君のいない世界なら
その島には、空と海と、百人に満たない人々の暮らしがあった。
町でも村でもない、名前すら地図に載らないほどの孤島。
インターネットも携帯の電波も届かず、本土へ行く定期船も年に数度。
テレビのアンテナは錆びつき、手紙は月の便。
そんな場所にアオは生まれ、そして育った。
何も疑わずに、何も知らずに。
この島が「世界の全部」だと、ずっと思っていた。
アオには幼なじみがいた。ミユ。
家も隣で、物心つくころから一緒にいて、言葉より先に笑い合ってきた。
優しくて、少し泣き虫で、いつもまっすぐで、
アオのすべての日々に、彼女は自然といた。
「この島は狭いけど、悪くないよね」
「うん、悪くない」
星の下、肩を並べて、何度そんな話を交わしただろう。
外の世界の話なんて、二人とも本でしか知らなかった。
いや、知ろうともしなかった。
この島の“静かさ”の中で、十分だったのだ。
でも、あの日すべてが変わった。
嵐の翌朝。
浜辺に、男が打ち上げられていた。
びしょ濡れのその男は、本土からの船に乗っていたという。
名前はアサヒ。
船が事故で沈み、偶然にもこの島に漂着したのだという。
アオは彼を助け、村の人々と手当てをしながら、彼の話に耳を傾けた。
都会には空を飛ぶ機械があり、
ボタンひとつで遠くの人と話せて、
一日のうちに何百もの情報が行き交い、
光が眠らない街がある──。
初めは皆が信じなかった。
でもアサヒが持っていた“スマートフォン”の割れた画面の中で、
電源を入れると一瞬だけ浮かんだ都会の光景に、アオは息を呑んだ。
“知らないもの”があるということを、アオはそこで初めて知った。
それは世界の広さを知るというより、
自分がどれだけ“狭い場所”に閉じ込められていたかを突きつけられる体験だった。
夜、アオはひとりで星を見た。
あの星の下には、人がいて、街があって、世界が広がっている。
それを知ってしまった以上、
今までと同じ気持ちではもう、生きていけなかった。
アサヒは言った。
「帰る手段を探すよ。だけど、君も来るなら……一緒に行こう」
アオの胸は、言葉にならない衝動であふれていた。
怖い。けれど、抑えきれない。
島にずっといたら、きっと何も変わらない。
けれど、島を出れば──。
その夜、アオはミユにすべてを話した。
ミユは、最初こそ静かに聞いていたが、やがてポツリとつぶやいた。
「行くの?」
「……行ってみたい」
アオは素直に言った。
するとミユは目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「私もね、ずっと考えてたの。
この島から出れば、もっとたくさんの景色が見られるかもしれないって。
でも、アオがここにいるなら、別にそれでもいいって思ってたの。
……でも、それってずるいよね」
静かに、けれど確かに揺れる声だった。
「アオは行っていい。
だけど……お願い、一つだけ約束して。
“帰ってくる場所”を捨てないで」
その言葉は、アオの胸を締めつけた。
アサヒは、その数日後、島の西の浜から本土に向けて旅立った。
調査隊の小さな船が、偶然にも寄ってくれたのだ。
アオは、その船に乗らなかった。
アサヒに、ミユの話をした。
アサヒは少し笑って、「君ならまた、いつか外に出るよ」と言った。
「その時の景色は、きっと、今日よりもずっと遠くまで見えるはずだから」
アサヒが残していったボロボロのスマホは、もう起動しない。
けれど、そこに映っていた光景は、アオの中に焼きついている。
外の世界は、確かにあった。
風の向こう、海の果て、見たことのない空が、建物が、人が、そこにあった。
アオは今も、ミユと一緒に島で暮らしている。
ミユはときどき、浜辺で砂に絵を描いている。
その横で、アオは手を動かして網を修理している。
でもときどき、アオは高台に登る。
風が強くなると、遠くを見る。
そして、こう思う。
いつかまた、あの向こうへ。
行ける時が来るなら、きっと、今度こそ──
けれど今はまだ、
この島の中で、目を閉じながら、
海の向こうにある世界を、静かに夢見ている。
ミユがいるこの場所で、
もう少しだけ、自分という人間を育ててからでも、きっと遅くはないと思うから。