最初の加熱 IHヒーターと同居することになりました
IHヒーターのスイッチを入れ、加熱ボタンを押したら、IHヒーターが「かね、かね……」と言った。
「かねかねうるさいよ」と言いながら私はIHヒーターのスイッチを一度切った。「家にいる時くらい、金のことは忘れさせてくれよ」
スイッチを入れなおし、加熱ボタンを押すと、「加熱を始めます」とIHヒーターが言った。「今度はちゃんと言えたね。やればできるじゃないか」とIHヒーターに話しかけた。家電製品の調子が悪い時は、電源を入れなおすに限る。
お湯が沸いたので紅茶のティーバッグを入れたマグカップに注いだ。一口飲んで、紅茶が飲みたいわけでもなかったことに気づいた。半分だけ飲んで、残りはシンクに捨てた。
今日は土曜日だ。昼前まで寝ていた。それから溜まっていた服を洗濯し、部屋の片づけをした。それまでずっとパジャマだった。気づけばもう夕方だ。服を着替え、髪を整え、さっとメイクをした。今日は珍しく、夜の用事があった。これから友人と会うのだ。
愚痴を聞いてもらうためだ。
私は振られたばかりだった。相手は勤め先の信用金庫の先輩だ。初めて会った時、どんくさい男だと思った。彼は営業職だった。営業職の連中は、外回りから帰ってくると大量の伝票をカバンから出した。それを処理するのは私たち、事務職だ。他の営業職の伝票は不備だらけだったが、彼の伝票には不備がなかった。その点に好感が持てた。他の営業職の男たちは横柄だった。伝票を投げる奴もいた。そういう時は「呪われろ!」と心の中で毒づきつつ、笑顔で伝票を受け取った。前近代的な職場であることは就職前から聞いていたが、ここまでひどいというのは入るまでわからなかった。しかし彼は「いつも悪いね」と言って伝票をそっと渡す人だった。砂漠のように荒んだ職場で、彼と話すちょっとの時間がオアシスになっていった。ある日の夜、私は一人で残業していた。給料支払いが集中する日の前日で、処理しておかなければならない伝票がたくさんあった。彼が外回りから帰ってきた。伝票処理を手伝ってくれた。終わった時、「食事に行こうか」と言われ、初めていっしょに食事をした。それから時々、休日にも会うようになった。映画を見たり、ボーリングをしたりした。手をつないだこともなかったが、私は彼のことを恋人だと思っていた。いつ、ちゃんと告白してくれるのだろうと思っていた。ある日、職場の上司が「彼、今度結婚するんだってね」と言った。「彼?」私が恋人だと思っている彼のことだった。初耳だった。彼が結婚する相手は私の知らない人だった。私は裏切られたと思った。
そんな話を、都心のビルの地下にあるイタリアンレストランで友人に聞いてもらった。
「あー、どっかにいい人いないかな。身を焦がすような恋がしてみたいよ」と私は言った。
すると。
「あんた、疲れて誰かに寄りかかりたいだけでしょ?そんなの恋じゃなくて依存。誰かに依存して、仕事で削られた心を癒そうとしてるだけ」
と言い放ちやがった。
彼女は平田拓海といって、高校時代の同級生だ。理詰めで正論を言ってくる。恋バナとか恋愛の愚痴を聞いてもらう相手にはふさわしくなかったが、仕方がない。彼女以外にこんな話をできる相手が私にはいないのだ。
「優佳、あんたもう28だよね」
「そうだよ」
「自立して、これが自分の人生だ、と言えるような何かを見つけることがあんたには必要」
「平田にはあるのかよ」
「私には研究がある」と平田は言った。彼女は化学メーカーで繊維の開発をしている。
「ちくしょう」
「我々の前には、前菜の大皿がある。今は空になっている」
「ん?どうしたいきなり」
「全15種類、ホタテとインゲンのポワレ、バジルソースのかかったトマトとモッツアレラ、ガーリックオイルのかかったイモのフリットなどなど、どれもおいしかった」
「よく覚えてるな」
「お前、どれがおいしかった?」
「え?」
「覚えてないのか」
「う」
「心に余裕がない証拠だ」
平田は論破したようなドヤ顔をしていたが、理系の友人の正論に耳を貸す気はない。
「ふん」と言って、私はワイングラスに少し残っていた赤ワインを飲みほした。
その後、愚痴を言うような雰囲気でもなくなり、高校時代の級友たちのうわさ話をしたり、研究の自慢話を聞かされた。二人でワインを一本開けた。「お前が誘ったのだから」と平田が言って私は勘定まで払わされた。
得るものがないまま、私は家に帰った。でも、まあ、話ができて、ちょっとすっきりした。
寝る時間まで、もう少しある。ハーブティーを飲みながらネットフリ〇クスでも見よう。そう思ってヤカンに水を入れ、IHヒーターに載せた。スイッチを入れ、加熱ボタンを押すとIHヒーターが「かね、かね……」と言った。
「だーかーらー」と私はIHヒーターに言った。「金の話はするなって言ったろ?」
(すまない)
「すまないですんだら警察は……って、え?」
それは若い男の声だった。私は部屋の中を見回した。適当に片付けられて雑然とした、いつもの1Kの部屋だ。6年前から住んでいる賃貸物件だ。私以外には誰もいなかった。
「もしかして」私はIHヒーターを見た。加熱後の熱が残っていることを示すため、赤い光の円が点滅していた。「今、しゃべったの、あんた?」
(そうだ)
「……」
私はベッドに倒れ込んだ。飲みすぎだ。こんな幻聴が聞こえるなんて。
(幻聴ではない)私の思考を読んだように、その声が言った。
これはあれだ。病院に行かないといけないやつだ。働きすぎでとうとうメンタルをやられてしまった。精神科?心療内科?今は土曜の夜だ。明日も日曜だ。平日は残業だ。行く暇がない。行く暇があっても行きたくない。そんなことを考えていたら、
(幻聴ではない証拠を見せよう)
IHヒーターの加熱部分の赤いLEDが光を発し、人物像が投影された。それは西洋の童話に出てくる王子様のような格好をしていた。私はベッドから体を起こした。
(ぼくの前世の姿だ)と声が言った。(ぼくはブリム・ハイトという名前で、インナトイフ王国の第1王子だった)
「……」
ホログラムのような人物像がしゃべっているのを私は黙って聞いていた。
(ある任務の途中でぼくは死んだ。そしてぼくの魂はこの世界に飛ばされ、転生した)
「転生してIHヒーターになったってこと?」
(IHひーたーというのか、この身体は)と声が言った。(この身体になって30年経つが、話しかけてくれたのは君が初めてだ)
「30年?」そういえば、6年前に契約した時、このアパートは築24年だと不動産屋が言っていた。その時新品だったとすると、辻褄が合う。
(ひたすら加熱する毎日だった)
「そりゃ、IHヒーターだからね」
(こうしてまた話ができて、ぼくはとてもうれしく感じている。……がはっ!)
宙に浮かんでいた人物像が消えた。
「おい、どうした」
(力を使いすぎたようだ。しばらく休ませてもらう)
そして、IHヒーターの赤いLEDが静かに消えていった。ヤカンをかけっぱなしだったことを思い出して、私はベッドから出た。
IHヒーターのスイッチは切れていた。
私はIHヒーターをじっと見つめた。
これはきっと夢だ。夢に違いない。そう思ってベッドの上で両足を伸ばし、前屈をしてみた。
「痛ててて」
自慢ではないが、高校時代の身体測定の前屈のベスト記録はマイナス10センチだ。柔軟性には恵まれなかった。太腿の裏の筋肉がちゃんと痛かった。夢ではないらしい。
沈黙しているIHを見た。
私はこの部屋で、人格を宿しているものと6年間も暮らしていたのか。そう思うと気味が悪かった。自分の部屋が自分の部屋でなくなったような感じがした。布団に入ったが、なかなか寝付けなかった。しかし、いつの間にか眠っていた。
「おはよう」
翌朝、私はIHヒーターに声をかけた。
「……」
IHヒーターは返事をしなかった。スイッチを入れてみた。LEDが赤く光った。
(おはよう)とIHヒーターが言った。(昨日は話が途中になってしまって、すまなかった)
「あんた、いつも謝ってるね」
(そうだな、すまない)
「ほらまた。……ねえ、悪いんだけどさ」と私は言った。「この部屋から出ていってくれないかな」
(え?)
「あんた、男なんでしょ?あたしも一応、女子なわけだし、IHヒーターとは言え、男が部屋にいるのは居心地が悪いんだよ」
(そんな……)
「あれかな、業者に連絡して交換してもらえばいいのかな」
(そんなことをされたら死んでしまう!)
「知るかよ。IHヒーターの耐用年数って何年か知らんけど、30年も人様の役に立ってきたんだ。もう寿命だろ」
(ぼくはまだ何も成し遂げていない!)
「調理の役に立ってきたんだ。IHヒーターとして本望じゃないか」
(元の世界にやり残した仕事がある。ほんとうにあと一歩だったんだ。ぼくは戻らなくていけない)
「突然IHヒーターが現れたら、異世界の人もびっくりするだろうね。……てか、あんた戻る方法があるの?」
(ある)
「どうすれば戻れるの?」
(ぼくのことを愛してくれる女性が現れ、キスをしてくれたら戻れる)
「ふーん、ベタな設定だね」
(ぼくには君しか頼れる人がいない)
「何?あたしにキスしろって言ってんの?」
(お願いできないだろうか)
「やなこった。記念すべき初チューを、何で無機物に捧げなきゃいけないんだよ」
(それで魔王の手から世界が救われるのだ)
「救われるのだ、って言われてもね」
(頼む)
「あんたのこと、愛してないよ」
(フリだけでいいから)
「フリだけって。……それをしたら、あんたはこの部屋から出ていってくれるんだ」
(そういうことになる)
「ま、ちょっと舐めるくらいならしてやってもいいか」
(それでいい、助かる!)
私はネットでIHヒーターの掃除方法を調べた。キッチンペーパーに重曹水を染み込ませ、IHヒーターの表面をよく拭いた。
(おお、身を清めてくれるのか。……あ、そこはダメだ。敏感なところだ。もっとやさしく……あ……いい!)
「変な声出すなよ、無機物のくせに」
掃除を終え、私はIHヒーターの前に立った。
「じゃ、いくよ」
(お願いする)
「あたしはいったい何をしてるんだろうね」
そんなことを言いつつ、私はドキドキしていた。相手は無機物だ。それなのに、なぜ、こんなにも恥ずかしく、心拍が上がるのだろう。これはキスじゃない。よく掃除されたIHヒーターに口をつけるだけだ。意を決して、ゴム紐で髪の毛を後ろで縛った。そして、IHヒーターにキスをした。加熱部分のちょうど真ん中へんのあたりだ。そういえば、加熱ヒーターの加熱部分って、魔法陣に似てる。そんなことを思いつつ、何かが起きるのを待った。しかし。
何も起きなかった。
「おい」と私は言った。「何も起きないじゃないか」
(ふむ)とIHヒーターは言った。(「あなたが好きよ」と言ってからキスしてくれないか)
「は?」
(フリだけでいいのだ)
「ふざけんな」
(頼む)
「仕方ねえな。……あ、あなたが好きよ」
ちゅ。
しかし何も変化はなかった。
「おい、どうなってんだよ」
(ふむ。……異世界マニュアルを読んでみよう)
「そんなんがあんのかよ」
(転生時にもらったのだ。……どうやら、100パーセントの発火状態じゃないと、キスされても効果がないらしい)
「何?」
(すまなかった。ぼくの調査不足だ)
「調査不足じゃねえよ!あたしの初チューを返せ!」
(すまない。……ああ、力が)
そういって赤いLEDが消えた。
「ふざけるな」と私は言った。「どうやって加熱状態のIHヒーターにキスすんだよ。唇がタラコになっちまうじゃねえか!」
しかし返事はなかった。
「身を焦がすような恋がしたいって言ったのはあたしだ」
沈黙するIHヒーターに私は言った。
「でも唇を焦がしてどうすんだよ!」
私の言葉は1Kの部屋にむなしく響いた。
こうして私とIHヒーターの同居生活が始まったのだった。




