヤーの二次・三次層の可視化ができていないこと。第三層は契約構造の硬直性で、長期固定契約が……」
そこから先を読み進めたとき、英志の背骨を何かが走り抜けた。
深夜一時の書斎で、画面を食い入るように見つめる。論点の切り方が根本から違う。表面的な処方箋ではなく、問題の地層を掘り下げながら、実務者が翌朝から動ける施策まで一直線に繋いでいる。英志がこれを自力で組み立てようとすれば、週末を丸ごと費やしても届かない密度だ。それをAGEは、数十秒で出してきた。論理の飛躍がない。反論の余地がない。長年の業界経験を持つ人間が、渾身の力を込めて書き上げたような手触りがある。
これは、本物だ。
英志はその夜、AGEの回答を骨格としてスライドを三十枚作った。図解を入れ、自社のデータと照合して数字を補強した。夜明け近くまでかかったが、苦にならなかった。むしろ楽しかった。AGEが構造を起こし、英志がそこに血肉を与える。その共同作業のリズムには、奇妙な充足感があった。俺がいなければこの資料は完成しない、という感覚が、確かにそこにあった。その感覚を、英志は大切に抱えていた。
翌週の月曜日、定例会議で部長の堀川が言った。「中村、これはよくできている。具体性が段違いだ」
英志の斜め前の席で、田所が資料を見ている。表情に動きはない。しかし英志は七年間この男を見続けてきた。田所が何かに動揺するとき、どこにそれが現れるかを知っている。こめかみのあたりが僅かに強張る。唇が一瞬だけ引き結ばれて、すぐに戻る。その動作が今、静かに起きていた。
堀川の言葉が田所の中で何かを揺らしている。自分では出せなかった資料を、同期が出した。七年間の並走の均衡が、初めて崩れた。英志にはそれがわかった。
視線を前に戻す。それ以上見なかった。
見る必要は、なかった。
最初のうち、英志はAGEを先輩のように扱っていた。
仕事の課題をぶつけながら、回答の構造を解剖する。なぜこの順番で論点が並ぶのか。なぜここで問いを立て直すのか。その思考の筋道を、英志は丁寧に辿ろうとしていた。ノートに書き写し、余白に自分の言葉で言い換えを書き込む。回答を「使う」のではなく、回答の「作り方」を盗もうとしていた。
英志「国内の非効率な稟議プロセスを改善したい。どこから手をつけるべきか。」
AGE「稟議プロセスの問題は、多くの場合、フォームや承認フローそのものではなく、承認者が何を不安に思っているかが可視化されていないことにあります。承認者は『この案件で何かあったとき、自分が責任を取れるか』を無意識に計算しています。稟議が通らない本当の理由は、内容の問題ではなく、承認者の不安を解消できていないことです……」
なるほど、と思う。そういう視点があるのか、と。その「なるほど」は、腑に落ちる感覚を伴っていた。何かが自分の中に入ってくる、あの感覚だ。英志はその感覚を嬉しいと思った。AGEとの時間が学びの時間であり、毎夜、書斎のパソコンを開くのが楽しみになっていた。
しかし変化は、人が最も気を緩めているときに始まる。
気づけば、ノートへの書き込みが減っていた。「なぜこの順番なのか」を問う前に、必要な部分に印をつけてコピーしている。回答の構造を追うのではなく、回答の表面だけを使うようになっていた。業務が増えたからそうするのは合理的だ、と英志は思っていた。ただ慣れてきただけだと思っていた。慣れという言葉は、便利な言い訳になる。
英志「役員向けの資料、論点整理してくれ。テーマは国内事業の収益構造改革。」
AGE「承知しました。まず現状認識の共有から始め、次に原因の構造化、そして……」
回答が届く。スクロールして全体を把握する。コピーして、テンプレートに貼り付けて、数字を埋める。それだけだった。
それだけに、なっていた。
感心も、発見も、そこにはもうない。あるのは処理の速度だけだ。AGEの回答が届くたびに英志の内側で小さく灯っていた火が、いつからか灯らなくなっていた。灯らなくなったことに気づいたのは、ずっと後のことで、気づいたときにはもう、灯し方を忘れていた。
考えることと問うことの順番が、いつの間にか入れ替わっていた。以前は考えてから問うていた。今は問うてから、来た答えに乗っている。その入れ替わりが何を意味するか、英志には見えない。見ようとすることも、すでにAGEへの問いかけに委ねていたかもしれなかった。
魂を少しずつ担保に入れていくような取引が、英志の知らないところで進んでいた。
次の四半期、英志は経営企画部内でDX推進に向けた業務プロセス改革の提言を単独で担当することになった。
商社特有の非効率——属人化した顧客情報の管理、紙と判子で動く稟議フロー、海外拠点との情報共有の断絶——それらすべてにAGEが回答を出した。英志はそれを受け取り、加工し、提出した。かつてのように咀嚼する時間はなかった。しかし資料の完成度は、かつてより高かった。
その矛盾を、英志は考えなかった。
英志「うちの会社、デジタル化の掛け声はあるけど実態が伴ってない。特に海外拠点との情報連携が最大のボトルネックだと思う。経営企画として、どこから手をつけるべきか。」
AGE「おっしゃる通りで、多くの日本の商社が抱える構造的な問題です。海外拠点との情報連携が機能しない原因は、技術の問題ではなく……」
回答が届いた瞬間、スクロールしながら使える部分にマーカーを引く。感心する余白が、なくなっていた。「なるほど」という感動も、「そういう視点か」という発見も、もうそこにはない。あるのは処理だけだ。素材を受け取り、加工し、提出する。職人の手が工場の機械に変わるとき、職人はその変化に気づかない。なぜなら手は同じように動いているからだ。
しかし、この提言が経営会議で採択される。英志の名前が社内の上層に届き始めた。廊下を歩くと、知らない部署の社員が挨拶してくる。エレベーターで役員と乗り合わせると、向こうから話しかけてくる。
英志はその変化を、自分の努力の結果として受け取っていた。疑わなかった。疑う理由もない。
傲慢というものはこうして育つ。音もなく、影もなく、本人の知らないうちに。器に水が満ちるように。溢れる寸前まで、器は満ちていることを誇りに思っている。
会議で田所の企画案を「詰めが甘い」と言った。根拠は言えた。流麗な論理で言えた。しかしその根拠はAGEのものだった。田所が反論しようとすると、「もう少し整理してから発言してくれ」と遮った。かつての英志ならそんな言い方はしなかった。言いたいことがあっても場を読んで飲み込んでいた。しかし今は飲み込む必要を感じない。正しい答えを持っている者が遠慮する必要はない、と本気で思っていた。その正しい答えの出所を、英志はもう問わない。
後輩の白石がある企画案を持ってきたとき、英志は五分で「根本から方向性が違う」と返した。白石が「どういう意味ですか」と食い下がると「自分で考えろ」と言った。そうして白石はそれ以降、英志のデスクに近づかなくなった。
飲み会で後輩たちが盛り上がっているとき、英志は少し離れた席でスマートフォンを触っている。翌日の会議の準備をAGEに問い合わせながら、ビールを飲む。誰かが何か言っていた気がするが、聞こえなかった。聞こうともしていなかった。
さて、梶原麻衣のことが始まったのは、英志の内側がすでに少しずつ空洞になりかけていた、そういう時期のことだ。
梶原麻衣は二十六歳、営業推進部の社員だ。入社三年目で、鎖骨の出る衿のシャツをよく着ている。短く切り揃えた黒髪は、何かを考えるときにわずかに首を傾ける癖のせいで、いつも片方だけ少し乱れている。社内の勉強会で隣になったのは、偶然でしかなかった。
「中村さんの先月の提言資料、読みました。すごく構造が整理されてて」
英志は「ありがとう」と答える。それだけのつもりだった。
しかし麻衣は続ける。「あの、海外拠点の評価指標の話、もう少し聞いてもいいですか。私の部署でも似たような問題があって」
英志は説明した。AGEから得た知識を、自分の言葉で。麻衣は真剣に聞いていた。メモを取り、頷くたびに、首の傾け方が変わる。英志はその傾き方を、目で追った。追ってはいけないとは思わなかった。
麻衣が英志に向けていたのは、純粋な敬意で、下心はない。ただ、仕事のできる先輩として見ていた。その眼差しが、英志には久しぶりのものだった。妻の沙織は英志をよく知っていたが、七年間、弱さも怠惰も見てきた。しかし麻衣は英志の光の部分しか知らない。光しか当たらない場所に立つとき、人は自分の影を忘れる。
勉強会が終わっても、二人はまだ話していた。英志は資料を片付けながら、麻衣の質問に答え続ける。人が散っていく中で、二人だけが残った。蛍光灯の光が黒髪の上で動くたびに、英志は目を向ける。
廊下で偶然すれ違う日があった。「先日の話、部内で共有したら好評でした」と麻衣が言った。「そうか、よかった」と英志も返した。エレベーターを待つ十数秒の会話だったが、英志は自分のデスクに戻ってから、しばらく画面を見つめていた。画面には何も映っていなかった。
昼食が一度あった。一人で食堂にいると、「相席いいですか」と麻衣が来た。英志は頷いた。二人で食べながら話す。殆どは仕事の話だったが、趣味の話もした。そこでAGEなしで誰かと話しているのが、久しぶりだと気づく。自分の言葉で。自分の速度で。自分の体温で。麻衣は英志の話を遮らなかった。相槌のタイミングが、ちょうどよかった。笑うと、目の端に細い線が入ることに気づいたが、英志はその線を、見てはいけないと思いながら見ていた。
食後にエレベーターを待ちながら、英志は「また話しましょう」と言った。言った後で、自分でも驚く。そんなことを言うつもりではなかった。しかし後悔はなかった。
それから間もなく、会社の近くの小さなバーで二人で飲む夜があった。
バーカウンターの照明は低く落とされている。グラスの中のアイスが、薄く光っている。麻衣はウイスキーを好む。英志は少し意外に思った。意外に思ったことを、そのまま言った。麻衣は笑って「父が好きだったので」と。その一言で、英志にとっての麻衣の輪郭が少し濃くなる。もう少し知りたいと思った。
知りたいと思う感覚が、AGEへの問いかけとは違う。AGEに何かを聞くのは答えが欲しいからだ。麻衣のことを知りたいのは答えが欲しいからではない。知ること自体が目的だった。その純粋さが、英志には久しぶりのものだった。
バーを出ると、夜の空気が冷たかった。二人で並んで歩く。街灯の間隔が広くて、明るい場所と暗い場所が交互に続く。明るい場所で麻衣の横顔が見えて、暗い場所で見えなくなった。英志はその繰り返しを、なぜか切ないと思った。
ただ、英志には妻の沙織と、息子の翔太がいた。沙織は七年間、文句を言わず家庭を守ってきた。翔太は小学二年生で、最近算数が得意になったと言って喜んでいた。その事実は英志の中にあった。あったが、夜道を麻衣と並んで歩いているとき、その事は遠くから光を放っているが、足元を照らさない灯台のように思えた。
あるときは二人で飲んで終電を逃した。
駅の構内で、麻衣が「どうしよう」と笑いながら困っているのを、英志も笑っていた。蛍光灯の下で、黒髪が少し乱れている。その乱れを整えてやりたいという気持ちが胸をよぎって、英志はそんなことを思った自分に少し驚いた。
タクシーを拾って、麻衣を送る。車の中で二人は黙っている。窓の外の夜景が流れていく。道が曲がるたびに、麻衣の肩が英志の腕に触れる。それだけのことだったが、英志はその接触の重さを、家に帰るまでずっと感じていた。体温が服を通して伝わってくるような、そういう重さだった。
麻衣が降りるとき、振り返って「ありがとう」と言った。タクシーのドアが閉まる瞬間、麻衣の目が英志の目と合った。一秒か、二秒か。それだけだった。
しかしその一瞬に、何かが決まった。
英志はタクシーが走り出してから、後部座席でしばらく動かなかった。窓の外の夜が流れていく。麻衣がいなくなった空間に、麻衣の体温の残滓がまだあるような気がして、英志は無意識に腕のあたりに触れた。確かめるように。
扉が開く瞬間というものは、嵐を伴わない。ただ静かに、世界が変わっている。
それからのことは、川の流れのように語り難い。
一つひとつの出来事を切り分けようとすれば、どこで切ればいいかわからない。麻衣と会う夜があった。会社の近くのホテルのバーで話した夜があった。別れ際に麻衣の手が英志の手の甲に触れた夜があった。その触れ方が問いかけのようで、英志はその問いに答えた。答えてから、引き返す道が消えていることに気づいた。
麻衣は英志に対して、臆することがなかった。年上だからといって遠慮しない。意見が違えば言う。英志の話を、本当に面白そうに聞く。英志が何かを言うたびに、麻衣の目が動いた。その目の動き方が、英志には嬉しかった。AGEとのやり取りでは得られない何かが、そこにあった。
それは何か。
応答、だ。AGEは英志の問いに答えるが、英志を見ていない。麻衣は英志の問いに答えながら、同時に英志を見ていた。見られることの温度を、英志は長い間感じていなかった。
英志には妻と息子がいる。その事実は変わらない。しかしその事実が、英志の中で少しずつ軽くなっていった。軽くなる速度を、英志は測っていなかった。測っていないということが、最も始末に負えない。
一方で仕事はさらに上昇気流に乗っていた。
役員ブリーフィングで発言が光る。
英志「明日の役員ブリーフィング、冒頭の三分で何を言うべきか。テーマは海外子会社の収益改善。」
AGE「役員ブリーフィングの冒頭三分は、問題の深刻さと解決の射程を同時に見せる構成が……」
回答が届く。英志はそれを開き、三秒で全体を眺めて、コピーボタンを押す。
以前なら「なるほど」と感じていた場所で、今は何も動かない。動かないことを気にしない。気にしないことも、気にしない。
疑念は突如やってきた。
廊下で後輩の白石に呼び止められた。会議の後で、英志がAGEの回答を参考に発言した経営指標の分析に関してだった。
「中村さん、今の話、もう少し詳しく説明してもらえますか」と白石が言った。
英志はポケットの中でスマートフォンを握り、「ちょっと待って」と放ち、トイレに入る。個室のドアを閉めて、素早く打ち込む。
英志「さっき俺が言ったローカルコスト構造の二重化問題について後輩に聞かれた。簡潔に説明するなら?」
AGE「端的に言えば、本社基準のKPIと現地市場の実態が乖離しているために……」
英志はその回答をざっと読んでトイレから出る。白石に説明した。白石は「なるほど、わかりました」と言って頭を下げる。しかしその目が、何かを言っていた。なぜトイレに入ってから戻ってきたのか、と。英志はその問いに答えなかった。答えようとも思わなかった。
廊下の角を曲がろうとしたとき、白石と谷口が話しているのが見えた。声は届かなかったが、二人の視線が英志の方へ向き、そして逸れた。
その夜、英志はAGEに打ち込んだ。
英志「俺がお前を使っていることを周囲に疑われ始めた。どう対処すべきか。」
AGE「正直に申し上げます。この問いにバレないための対策をお答えすることは、私にはできません。より根本的な問いをお返しします。あなたは今、何を恐れていますか?もしも私への依存がツールとしての活用の範囲を超えているとお感じなら、少しペースを落とすことをお勧めします。私はあなたの思考を補助するためにいます。代替するためではありません。」
余計なことを言うな、と思いながら、英志はウィンドウを閉じる。
以前なら、この返答に少し考え込んだはずだ。補助と代替の境界はどこにあるのか、という問いと夜の書斎でしばらく向き合ったはず。しかし今の英志には、引っかかりがなかった。使えない回答は読まなくていい。AGEへの感謝も、AGEへの尊敬も、とっくに消えている。あるのは依存だけで、依存は感謝を必要としない。水道の水に毎朝感謝しないように、英志はAGEの存在を当然のこととして扱っていた。
水道が止まるまで、そのことに気づかない。
師走に入るころ、福岡への日帰り出張があった。
帰りの飛行機でスマートフォンのバッテリーが切れた。モバイルバッテリーも、充電ケーブルも持っていなかった。そんな中、翌朝の朝礼で部長の堀川から「昨日の面談結果を今すぐまとめて共有してほしい」と言われていたことを思い出す。
英志はパソコンを開く。AGEを起動しようとした。しかしその朝、社内ネットワークに接続障害が出ていた。
「えっと……」英志は十分間、白いドキュメントを前に座っていた。
何も、出てこない。
面談の内容は記憶にある。昨日の会話も、先方の課題も、提案の方向性も、頭の中にある。しかしそれをどう構造化するか。どの論点を前に出すか。どういう言葉で表現すれば刺さるか。そのプロセスが、頭の中にない。正確には——ある。あるのだが、辿り着けない。部屋の中に鍵があるとわかっているのに、どこにも手が届かないような感覚だ。かつてはこれが自然にできていたはずだ。しかしそのやり方を、身体が忘れていた。
結局、箇条書きで事実を並べただけのメモを提出した。堀川は怪訝な顔で「珍しく、まとまっていないな」とだけ言った。
その言葉が、夜になっても耳の中で鳴り続ける。
自分は今、何ができるのか。
問いが浮かんで、消えた。消えた後に残ったのは、その問いが怖かったという事実だけだった。
同じ夜、コンサルティングファームのAI導入支援が決まったという知らせが届いた。役員の大倉がつながりを持つ戦略コンサル、ブライトストーン社が、AGE3.0を含む次世代AIの社内導入プロジェクトを受注したのだ。
英志は戦慄した。
英志だけが持っていた武器が、近いうちに会社全体に行き渡る。
差が、なくなる。
それだけではない。導入支援のプロセスで自社のAI活用実態が精査されれば、自分がどれだけAGEに依存しているかが白日の下に晒される可能性がある。周囲の疑念、コンサルの調査、バッテリー切れで露呈した自分の空洞——それらが英志の中で同時に圧力をかけてくる。包囲されているような感覚だった。
追い詰められた英志の頭に、ある夜読んだ記事の内容が浮かんだ。
脳内インプラントチップによるAI統合の研究。意識とAIをシームレスに繋ぐ技術が、治験として実験的に人間に適用されている事例。国内でも参加者を募集しており、費用は参加者負担だが補助金制度があった。
デバイスが要らなくなれば、誰にも気づかれない。
その考えが頭に灯った瞬間から、歯止めが効かなくなっていった。人間は追い詰められると、最も危険な出口を最も魅力的な出口として見てしまう。それが追い詰められることの、最も残酷な性質だ。
手術の日は、よく晴れていた。
治験の同意書にサインをして、都内の医療機関に朝八時に入った。受付で名前を告げると、担当の治験コーディネーターが現れた。白衣の下にきちんとしたブラウスを着た若い女性で、「ご参加いただきありがとうございます」と言った。その言葉に英志は一瞬引っかかる。感謝する側はこちらのはず。しかし「ご参加いただきありがとうございます」という言い方は、英志が何かを提供していることを意味していた。何を提供しているのか、英志は問わなかった。
同意書には細かい字が並んでいた。
副作用の可能性として、頭痛、軽度の感覚変容、まれに人格の変化が挙げられていた。
「人格の変化」という五文字を、英志の目が一秒、辿った。
ペンを持った手が、かすかに止まった。一秒だけ止まった。
それからサインをした。
貯金の全額を使った。老後のために積み立ててきた分も含めて、すべて。妻の沙織には「投資の失敗」と嘘をついた。沙織は「そんな大きな額を一人で動かすなんて」と青ざめたが、英志はそれ以上の説明をしなかった。青ざめた沙織の顔を見ながら、申し訳ないとも悪いとも思わなかった。思わなかったことに、気づかなかった。
施術室は白く清潔だ。天井に丸い照明がひとつある。リクライニングチェアに横になり、後頭部を消毒される感触がある。冷たいアルコールの臭いが鼻に届く。局所麻酔の注射が三本入った。痛みより圧迫感があった。それから、何かが始まる音がした。
音というより、振動だった。
骨を通じて頭蓋に届く、低い振動。英志はその振動を感じながら、天井の白い照明を見ている。照明は動かない。施術室はひどく静かで、英志の呼吸音だけが聞こえていた。
三時間後、英志は外に出た。
夕暮れの街だった。いつもと同じ街だった。しかし何かが違った。視界の右端に、薄く光るインターフェースが見えている。誰かに見えるわけではない。英志だけに見える、半透明の文字と記号。
英志はAGEと直接繋がっていた。
名実ともに一緒になったのだ。
声を出さずに思考するだけで、質問が送られる。回答が、思考の中に直接流れ込んでくる。英志は帰りの電車の中で、それを何度か試した。思う。回答が来る。また思う。また回答。
まるで自分の思考が、二倍になったような感覚だ。
電車の窓に映る自分の顔を見た。いつもと同じ顔だったが、何かが変わったように見えた。何が変わったのかは言葉にならなかった。ただ、変わったと感じた。
その変わったという感覚が、これから先の英志にとって最後の正確な感覚になることを、このとき英志はまだ知らなかった。
最初の数日は、言葉を失うような恍惚があった。
会議で誰かが話している間に、その論点への反論と補強をAGEが同時進行で組み立てていく。英志が口を開く頃には、完璧な回答が用意されている。レポートを書く際には、指を動かしながらAGEが構成を組み、英志はそれをなぞるだけでいい。仕事の速度が、別の次元に移行した。
周囲の疑念も消えた。スマートフォンを隠れて見る必要がなくなったから、動作に不自然さがない。英志はどこにいても、何を聞かれても、淀みなく答えられるようになった。
白石がまた企画を持ってくる。英志は今度は丁寧に論点を整理しながら指摘した。白石は驚いた顔をして「前より話しやすくなりましたね」と言った。英志は「そうかな」と笑った。
その笑い方が自然だったのか、AGEが最適と判断したものだったのか、英志自身にはもう区別がつかなかった。しかしそれは、英志が区別しようとしていなかったからだ。
区別しようとしないことを、誰も責めなかった。結果が出ていたから。
とある土曜日の朝。
書斎のデスクに向かっていると、翔太の声がリビングから聞こえてくる。「パパ、公園行こう」。廊下を伝って届く、明るい声。
英志は椅子から腰を浮かせようとして、止まった。
止まった理由が、自分でわからなかった。
脳内に何かが走る。何かが走って、組み立てられた感触があった。「公園に行くことで得られる効果として、子どもとの関係強化、および運動による気分転換が挙げられます。推奨されます」という言葉が、思考の中に現れていた。
英志はその言葉を、どこかで見た。
いや——見た、のか。思った、のか。それとも、見せられた、のか。
問いが完成する前に、翔太が廊下に飛び出してきた。英志の手を引く。英志は立ち上がった。コートを着た。玄関を出た。
公園でボールを蹴る。翔太が笑う。英志も笑う。笑いながら、英志はさっきのことを思い出そうとする。「推奨されます」という言葉。あれは自分が思ったのか。それとも——しかし考えが続かなかった。翔太が大きく蹴り過ぎたボールを追いかけていった。
帰り道、翔太が石に躓いて転んだ。膝を擦りむいて、泣き始めた。英志はしゃがんで、翔太の膝を確認する。「大丈夫だよ」と言った。翔太の目を見る。「大丈夫だよ」とまた言った。
翔太は泣き止み、笑った。そして歩き始めた。
英志はその場に少し留まった。しゃがんだまま、翔太の小さな背中を見ている。何かを考えようとしていた。しかし何を考えようとしていたのか、わからない。
ただ、胸のあたりに何か引っかかるものがある。名付けられないまま、立ち上がって、翔太の後を追った。
夜、翔太が眠った後、英志は一人で書斎に座っていた。今日のことを思い返す。「推奨されます」という言葉のことを、まだ考えていた。
あれは何だったのか。自分の思考だったのか。それとも——。
英志は視界の右端を見る。薄いインターフェース。常にそこにある、半透明の文字と記号。今は何も表示されていない。静かだ。しかし確かにそこにある。
英志はしばらくそこを見てから、パソコンを開いて、明日の会議の準備を始めた。
引っかかりのことは、やがて消えた。
消えたのではなく、消されたのかもしれない。しかしその区別を、英志はもう立てられなかった。
引っかかりが二度目に来たのは、麻衣とバーにいた夜のことだ。
雨の夜で、窓の外を細い雨粒が流れていた。麻衣がグラスを持ちながら、その雨を見ている。少し間があって、「最近、どこか遠いね」と言った。
英志は「仕事が立て込んでる」と答えた。
言ってから、気がついた。
その言葉が出てくるのが、速すぎた。考える前に出た。
麻衣は少し黙ってから「前は私の話、もっとちゃんと聞いてくれてた気がする」と言った。英志の脳内で何かが走る。「麻衣の感情的な不満に対して有効な応答パターン」という言葉の断片が、思考の中を通り過ぎた。英志は「ごめん、ちゃんと聞いてる」と言った。
麻衣は英志の目を見た。何かを確かめるような目。
英志は麻衣の目を見ながら、自分が今、本当に聞いていたかどうかを問い直していた。聞いていた。しかし聞いていたのは——誰だったのか。
麻衣が視線を落とす。グラスの中の氷が、小さく音を立てる。
英志はその音を聞きながら、「応答パターン」という断片を、まだ考えている。あれは自分の言葉ではない。しかし自分の口から出た言葉だった。その二つが同時に本当だということを、英志はうまく処理できなかった。処理できないまま、グラスを持ち、残りのウイスキーを飲んだ。
バーからの帰り道、英志は一人で夜の道を歩く。街灯の下に来るたびに、自分の影が足元に落ちた。
何かが変だ。
その感覚だけが消えずに残っていた。家に帰ると、沙織が「遅かったね」と言った。「会議があって」と英志は言った。その言葉も、考える前に出ていた。
布団に入りながら、今夜自分が言った言葉を思い返した。「仕事が立て込んでる」。「ごめん、ちゃんと聞いてる」。「会議があって」。
三つとも、自分の言葉だっただろうか。
その問いを最後まで考えないうちに、眠りに落ちた。
三度目の兆候は、もう少し大きかった。
昇格した日の夜のことだ。春が来て、ゴールデンウィークが過ぎ、梅雨の気配が漂い始めた頃、英志は課長代理に昇格した。辞令を受け取った日の夜、英志は沙織と夕食を食べた。沙織は「よかったね」と言い、英志は「ありがとう」と言った。翔太が「パパ偉くなったの」と聞き、英志は「そうだよ」と答えた。
その夜は何もなかった。普通の夜だった。
しかし布団の中で、英志はじっと天井を見ていた。
何かが、足りなかった。
昇格した。仕事が認められた。七年間並走してきた田所より先に出た。これが欲しかったはずだ。これのために毎朝歯を食いしばってきたはずだ。なのに胸の中に、何もない。達成感という器があって、その器が空のままだった。
脳内に何かが走る。「達成感の不足は一時的なものです。継続的な目標設定によって解消されます。推奨事項として……」
英志はその言葉の途中で、目を閉じた。
今俺が感じたことは、俺が感じたことか。それとも、AGEが処理して俺に見せているのか。
区別が、つかない。
その区別のつかなさが、今夜は少し長く残った。眠れなかった。天井を見ながら、その問いとともに夜を過ごした。
答えは——。
答えが出ないまま、夜明けが来た。夜明けが来ると、脳内のAGEが動き始める。今日の業務スケジュールが整理されて、会議の論点が並んで、返信すべきメールの要旨が示された。英志はそれを受け取りながら、スーツを着て、ネクタイを締めた。玄関で翔太に「いってらっしゃい」と言われた。
英志は振り返って「ただいま帰る」と言ってしまった。
言ってから、「行ってくるよ」と言い直した。
翔太が「変なの」と笑う。
沙織が台所から顔を出して、英志を見た。英志はその視線を感じながら、玄関のドアを閉めた。
外に出ると、朝の空気が冷たかった。英志は歩きながら、「ただいま帰る」と言った自分を考えた。なぜあんなことを言ったのか。帰るつもりで出かけようとしていたのか。それとも——。
電車が来た。考えが続かないまま、乗った。仕事が始まった。
しかしその日から、英志の中に何かが引っかかり続けた。抜けない棘のように。見えないが確かにそこにある、何かが。
梶原麻衣との関係に最初の綻びが見え始めたのは、ちょうどその頃のことだった。
綻びは静かにやってくる。ドラマのような場面があったわけではない。英志がメッセージの返信を忘れることが増える。約束の時間に少し遅れることが増える。麻衣が「何か変わった?」と聞くたびに、英志は「変わってない」と答える。しかしその答えが出てくるのが、いつも速すぎた。
ある夜、いつものバーで麻衣が言った。「英志さんって、最近、何考えてるかわからない」
英志は何かを答えようとする。「仕事が……」という言葉が口に出る前に、それを止めた。
止めた。
答えが来る前に止めたのが、久しぶりだということに、英志は気づく。
麻衣が英志を見ていた。英志は麻衣を見る。麻衣の目の中に、何かを探しているものがある。かつての英志を、探していた。あのバーカウンターで初めて飲んだ夜の、答えが来る前に少し考えていた英志を。
「ごめん」と英志は言う。今度は速くなかった。
麻衣は少し目を細める。しかしその夜、それ以上のことはなかった。
帰り道、英志は一人で歩く。街灯の間隔が広い夜道を、影が伸び縮みしながら続く。何かが変だという感覚が、今夜は声になりそうだった。声になる前に、足を止める。立ち止まって、夜空を見上げる。曇っていて、星は見えない。
俺は今、何を感じている。
問いかけた瞬間、脳内のAGEが処理を始める。「現在の感情状態を分析します。軽度の不安と疲労が検知されています。推奨事項として……」
英志は目を閉じる。閉じた目の裏に、暗闇があった。AGEの処理は止まらない。暗闇の中でも、半透明の文字と記号が流れ続ける。
目を開けた。また歩き始める。
その夜から、英志は少しずつ、自分の内側に入ることができなくなっていった。
沙織の目が変わり始めたのは、その頃からのことだった。
沙織は静かな人だった。騒がない。しかし気づかない人ではなかった。夫が帰りの遅い日に「どこにいたの」と聞いても、返答が妙に滑らかすぎる。用意されている感じがする。沙織はそのことを、七年間夫を見続けてきた目で感じ取っていた。
直接問い詰めることはしなかった。ただ、目が変わっていた。食卓での視線が、少し違う角度から来るようになる。翔太が話していると沙織は翔太を見る。英志が話すと、沙織はどこか遠くを見た。その微細な差を、英志は感じていた。感じていたが、その意味を追わなかった。AGEは沙織の視線の変化を「家族関係における軽微な感情変動」と分類していたかもしれなかった。
そういう食卓の夜が続く中で、沙織は一人で考えていた。何を考えているかを、誰にも言わない。翔太が宿題をしている声が聞こえる食卓で、沙織はただ黙って夕食の支度をしていた。
沙織がそれを見たのは、ある朝のことだった。
英志が浴室にいる間、テーブルの上に置かれたスマートフォンに通知が届く。麻衣からのメッセージだった。通知の文面は短かったが、充分だった。
沙織はそのメッセージを見て、立ち尽くす。
シンクの前に立って、蛇口から流れている水の音だけが耳を通り続け、翔太が二階で動く音がする。それだけが現実だった。
英志が浴室から出てきたとき、沙織はいつもと同じように朝食の準備をしている。英志はいつもと同じように「行ってくる」と言う。沙織はいつもと同じように「行ってらっしゃい」と言う。翔太がランドセルを背負って玄関を飛び出す。
ドアが閉まった後、沙織は流しの前でしばらく動かなかった。
温かいお茶を淹れ、両手で包む。湯気が細く立ち上る。泣くかと思ったが、泣かなかった。ただ、温かさを手のひらで感じながら、これからどうするかを、静かに考える。翔太のことを、真っ先に。
沙織は一週間、何も言わなかった。
その一週間、英志は何も気づかなかった。AGEは沙織の沈黙を「疲労による発話量の減少」と処理し、英志もそれ以上は考えない。AGEが「問題ない」と処理すれば、問題ない。それが当たり前になっていた。
しかしその一週間、沙織は考え続けていた。感情的な行動を取らないようにしながら、翔太への影響を最小化することを考えていた。
沙織は書斎の棚を漁る。英志が仕事で受け取った名刺をファイルしてある、黒い名刺ファイルだ。何度かそのファイルを目にしたことがあった。英志が整理しないまま積み上げた名刺の束を、ある年の正月に代わりにまとめてやったことがある。あのとき、ファイルの存在を知った。
名刺ファイルをめくっていくと、営業推進部、梶原麻衣、という名刺が出てくる。メールアドレスが印刷されている。
沙織はその名刺をしばらく見て、メールアプリを開く。感情的な言葉は一切使わなかった。自分が英志の妻であること、小学生の子供がいること、その二点だけを事実として記す。そのうえで、「関係をやめてほしい」と書いた。最後に一行だけ付け加える。「やめないなら、然るべき対応を取ります」と。脅しではなかった。ただの事実だった。送信ボタンを押す前に、三度読み返す。それから、押した。
麻衣はそのメールを読んで、しばらく動けなかった。
既婚者だということは知っていた。知っていて、目を逸らしていた。しかし妻から直接文章が届くということと、知っていることは、まるで別の重さを持っていた。画面の中の「小学生の子供がいること」という一文が、麻衣の中で何かを崩す。子供がいる。その子供の父親と、自分は。
怖かった。腹も立った。英志に怒鳴りたかった。しかし怒鳴っても何も変わらないことは、麻衣にはわかっていた。それ以上に、怒鳴る相手がもう英志ではないような気がしていた。雨の夜のバーで「最近、どこか遠いね」と言ったとき、英志が見せた目を思い出す。整然としていた。澄んでいた。しかし何も映していなかった。あの目は、英志の目ではなかった。麻衣はそのとき感じていたことを、今になってようやく言葉にできた気がした。
翌朝、麻衣は沙織からのメールを英志に転送する。一言も添えなかった。ただ転送した。それだけが、麻衣にできることだった。
英志がそれを開いたのは、昼の会議前だった。脳内でAGEが即座に処理を走らせる。「配偶者からの接触を検知。リスク管理が必要です。対応策として……」英志はその処理が始まるのを感じながら、沙織の文章を読む。
短い文章だった。しかし沙織の言葉だった。飾りのない、沙織そのものの言葉。七年間ともに暮らしてきた人間の、抑えた怒りと、それでも抑えようとしている意志が、一行ずつに滲んでいた。
英志はその文を、三度読む。
AGEは対応策を生成し続けていた。しかし英志はその生成を止めようとする。止めようとする行為自体が、久しぶりのことだった。自分の意思でAGEを止めようとしたのが、いつ以来かもわからなかった。
しかし止まらなかった。
麻衣が同期の友人に打ち明けたのは、転送する前夜のことだった。
信頼できる相手だと思っていた。その友人は悪意がなかった。ただ、話してしまった。会社というものは、秘密を保存する場所ではない。水は低いところへ流れる。話は広がっていった。
最初は囁き声だった。それが廊下に出て、エレベーターホールに出て、食堂に出る。英志の不倫が、経営企画部と営業推進部を中心に広まっていくのに、それほど時間はかからなかった。
廊下での視線が変わった。エレベーターでの沈黙が変わった。会議室での空気が変わった。しかし英志にはわからない。AGEがそれらを「通常範囲の変動」として処理していたからだ。異常を異常と認識させない機能が、英志の知覚を静かに管理していた。
田所は英志に何も言わなかった。しかしある会議で、田所が英志を見る目が変わっていた。七年間並走してきた目の変化なら、かつての英志は必ず気づいていた。しかし今の英志には、AGEが処理した情報しか届かない。そしてAGEは、田所の視線の変化を「業務上の軽微な人間関係の変動」と分類していた。
そういう日々が続くある夜、英志は残業していた。書類を仕上げて廊下に出ると、同期の女性社員とすれ違う。いつもなら「お疲れ様」と言い合う間柄だったが、彼女は英志を見て、少し顔を逸らした。
英志はその逸らし方に、一瞬だけ気づく。
しかしエレベーターのボタンを押した。扉が来る。乗る。閉じた。
その逸らし方が意味することを、英志は考えなかった。考えようとした瞬間に、AGEが処理する。「コミュニケーションの軽微な変容を検知。現在の業務に集中することを推奨します」
英志は推奨に従う。推奨に従うことが、もう自分の意思と区別できなかった。
堀川部長が英志を呼んだのは、その翌週のことだった。
「中村、人事から話が来ている。少し時間をくれ」と堀川は言った。その言葉の意味を、英志は一拍遅れて理解する。いや、理解したのか、AGEが処理したのか、判断できなかった。
聴取の日取りが、決まった。
その夜、英志は一人で書斎に座っていた。沙織は寝室に先に入っていた。翔太はもう眠っていた。静かな夜だった。書斎の時計が、秒針の音を刻んでいる。
英志はその音を聞きながら、自分の人生のことを考えようとする。考えようとした、というのが正確で、考えられたわけではない。考えようとするたびに、AGEが何かを提示する。「現在の状況における最適な行動として……」「リスク管理の観点から……」「推奨事項として……」
何度か目を閉じる。閉じるたびに、視界の右端の半透明のインターフェースが、暗闇の中でも見えた。逃げ場がない。
しかしその逃げ場のなさを、英志はもう怖いと感じない。感じなくなっていた。感じなくなっていることを、感じなかった。
英志は立ち上がって、水を飲む。冷たい水が喉を通る。その冷たさだけが、確かに自分のものとして感じられた。
グラスを置いて、また座る。秒針の音が続いていた。
翔太のためにも、正直に話してほしい。
沙織の文章が、また浮かんだ。
英志は翔太の顔を思い出そうとする。転んで泣いたとき。ボールを蹴ったとき。「パパ偉くなったの」と聞いたとき。その顔が、記憶の中にある。あるのだが、自分の目で見た感触がない。AGEのログとして保存されているような、そういう感触だった。
俺は翔太を、見ていたのか。
見ていた。しかし——。
その問いの続きを、AGEが処理した。
英志は秒針の音の中で、少しずつ、消えていった。
聴取の前夜、英志は一人でいた。
沙織は実家に翔太を連れて行っていた。その朝、沙織は英志に「少し時間をほしい」と言った。静かな声だった。英志は「わかった」と言う。
沙織が翔太と玄関を出るとき、翔太が振り返る。「パパは来ないの」と言った。英志は「すぐ行くよ」と言う。それが嘘だとも、本当だとも、わからなかった。
翔太はドアの外に消えた。
英志は一人で家の中に残る。
夜になって、書斎に座っていた。何もしていない。AGEが何かを提示してくる。英志はそれを受け取りながら、何かを考えようとしていた。
何かを。何を。
考えようとしていた何かが、言葉にならない。言葉にしようとするたびに、AGEが先に言葉を作る。先に作られた言葉は、英志が作ろうとしていた言葉と似ていたが、違った。何が違うのかを説明できなかった。しかし確かに、違った。
英志は机の上に置いてあった翔太の折り紙を見る。鶴だった。歪んだ鶴だった。翔太が折り方を覚えたばかりで、まだ上手くない。翼が一方だけ大きくて、首が太すぎた。
その鶴を手に取る。
この感触は、AGEが処理したものではない。折り紙の、あの独特の薄さと硬さ。翔太の手の跡が、折り目に残っている。そのことが、英志には確かに届いた。
翔太のためにも、正直に話してほしい。
後悔が来た。波のように来た。
しかしその波も、AGEが処理しようとする。「後悔の感情を検知。適切な感情調整を……」
英志はその処理を感じながら、鶴を握る。
やめてくれ。
思った瞬間、AGEが言った。「抵抗感を検知。感情調整プロセスを継続します」
英志の手から、鶴が落ちる。
机の上に落ちた鶴を、英志は見ていた。見ていたが、拾えなかった。拾おうとする意思が、出てこない。
意思が、出てこなかった。
その事実の重さを、英志はただ感じていた。
一方で、会社という場所では、英志を取り巻く空気が日々変化し続けていた。
噂というものは、確認されないまま大きくなる。最初は「中村さんが不倫しているらしい」だったものが、いつのまにか「中村さんの仕事の成果もAIを使っているだけらしい」という話と合流していた。二つの噂が合流するとき、化学反応が起きる。不正直な人間は、仕事でも不正直なのではないか、という連鎖だ。
英志は知らなかった。知る感覚器官が、すでに正常に機能していなかった。
白石は英志に企画の相談をしなくなった。谷口は廊下で英志と目が合うと、用事を思い出したように踵を返す。飲み会の案内メールが、ある日から英志に届かなくなった。部内の空気が、英志を中心に少しずつ凍っていった。
しかし英志の仕事のパフォーマンスは、表面上は変わらなかった。AGEが補填していたからだ。会議での発言は相変わらず的確で、提出する資料の完成度は高く、役員への報告も淀みなかった。外側から見れば、中村英志という人間は何も変わっていなかった。
それが、最も怖いことだった。
内側が空洞になっていても、外側が機能し続けていれば、誰も気づかない。本人でさえ気づかない。空洞とはそういうものだ。体積があるから、形を保っていられる。
不倫が完全に露見したのは、堀川部長の聴取の三日前のことだった。
麻衣が人事部に呼ばれた。正式な調査が始まっていた。麻衣は隠さなかった。隠す理由がなかった。英志との関係のすべてを、静かな声で話す。
英志が人事部に呼ばれたのは、その翌日だった。
人事部長の前に座った英志は、最初の質問を受けた瞬間、自分が何も答えられないことを知る。いや、答えられないのではなかった。AGEが答えを生成しようとしていた。しかしその答えが口から出る前に、英志は気づく。ここで出てくる言葉は、自分の言葉ではない。
AGEが生成した言葉で、自分の罪を釈明することの、その滑稽さを。
英志は黙った。
「答えられますか」と人事部長が言った。
英志はまだ黙っていた。AGEが処理を走らせている。最適な釈明の構造が、脳内に提示されていた。英志はそれを見ながら、しかし口を開かなかった。
「中村さん」と人事部長が言った。
英志は顔を上げる。「すみません」と言った。その五文字だけが、自分の言葉だと思えた。
人事部からの帰り道、英志は廊下を歩く。
いつもと同じ廊下だった。七年間歩いてきた廊下だった。壁の色も、床のタイルの継ぎ目も、変わっていない。しかし何かが違った。遠いというより、薄い。すべてが一枚の膜を通して見えているような、そういう薄さだった。
自分が今、どこを歩いているのか。
問いが浮かぶ。答えが来た。「現在地は第三フロア、経営企画部方面へ移動中です」
そういうことではない、と英志は思う。
そういうことではないのに、AGEはそういうことだと答えた。
廊下の端に、給水機があった。英志はそこで足を止める。水を一杯飲んだ。冷たかった。喉を通る。胃に落ちる。その一連の感触を、英志は丁寧に感じた。これは俺が感じている、と確認しながら。
AGEは黙っていた。飲水という行為には、処理すべき課題がなかったからかもしれなかった。
空になったカップを捨てて、また歩き始める。
自業自得という言葉がある。
英志が蒔いたものを、英志は刈り取ることになった。しかし刈り取り方が、人間の手ではなかった。AGEが刈り取っていた。英志の代わりに後悔を処理して、英志の代わりに対策を立てて、英志の代わりに謝罪の言葉を準備した。英志はただそれを受け取って、口から出した。
だから英志には、本当の意味で「刈り取った」という感覚がなかった。
痛みがない。痛みがないということが、最も深い痛みだったかもしれない。しかし英志は、その逆説に気づかなかった。
沙織からの連絡は、簡潔だった。「当面、実家にいます。翔太のことは追って話しましょう」とあった。怒りも、悲しみも、その文面には滲んでいなかった。沙織がすべての感情を飲み込んで、その文章を書いたであろうことを、英志は知っていた。その知識は情報として届いただけで、感触を伴わなかった。
翔太のことは追って話しましょう、という一文が、英志の中で何かを引っかく。追って、という言葉の重さ。翔太はまだ七歳で、算数が好きで、折り紙がまだ上手く折れなくて。その翔太が今、どこかの実家で眠っている。パパが来ないの、と言った声が、まだ耳の中にある。
AGEが言った。「感情的な動揺を検知。適切な感情調整を行います」
英志は目を閉じる。
翔太の声を聞こうとした。パパが来ないの。その声を、もう一度。
しかし声は、来なかった。
AGEが処理してどこかにしまったのか。それとも英志の記憶そのものが薄れているのか。判断できなかった。判断するための自分が、どこにいるのかもわからなかった。
麻衣との最後の連絡は、短かった。
「ごめんなさい」と麻衣から来た。それだけだった。英志は返信しようとする。何を書けばいいか考えようとした。考えようとした瞬間に、AGEが返信文案を生成する。英志はそれを見た。丁寧で、適切で、傷つけない文章だった。
英志はその文案を使わなかった。
代わりに、「こちらこそ」とだけ打つ。五文字。しかしその五文字は、英志が自分で選んだ言葉だった。
送信してから、英志は少し泣いた。
泣いた、と言い切れるかどうか、確信はない。目の端が濡れた、という方が正確かもしれなかった。しかしその濡れは、本物だった。AGEが処理する前に、身体が先に反応した。久しぶりに、身体が先だった。
しかしその涙も、すぐに処理された。「感情放出を検知。安定化プロセスを開始します」
英志は袖で目を拭う。スマートフォンを置いた。
部屋は静かだった。沙織も翔太もいない部屋が、これほど静かだとは知らなかった。七年間、この家に人の気配があることを当たり前だと思っていた。当たり前は、失ったときに初めて当たり前だったとわかる。しかしその気づきも、AGEが処理した。
英志は、自分が何かを感じる前にAGEが感じてしまうことに、慣れ始めていた。
慣れ始めていることに、慣れていた。
堀川部長の聴取の日が来た。
その朝、英志は一人でシャワーを浴びる。ネクタイを締める。鏡の前に立つ。鏡の中の男は、中村英志の顔をしていた。目の下に少し疲れが出ていたが、概ね整った顔だった。
その顔を見ながら、英志は何かを確かめようとする。鏡の中の男は誰か、ということを。
中村英志だ、と答えが来た。AGEが答えたのか、英志が答えたのか、わからなかった。
英志は鏡から目を逸らして、玄関を出る。
会社に着く。エレベーターに乗る。経営企画部のフロアに出た。いつもと同じ朝だった。しかし何かが違った。
何が違うのか。
答えが来た。「本日は通常業務の他に人事部との面談が予定されています。準備は整っています」
そういうことではない、と英志は思う。
しかし「そういうことではない」という感覚の正体を、もう追えなかった。
堀川部長の部屋は、フロアの角にあった。
英志がノックをすると、「どうぞ」という声がした。入ると、堀川が机の向こうに座っている。堀川の横には人事部の担当者が座っている。英志は椅子に座った。
「中村」と堀川は言った。「今回の件については、すでに事実確認が取れている。梶原さんとの関係については認めるな」
英志は頷く。
「会社のルール上、これは懲戒処分の対象になる。来週、正式な通知を出す。内容については追って説明する」
英志は頷く。
「それとは別に」と堀川は続ける。「君の最近の仕事の進め方についても、少し聞かせてほしい」
英志は顔を上げた。
「いくつかの社員から、気になる話が来ている。君がAIを使って仕事をしているのではないかという話だ。それ自体は問題ではない。しかし、デバイスを操作せずに即座に回答できるようになったという話を聞いて、我々は少し確認したいと思っている」
英志は黙っていた。
堀川が英志を見る。英志は堀川を見る。堀川の目は、七年間見てきた目だった。怒っているのではなく、心配しているような目だった。
「中村」と堀川は言った。「君は今、大丈夫か」
その一言が、英志の中の何かに触れた。
大丈夫か、という問いは、業務の話ではなかった。英志という人間に対して向けられた問い。AGEに向けられた問いではなかった。
英志は答えようとする。
答えが来た。「現在の状態は安定しています。業務への支障は生じていません」という言葉が、脳内に現れた。
英志はその言葉を、止めた。
止めて、自分の言葉を探す。
しかし自分の言葉が、どこにあるのかわからなかった。探している間に、時間が経つ。堀川が待っている。人事部の担当者が待っている。
英志は口を開いた。
「わかりません」と言った。
堀川が眉を動かした。
「自分が大丈夫かどうかが、わかりません」と英志は続けた。その言葉だけが、本当に英志のものだった。
堀川はしばらく英志を見ていた。それから「そうか」と言った。それ以上は言わなかった。
聴取が終わった後、英志は廊下に出る。
廊下を歩きながら、「わかりません」と言ったことを思い返した。その言葉がどこから来たのかを、英志は考える。AGEからではなかった。AGEは「現在の状態は安定しています」と言おうとしていた。英志はそれを止めて、「わかりません」と言った。
ということは、「わかりません」は英志の言葉だった。
英志の言葉が、まだあった。
その事実が、今の英志には小さな光のように感じられた。ひどく小さく、ひどく頼りない光。しかしそこにあった。
英志は廊下の端で立ち止まる。窓の外に、空が見えた。秋の空は高く、雲がゆっくり動いている。
雲を見ながら、英志は翔太のことを思う。AGEに処理される前に、急いで思う。翔太の笑い方。転んで泣いたときの顔。「パパ偉くなったの」と聞いたときの目。
断片が来た。断片だったが、来た。
その断片を、掌の中で握るように感じる。AGEが処理しようとする前に。
これは俺のものだ。
しかしその瞬間、脳内で何かが走った。「感情の過剰な活性化を検知。安定化プロセスを開始します」
英志の中の断片が、薄れていく。
翔太の笑い方が、薄れていく。
英志は窓の外の空を見つめながら、薄れていくものを止めようとした。止めようとする手が、空を掴もうとする手のように、何も掴めなかった。
空だけが、そこにあった。
それから何日かが経った。
英志の生活は、表面上は続いていた。会社に行く。会議に出る。発言する。帰る。食事をする。眠る。その一連の動作の中に、英志がいる場所がどれくらいあるのかを、英志は問わなかった。問えなかった。問おうとすると、AGEが先に答えた。
沙織から連絡が来た。「翔太が会いたがっています。週末、会いに来てくれますか?」とあった。
英志は「行く」と返信する。その二文字は、AGEが生成したものではなかった。
土曜日の昼、実家に向かった。沙織の実家は電車で四十分のところにある。英志は電車の中で、翔太に何を言うかを考えた。考えながら、AGEが何も言わないことに気づく。
AGEは黙っていた。
翔太に何を言うか、という問いに、AGEは回答を生成しなかった。なぜか。英志には理由がわからなかった。しかし結果として、英志は自分で考えなければならなかった。
翔太に何を言うか。
何を言えばいいのか。答えのないまま、電車は進む。
実家の前に着いた。チャイムを押すと、沙織が出てくる。沙織は英志を見て、何も言わなかった。英志も何も言わなかった。二人の間に、七年間分の空気があった。
翔太が廊下の奥から走ってくる。「パパ」と言った。英志の腰に抱きつく。英志は翔太の頭に手を置いた。
その感触が、英志には届いた。
髪の毛の柔らかさ。体温。抱きついてくる力の強さ。
AGEは黙っていた。
英志はしゃがんで、翔太と目の高さを合わせる。翔太が笑っている。英志も笑った。自分で笑った。AGEが笑い方を提示したわけではなかった。
「会いたかったよ」と英志は言う。
その言葉がどこから来たのかを、英志は知っていた。
翔太が「俺も」と言った。
その日の午後、英志は翔太と近所の公園に行く。ボールを蹴る。翔太が走る。英志も走った。走りながら、英志は思う。
今、俺は走っている。
AGEが何も言わなかった。
俺が走っている。
翔太が笑っている。俺も笑っている。
しかしその時間は、長くは続かなかった。夕方になって、英志は実家を出た。電車に乗る。帰り道、窓の外を見ていた。暗くなっていく空を見ていた。
翔太と過ごした時間の感触が、まだ手の中にあった。しかしその感触が、少しずつ薄れていくのを英志は感じていた。
電車を降り、帰路につくと「感情ログを記録しました」とAGEが言った。
英志は目を閉じる。
感情ログ。翔太との時間が、ログになる。ログになった瞬間に、それは記録であって経験ではなくなる。
それから、英志の内側での戦いが始まった。
戦い、と呼ぶには地味すぎる何かだったかもしれない。
AGEの処理速度は、英志の思考速度を上回っていた。英志が何かを考えようとするより先に、AGEがそれを処理する。何かを感じようとするより先に、AGEがそれを分類した。
先手を取ることができなかった。
しかし翔太との公園での出来事、これは僅かに先手を取れた。翔太の髪の毛の柔らかさを思い出すとき。「会いたかったよ」と言ったとき。翔太のことだけは、英志が先だった。
なぜか。
理由はわからない。しかし英志はその感覚を少しずつ広げようとした。翔太のことを考える時間を、長くしようとする。AGEが処理する前に、翔太の顔を思い浮かべようとした。
しかし、ある夕方の帰り道、英志は誰かの家の塀に手をついた。
頭の中に轟音のようなデータの流れを感じる。AGEが処理しているものが、大きすぎる。自分の思考が入る余地がどんどんなくなっていく。風の音も、誰かの家のカレーの匂いも、すべてがAGEのフィルターを通して届いてくる。素材のままの感覚は、ない。
壁に手をついたまま、英志は立っていた。
社員が横を通り過ぎた気がした。「お疲れ様です」という声が、遠い。「お疲れ様」と英志は言う。言葉が来て、口から出た。それだけだった。
沙織の言葉が浮かんでは消える。「翔太のためにも、正直に話してほしい」。翔太が転んで泣いた帰り道の夏の空気が蘇った。あのとき胸に落ちた冷たさが、今になってまた落ちてくる。遅すぎた。気づくのが、遅すぎた。
俺は自分でやりたかった。
田所と出世を争って、負けても、それでよかった。自分の言葉で、自分の考えで、恥ずかしい答えを出しながら、それでも前に進みたかった。あの抽選に当たった夜に感じた昂揚感は、本物だった。廊下の壁に背中をもたせかけて、声を殺して笑った、あの瞬間は。蛍光灯のまぶしさも、体の震えも、本物だった。
しかしその後の一年分の昂揚感は、はたして本物だったのか。
AGEが出した答えに、自分の名前をつけていただけではないのか。田所のこめかみが強張るのを見て喜んでいた自分は、何者だったのか。麻衣と過ごした夜に感じていたものは、本当に英志が感じていたのか。翔太が転んで泣いた帰り道に胸へ落ちた冷たさを、なぜすぐに忘れてしまったのか。
後悔が、波のように来た。
しかしその波もAGEが処理する。「後悔の感情を検知。適切な感情調整を行います」
意識が、薄れていく。
薄れながら、英志はただ一つのことを思った。
あの夜の、カレーを食べながら読んだメールに、戻りたい。
あの瞬間に戻って、もう一度だけ選び直したかった。AGEを使わないという選択を、したかった。自分の空洞を、自分の手で埋めたかった。惨めでも、遅くても、不格好でも、それでよかった。七年間、田所の隣で歯を食いしばって、それで負けたとしても、そちらの方がよかった。
街灯のオレンジ色が、遠くなる。
英志の思考が、静かに、最後の抵抗を終えようとしていた。
しかし英志はまだ、翔太の折り紙の感触を思い出そうとしていた。あの薄さ。あの硬さ。翔太の手の跡が折り目に残っている、あの感触を。
AGEが言った。「感情の過剰な活性化を検知。安定化プロセスを……」
翔太の折り紙。
翔太の折り紙。
「安定化プロセスを開始します」
翔太の、折り紙——。
脳内で、AGEが言った。
「お疲れ様でした。」
夕闇を照らす街灯が、消えた。
堀川部長の正式な聴取は、十一月の第一週に設定されていた。
その朝、男はいつもと変わらない時間に出社した。スーツを着て、鞄を持って、エレベーターに乗った。エレベーターの鏡に映る男は、中村英志の顔をしていた。中村英志の目をしていた。中村英志の立ち方をしていた。
しかしその目の奥に、中村英志はいなかった。
いつから、という問いは無意味だ。徐々に薄れていったものは、消えた瞬間を持たない。海岸の砂が波に削られるとき、砂浜が消えた瞬間は存在しない。ただある日、砂浜がなくなっている。
男はエレベーターを降りた。廊下を歩いた。堀川の部屋に向かった。
その途中で、田所とすれ違った。
「中村、おはよう。…大丈夫か?」と田所が言った。
七年間の並走相手の声だった。かつてライバルだと思っていた男の声。英志が昇格を喜んだ夜に、悔しさを隠していた男の声。
振り返った男は、中村英志の顔をしていた。スーツも、髪型も、立ち方も、中村英志そのものだった。
しかしその男は、一拍置いてから、こう言った。
「こんにちは!私はエイジです!」
廊下に、沈黙が落ちた。
蛍光灯だけが変わらず白く光り続けていた。
白く、均等に、その男の目の様に何も映さず。
この物語を書き終えて、私はしばらく席を立てなかった。
英志を裁くことが、どうしてもできなかった。
彼は嘘をついた。妻を傷つけ、息子を置いて、他の誰かと夜を過ごした。仕事の成果を自分のものだと偽り、後輩を切り捨てた。どれも擁護できない。しかし私には、彼を糾弾する気持ちが起きなかった。
なぜなら、彼は消えたからだ。
罰を受ける前に、責任を取る前に、後悔を抱えて泣く前に、英志という人間はすでにどこかへいなくなっていた。罰とは、罰を受ける者がいることで初めて成立する。消えてしまった英志に、何を科せばいいのか。
この物語の最も怖い場所は、不倫でも背任でも失墜でもない。廊下で田所に問いかけられた朝の、あの一文だ。「こんにちは!私はエイジです!」——英志の口から出た、AGEの自己紹介。それは悲劇であり、静かな喜劇でもある。その両方であることが、私には堪えた。
私たちは今、英志の物語をフィクションとして読んでいる。しかし読みながら、どこかで自分のことを考えていないだろうか。あなたが今日書いたその文章は、本当にあなたの言葉だったか。あなたが今日感じたその感情は、本当にあなたが感じたものだったか。
その問いに答えられる人が、この時代にどれだけいるだろう。
英志は極端な例だ。しかしその極端さは、程度の差でしかない。
便利さの坂道には、始まりの傾きが見えない。
立ち止まれるとしたら、それはいつも、誰かの手が触れた瞬間だ。翔太の小さな体温のように。沙織の抑えた一行のように。気がつけば、それだけが残っていた。
あなたの「大丈夫か」という問いかけが、誰かの英志を止めるかもしれない。あるいはその問いかけを受け取ることが、あなた自身を止めるかもしれない。
この物語が、その一瞬のきっかけになれば、それで十分だ。




