最上階の啓示、蝕まれし記録
『虚言の塔』の最上階は、意外なほど静かで、簡素な部屋だった。壁一面が書架で埋め尽くされ、中央には古びた大きな机が一つ置かれているだけ。窓からは、嘘と欺瞞に満ちたアルカディア・イリュージョンの街並みが、まるでミニチュアのように見下ろせた。
「ここが、私の書斎であり、この塔の心臓部だ」大賢者は、どこか誇らしげに言った。「そして、お前さんが求める『鍵』への手がかりも、ここにある」
大賢者は、書架の一つから、黒い革で装丁された分厚い本を取り出した。その本は、他のどの本よりも古く、強烈な魔力を放っているように感じられた。
「これは『アルカディアの創世記』。この街がどのようにして生まれ、どのような『嘘』の法則で成り立っているかが記されている。そして、その中には、『忘れられた図書館』と、そこに眠る『記録』の真の価値についても書かれているはずだ」
黒崎渉は、緊張を隠せずにその本を受け取った。ページをめくると、そこには見たこともない古代文字で、びっしりと何かが書き込まれていた。
「……これは、俺には読めないな」
「だろうね」大賢者は愉快そうに笑った。「だが、心配はいらない。この本を読むための『翻訳鏡』がある。ただし、その鏡は、真実を求める強い意志を持つ者にしか、その力を貸してくれない」
大賢者が指差した先には、壁にかけられた小さな円形の鏡があった。黒崎が鏡の前に立つと、鏡面がぼんやりと光り始め、黒崎の持つ『創世記』の文字を、彼が理解できる言語へと変換して映し出し始めた。
ギルも固唾を飲んで、その様子を見守っている。
『創世記』に記されていた内容は、衝撃的なものだった。『忘れられた図書館』は、単なる書物の集積所ではなく、この宇宙に存在する全ての異世界の「根源的な物語のパターン」――いわば「アカシックレコード」のようなものが記録された場所だったのだ。そして、アルカディア・イリュージョンは、その図書館を守護し、その膨大な情報が暴走しないように「嘘」というフィルターで覆い隠すために創られた世界だった。
「……つまり、この街のペテン師たちは、無意識のうちに『図書館』の守り手だったというわけか」黒崎は呟いた。
「そういうことになるね」大賢者は頷いた。「そして、その『記録』を読むための『鍵』とは、物理的なものではなく、特定の『魂の波長』を持つ者のことだ。その波長を持つ者だけが、『図書館』の深層部にある最も重要な記録――世界の成り立ちや、終焉に関する予言――にアクセスできる」
「その『魂の波長』を持つ者とは、誰なんだ?」
「それは、私にも分からない。だが、『創世記』には、その者が現れる時、世界に大きな『歪み』が生じると記されている。そして、その『歪み』こそが、今、このアルカK……」
大賢者の言葉が、突如途切れた。彼の魂の輝きが、急激に揺らぎ始めたのだ。同時に、部屋全体が不気味な振動に包まれ、窓の外の景色がぐにゃりと歪んだ。
「……まずい! 『奴ら』が、この塔の結界を破ろうとしている!」大賢者の顔から血の気が引いた。「黒崎、お前が探している『鍵』となる魂……それは、おそらく、この『記録』そのものを狙う者たちにとっても、喉から手が出るほど欲しいものだ!」
「奴らとは、誰のことだ!?」黒崎は叫んだ。
「……分からん! だが、奴らは『図書館』の記録を喰らい、世界の理を書き換えようとしている! そのためには、『鍵』となる魂を手に入れ、記録を意のままに操る必要があるのだ!」
激しい揺れと共に、書架から本が何冊も落下し、壁に亀裂が走り始めた。塔が崩壊するのも時間の問題かもしれない。
「黒崎! とにかく、この『創世記』を持って逃げろ!」ギルが叫んだ。「こいつがあれば、あるいは……!」
「しかし、大賢者は!?」
「私のことは構うな!」大賢者は、苦しそうに息をしながらも、毅然とした態度で言った。「この塔は、私と共に在る。そして、このアルカディア・イリュージョンが滅びぬ限り、私もまた……。行け! そして、必ず『鍵』を見つけ出し、世界の『記録』を守るのだ!」
大賢者の魂が最後の力を振り絞るように輝き、塔全体を包む結界を一時的に強化した。その隙に、黒崎とギルは、『創世記』を抱えて塔の最上階から脱出した。
背後で、虚言の塔が轟音と共に崩れ落ちていくのが見えた。しかし、不思議なことに、塔の残骸はすぐに霧のように消え去り、まるで最初から何もなかったかのように、そこには空き地が広がっていた。
「……大賢者は、この街そのものと同化した、ということか」ギルは、呆然と呟いた。
黒崎は、手にした『創世記』を強く握りしめた。ついに『鍵』の正体――特定の魂の波長を持つ者――とその重要性が明らかになった。そして、その『鍵』を狙う、世界の理を書き換えようとする強大な敵の存在も。
その頃、異世界転生局のシステム管理課では、原因不明の大規模なサーバーダウンが発生し、パニックに陥っていた。局内の主要な異世界へのゲートが一時的に不安定になり、転生業務に大きな支障が出始めていた。
「何が起きているの!?」天野光希が、先輩職員に食って掛かっていた。
「分からん! だが、まるで何者かが、局のシステムの中枢に直接攻撃を仕掛けてきているようだ!」
その混乱の最中、月読静は一人、自室で冷静にモニターを見つめていた。彼女のモニターには、アルカディア・イリュージョンのエネルギー変動、局のサーバーダウンの状況、そしてもう一つ、黒崎に渡した通信チップから送られてくる、『創世記』の古代文字を解析しようと試みる微弱なエネルギーパターンが映し出されていた。
彼女は、キーボードを叩き、局のメインサーバーの深層部に、ある「防御プログラム」を起動させた。それは、表向きはシステム復旧のためのものに見えたが、その実態は、特定の情報――おそらく『忘れられた図書館』や『鍵』に関する情報――を外部の干渉から守るための、高度なプロテクトだった。
「……これで、少しは時間を稼げるはず」月読は小さく呟いた。「黒崎さん、あなたが『鍵』を見つけ出すまで……いえ、あるいは、あなたが『鍵』そのものになるまで……」
彼女の瞳の奥の謎は、さらに深まっていた。彼女は、この一連の事件の真相をどこまで知っているのか。そして、彼女の本当の目的とは一体何なのか。
黒崎は、アルカディア・イリュージョンの喧騒の中で、ギルと共に『創世記』の解読を急いでいた。そこに記された情報が、次の行動の指針となるはずだ。そして、見つけ出さねばならない。『鍵』となる魂を持つ者を。それは、一体誰なのか? そして、どこにいるのか?
物語は、世界の存亡をかけた壮大な謎解きへと、大きく舵を切り始めていた。