3度目の加熱 キスをすることになりました
家に帰る途中、スーパーに寄った。コンビニ以外の場所に立ち寄るのは久しぶりだった。
私はジャガイモを洗って皮をむき、にんにくを薄くスライスした。そしてIHヒーターのスイッチを入れた。
(おかえり)
「ただいま」
(うれしそうだな)
「わかるの?」
(感情の波調が伝わってくる)
「料理をするんだよ」
(ほう)
「あんたの本領発揮だ」
(そういえば長いこと湯沸かししかしていなかったな。何を作るんだ?)
「ジャガイモのニンニク炒め」
(何?それはまさか!)
「そう。フランス料理シェフのタロウが、美食家のシロウにあえてシンプルな料理を食わせる場面の再現だ」
(あれはうまそうだった。石のような体のぼくでさえ、よだれが出そうだった)
私はフライパンにオリーブオイルを入れて熱し、油に香りが移るまでにんにくスライスを炒めた。そして厚切りのジャガイモを表面がカリカリになるまで炒め、塩で味付けをした。ビールを飲みながら食った。
(どうだ)
「うまい。最高だ」
(そうか。それを聞けてぼくもうれしい)とIHヒーターは言った。
「お前もいい仕事をしたな」
(ああ。ぼくは今まで元の世界に戻ることしか考えてこなかったが、調理器具として一生を終えるのも悪くないのかもしれない)
「魔王討伐するんじゃなかったっけ」
(できることならそうしたい。しかしその道が開けないのであれば、別の選択肢も考慮すべきだろう)
「加熱状態でのキスか……」
(方法がないのだろ?あ、でも交換はやめてくれ。あの小説を読み終えるまでは死ぬわけにはいかん!)
「すっかりハマったな」
(ああ、王家に生まれ、義務を果たすばかりの日々だった。それがイヤだったわけではないが、こんなに楽しいことがあるなら、もっと早く知りたかった)
「楽しいよな、BL小説」
私はまた朗読した。IHヒーターは、今日もよき聞き手だった。
翌日の昼休み、支店内の休憩室で私は高校時代の同級生、平田拓海にLINEした。
「おす」
「おす」
「加熱中のIHヒーターにキスする方法ない?」
「なんじゃそりゃ」
「素材屋でしょ。知恵を貸して」
「何に使う」
「人助け」
「人殺しの間違いではなく?」
「人殺しの間違いではなく」
「忘年会の余興とか?」
「そんな感じ」
「超断熱材でマスクを作ればいい」
「何それ」
「400度までの熱を完全に断熱する。でも0.1ミリの厚さだから、キスの感触は残る」
「コ〇ドームかよ。いくら」
「40万円」
「ぶ!」
「でも被検体に登録してくれたらタダでいい。この前おごってもらったし」
「被検体に登録?」
「ありていにいえば人体実験」
「ショッカーみたいだな」
「人類の発展のための犠牲だ」
「人類の発展か。ならしかたがない。被検体でいい」
「使用後、感想を教えてほしい。受け渡しは?」
「着払いの宅急便で自宅に。土日指定、置き配不可」
「わかった」
「手間をかけてすまん」
「気にするな。また飲みに行こう」
「りょ」
持つべき者はよき友人だ。私には一人しかいないが。
そう考えて。
IHヒーターは、私にとって何なのだろうと思った。ただの同居人?友人?そして一人エッチをしてイった時に王子様の顔が浮かんできたことを思い出し、下半身が熱くなった。いかん、信用金庫の休憩室で私は何を考えているのだ。
私はトイレで化粧を直し、自席に戻った。戻ると伝票がぐちゃっと山積みになっていた。営業職の連中め。呪われればいい。伝票を見て、私を振った先輩のことを思い出した。新婚旅行中で休暇を取っていて不在だった。私は彼のことをすっかり忘れていた。一時期は、その先輩だけが、職場に来るための理由だったのに。
なぜだろう。
答えは明白だ。
彼が去った後の心の隙間を埋めたのは、IHヒーターだった。
答えは明白だったが、そのことに気づいて、私はそれを否定したくなった。もう、IHヒーターとあまり仲良くするのはやめようと思った。しかしその日も帰宅すると、帰宅途中に寄ったスーパーで買った食材を調理しながらIHヒーターとおしゃべりし、BL小説を朗読して一日を終えたのだった。
こんな毎日を送っていたら、私の料理のレパートリーはどんどん広がった。BL小説『フランス料理シェフの俺が、高貴な生まれのあいつを奴隷にするまで』に出てくる料理を再現するため、動画サイトで料理動画を見るようになった。今まで何を食べても同じような味しかしなかったのに、急に世界が色づいたみたいに、いろいろな味の違いがわかるようになってきた。
そしてIHヒーターと過ごす時間が、私の中で何より大切なものになっていった。
信用金庫の食堂で後輩の陽菜ちゃんといっしょになった時、「優佳さん、最近きらきらしてますね」と言われた。
「何それ」
「肌の色つやもいいし」
「肌の色つやがいいのは陽菜ちゃんじゃん」
「優佳さん、きれいになりましたよね」
「うそ」
「営業職の人たちも言ってましたよ」
「まじか」
「何かあったんですか」
「何かっつっても」
「男ですか」
「そんなのいるわけ……」と言いかけて、IHヒーターのことが思い浮かんだ。
「あ、やっぱり」
「ちがうよ」
「くわしく教えてください」
「いや、ちがうんだって」
昼休憩の終わりを告げるベルが鳴った。助かった、とばかりに
「ほら、戻るよ」と陽菜ちゃんを急かし、自席に戻った。
土曜日、鶏もも肉のコンフィに挑戦した。コンフィは低温の油で煮る調理法だ。知ってた?私は知らなかった。『フランス料理シェフの俺が、高貴な生まれのあいつを奴隷にするまで』で見せ場に登場する料理だ。そんな手の込んだ料理を作れるようになるとは思っていなかったが、やってみたらできてしまった。IHヒーターが温度調整を完璧にしてくれたおかげだ。
「うめぇ!」
私は赤ワインを飲みながらコンフィを食べた。表面はカリッと香ばしく、中は驚くほどジューシーで柔らかい仕上がりになっていた。ナイフとフォークで簡単に身がほぐれた。
「あんたにも食べさせてやりたいよ」
(ぼくに肉体があればよかったけど、君の喜ぶ声が聞けただけで満足だ)
「こっちの世界で人間になる方法はないの?」
(それはわからない。マニュアルにも載っていなかった)
「調べることは調べたんだ」
(ぼくはもっとこの世界のことを知りたくなった。君のおかげだ、優佳)
「下の名前で呼ぶなよ。なれなれしい奴だな。ま、呼びたければそう呼ばしてやるよ」
(ありがとう、優佳。ぼくのことはブリムと呼んでくれ)
「あんたなんか、IHヒーターで十分だ」
(そうだな。ぼくは調理器具として優佳の役に立てればそれだけでしあわせだ)
「ふん。もの好きなやつめ」
日曜日、宅急便が届いた。平田拓海からだった。箱を開けて見ると、「悪用不可」という手書きのメモとともに、ゼラチンみたいな材質の薄いマスクが入っていた。付けてみると、薄くてマスクごしでも、指の関節のごちごちした部分を感じられた。装着感がなかった。コン〇ームかよ。
私はIHヒーターを見た。加熱状態で、IHヒーターにキスをすれば、IHヒーターは異世界に戻ることができる。でも、それをすると、IHヒーターがいなくなってしまう。そう思った途端、胸がきゅんと痛くなった。私はマスクを箱の中に戻した。
私は、IHヒーターとの日々を失いたくなかった。
料理をして、BL小説を読む日々は楽しかった。それが楽しかったのはIHヒーターがいっしょだったからだ。前みたいな、仕事をして疲れ果てて、何の気力も起きない日々に戻りたくなかった。
でも。
でも私は彼を元の世界に戻してあげなくちゃいけない。彼は、こんなところで一生を終えていい人ではない。彼には幸せになってほしい。だから、だから──
私はマスクを付け、IHヒーターの前に立った。そしてスイッチを入れた。指が震えていた。BL小説でそういう描写があった時、「実際は指なんか震えないよね」と思ったことがあったが、こういう時ほんとに震えるんだ、と思った。
しかし。
IHヒーターのLEDは点灯しなかった。
あれ。
私はスイッチをもう一度押した。
IHヒーターのLEDは点灯しなかった。
椅子の上に立ち、苦労して換気扇のカバーを外した。ブレーカーが見えた。前に停電があった時、大家さんにブレーカーのスイッチを入れ直してもらったから手順は知っていた。手を伸ばしてブレーカーの全部のスイッチを入れたり切ったりした。パジャマの袖に油まみれの埃がついた。
それでも。
IHヒーターのLEDは点灯しなかった。
え?
壊れちゃったの?
そう思った瞬間、涙がぶわっと浮かんできた。
最後にしゃべったのはいつだろう。昨日の夜?
ぼくは調理器具として優佳の役に立てればそれだけでしあわせだ。
IHヒーターはそう言ったのだった。
なんで急に?
そう思ったが、もともと、私がここに越してきた時点で、いつ壊れてもおかしくないような年代物のIHヒーターだったのだ。そして、壊れかけているのを私は知っていた。「加熱を始めます」と言おうとして「かね、かね」と言ってしまうくらいに。
知っていたはずなのに。
私は最近、IHヒーターを酷使していた。何度もスイッチを入れたり消したりした。
もし壊れたとしたら、そのせいだ。
急いでネットで修理業者を検索した。近所の電気店が家庭用調理器具の修理をやっていることがわかった。急いで電話した。電気屋さんはすぐに来てくれた。そしてドライバーを使ってIHヒーターをコンロから外し、分解して言った。
「これはもう寿命ですね」
「え……」
ドライバーで手に持った部品をこんこんと叩きながら、「ICチップが焼き切れています」と言った。それは、彼のだいじな、たぶん敏感な部分だから、ドライバーで叩いたりしないで、とは言えなかった。
「交換できないんですか?」
「パーツがないんですよ。だいぶ古い製品ですから」
電気屋さんはスマホで検索して、結果を見せてくれた。
「ほら、このパーツはメーカーでも製造中止して、在庫もないみたいです」
「そう、ですか……」
「どうします?新しいの付けますか?」
「……ちょっと考えさせてください」
「いいですよ。もう一回コンロに戻しますか」
「いえ、そのままで大丈夫です」
電気屋さんに出張料金を払った。電気屋さんは帰っていった。
私はIHヒーターを、実家から持ってきたブランケットでくるんで、私が持っている中で一番高級なブランドの紙袋に入れた。
コンロには大きな四角い空洞があった。
私は魂の抜けた人のようになって、ぺたりと床に座り込んだ。
料理をする気にもなれず、BL小説を読む気にもなれなかった。
私は床の上に寝転んだ。
「ばかやろう」
私は天井に向かって言った。
「急にいなくなるなよ」
自分のいったセリフを聞いて、私はとても悲しくなった。
「なんで何も言わずに死んじゃうんだよ」
BL小説の死別のシーンで登場人物が泣くと、「こんな場面では逆に涙なんか出ないんじゃないか」と思っていた。それなのに。
私は声をあげて泣いていた。わーん、わーん、と大粒の涙を流して。
床には紙袋に入ったIHヒーターがあり、コンロには四角い空洞があった。
もう戻らない。
そう思ったらまた涙が出てきた。
私はその日、涙が涸れるまで泣いた。
そして、付けっぱなしだったコンド〇ムみたいなマスクを外した。内側が鼻水でぐじゃぐじゃになっていた。洗面所で水洗いした。目の前に鏡があった。目が腫れて、頬にはマスクの紐の跡が付いていた。
鏡に写ったその女は、きらきらでもなければ、肌の色つやがよくもなければ、きれいでもなかった。そしてその女は私だった。
私は元のゾンビ女に戻っていた。いや、それ以下だった。
IHヒーターと暮らす日々を知ってしまった私は、それを失った今、あの頃よりもひどい状態だった。




