忘れられた図書館の囁き
鳳龍牙との面談から数日、黒崎渉の日常業務は変わらず続いていた。勇者志望の魂を現実的な異世界へと諭し、スローライフ希望者の魂を危険度の低い辺境へと送り出す。その合間を縫って、彼は匿名メッセージにあった異世界――コードF-087『忘れられた図書館』の情報を密かに収集していた。
「忘れられた図書館、ですか? また地味なところを調べていますね、黒崎主任」
背後から声をかけたのは、新人の天野光希だった。彼の表情には、純粋な好奇心と、黒崎の行動への若干の戸惑いが浮かんでいる。
「少し、気になることがあってな」黒崎は素っ気なく答え、モニターの表示を通常の業務画面へと切り替えた。「お前も、自分の担当案件に集中しろ。新人のうちは、一つ一つの魂と真摯に向き合うことが重要だ」
「は、はい! 分かっています!」天野は慌てて背筋を伸ばし、自分のデスクへと戻っていった。彼の熱血漢ぶりは時として空回りするが、その実直さは黒崎も認めるところだった。
黒崎が『忘れられた図書館』について得られた情報は、極めて断片的だった。その名の通り、忘れ去られたかのように静かで、特筆すべき資源も、強力な魔力も存在しない。ただ、無数の書物が、誰に読まれることもなく埃を被っているだけ。しかし、ここ数週間で、その世界の微弱なエネルギー反応が、さらに不安定になっているというデータがあった。まるで、風前の灯火のように。
(あのメッセージの送り主は、何を知っている? そして、なぜ俺に?)
黒崎は、異世界転生局の正規ルートではなく、裏のネットワーク――主に情報屋や、局のシステムに不満を持つ元職員などが利用する非公式チャネル――を使って、『忘れられた図書館』に最近アクセスした者がいないかを探っていた。そして、一つの興味深い情報に行き当たった。
「……『調律師』シオン、か」
それは、異世界転生局の中でも、特に異端とされる存在の名前だった。彼らは特定の異世界に深く関与し、その世界のバランスを内側から「調律」する役割を担うと言われているが、その活動実態は謎に包まれている。そして、シオンと名乗る調律師が、最近『忘れられた図書館』に何らかの干渉を試みた痕跡があるというのだ。
黒崎は、意を決して、そのシオンとコンタクトを取るための特殊な通信プロトコルを起動した。これは、局の監視網を掻い潜るための、いわば「裏口」のようなものだ。成功する保証はない。下手をすれば、不正アクセスとして自身の立場が危うくなるリスクすらある。
数時間の後、黒崎の私用端末に、短い応答があった。
『……何用だ、転生局の者よ。我々の領域に、何の断りもなく踏み込もうというのか』
声は合成音声のようだが、その奥には確かな意志と、警戒心が感じられた。
「私は厚生労働省 異世界転生局の黒崎渉だ。『忘れられた図書館』について、いくつか聞きたいことがある」
『……あの図書館は、もう長くない。何者かが、その魂を喰らおうとしている。我々はそれを阻止しようとしたが、力が及ばなかった』
魂を喰らう? あの匿名メッセージにあった「魂の捕食者」という言葉が、黒崎の脳裏をよぎった。
「何者か、とは?」
『……それは、我々にもまだ掴めていない。だが、その力は強大で、巧妙だ。まるで、システムそのものに巣食うウィルスのように、世界の根幹を蝕んでいく』シオンの声には、焦燥と無力感が滲んでいた。『なぜ、お前がそれを知ろうとする? お前たちの仕事は、ただ魂を流れ作業で異世界に送り込むことだけではなかったのか?』
その言葉は、黒崎の胸に突き刺さった。確かに、多くの職員はそうだ。しかし、彼は違う。生前の人事部での失敗、そして、この転生局で出会う様々な魂たちの「第二の人生」への想い。それらが、彼をただの事務処理係ではいさせてくれなかった。
「俺は、不条理な『倒産』を見過ごすわけにはいかない。それが、俺の仕事の流儀だ。もし、あなたが何か手がかりを持っているのなら、教えてほしい。これは取引だ。こちらも、あなたに有益な情報を提供できるかもしれない」
黒崎は、鳳龍牙をヴァルハザードへ送り込んだ一件を、暗に示唆した。強大な魂の動向は、世界のバランスを左右する。それは「調律師」にとっても無視できない情報のはずだ。
しばしの沈黙の後、シオンが応じた。
『……面白い。転生局にも、お前のような男がいるとはな。よかろう。一つだけ、手がかりをやろう。忘れられた図書館には、世界の『記録』が眠っている。その記録の中には、過去に起きた同様の『捕食』に関する記述があるかもしれない。だが、それを読み解くには、特殊な『鍵』が必要だ。そして、その鍵は……』
シオンの言葉が途切れた瞬間、黒崎の端末に強烈なノイズが走り、通信が強制的に遮断された。同時に、局内のセキュリティシステムが、不正アクセスを検知したかのような警告音を発し始めた。
「まずい……!」
黒崎は即座に端末の接続記録を消去し、平静を装って自分のデスクに戻った。周囲の職員たちは、何事かとざわついている。すぐに、システム管理課の職員が駆けつけ、原因究明に乗り出すだろう。
(鍵……。そして、通信を妨害したのは誰だ? シオンか、それとも……)
胸騒ぎがする。彼は、危険な領域に足を踏み入れつつあることを、改めて実感した。忘れられた図書館、魂の捕食者、そして「鍵」。ピースは少しずつ集まり始めているが、全体像は依然として霧の中だ。
その時、内線が鳴った。閻魔局長からだった。
『黒崎君、ちょっと局長室まで来てくれんか。君に、また一つ、厄介な魂の面談をお願いしたくてな。なんでも、生前は『伝説の詐欺師』だったとかで……はっはっは、面白そうだろう?』
閻魔局長の能天気な声を聞きながら、黒崎は重い溜息をついた。日常と非日常が、奇妙なバランスで彼の周りを回り始めている。そして、その回転は、徐々に速度を増しているようだった。
忘れられた図書館に残された「記録」と「鍵」。それを手に入れることが、この謎を解くための次の一手になるのかもしれない。しかし、そのためには、さらなるリスクを冒す必要がありそうだ。黒崎は、コーヒーカップに残っていた冷たい液体を、一気に飲み干した。