魂の輝きと、陰りゆく世界
黒崎が山田太郎の魂をエルミナ村へと送り出す手続きを終え、淹れたてのインスタントコーヒーを一口すすった時だった。自動ドアが静かに開き、新たな魂が面談室へと入ってきた。その魂は、柔らかな光を帯び、周囲の空気をわずかに温めるような、穏やかな気配を漂わせていた。
「初めまして。佐藤愛と申します。よろしくお願いいたします」
女性の声は、澄んでいて、どこか鈴の音を思わせた。生前の姿をぼんやりと映し出す魂の輪郭は、二十代後半といったところか。黒崎は軽く会釈し、タブレットに表示されたプロファイルに目を走らせた。
氏名:佐藤 愛
享年:28歳
死因:過労(夜勤明けの帰路、階段からの転落)
生前の職業:看護師
魂のエネルギー量:平均以上
特記事項:他者への献身性が極めて高い。自己犠牲的な傾向あり。
そして、黒崎の目に映る彼女の魂は、ひときわ強く、清らかな光を放っていた。それは「誰かの役に立ちたい」という、一点の曇りもない純粋な願いの輝きだった。
「佐藤様ですね。黒崎と申します。本日は、どのような異世界でのセカンドライフをご希望でしょうか? 参考までに、人気の高い『剣と魔法のファンタジーワールド』や、比較的穏やかな『スローライフ推奨世界』などもございますが」
黒崎は、いつものように事務的な口調を心がけた。しかし、彼女の魂の輝きは、彼の心の奥底にある、普段は厚い氷に閉ざされた何かを、わずかに揺さぶるものがあった。
佐藤愛は、少し困ったように微笑んだ。「特に、これといった希望は……。ただ、もし叶うのであれば、私の力が、誰かの助けになるような場所であれば、と」
その言葉に嘘はなかった。彼女の魂は、名誉や快楽といったものにはほとんど反応を示さず、ただひたすらに「利他」の方向を向いていた。黒崎は、このような魂に出会うのは稀であることを知っていた。そして、このような魂こそ、時に世界を救う力となり得ることも。
「……承知いたしました。いくつか候補がございますが、佐藤様の魂の適性とご希望を考慮しますと、こちらなどはいかがでしょうか」
黒崎はタブレットの画面を佐藤愛に向けた。そこに表示されていたのは、薄暗い空と荒涼とした大地が広がる異世界の映像だった。
異世界名:『シルヴァニア』
ランク:C(現状、降格検討中)
概要:かつては豊かな緑と清らかな水に恵まれた世界だったが、原因不明の奇病『灰色の呪い』が蔓延。草木は枯れ、人々は徐々に衰弱し、石化していく。医療技術は未発達で、治癒の魔法も効果が薄い。
求人:『聖女』あるいは『特異治癒師』
特典:初期知識として、この世界の薬草に関する基礎情報。微弱ながら、病の進行を遅らせる可能性のある『癒しの光』の素養。
リスク:極めて高い。転生者自身も『灰色の呪い』に侵される可能性あり。世界の崩壊が目前に迫っている。
佐藤愛は、息を呑むようにその映像と説明文に見入っていた。Cランクとはいえ、実質的にはFランクに近い、救いのない世界。そこに「聖女」として赴くことは、茨の道どころか、死地へ飛び込むようなものだ。
「……ひどい……」彼女は小さく呟いた。「人々は、どれほど苦しんでいるのでしょうか」
その声には、同情と、そしてわずかな決意のような響きが混じっていた。
「正直に申し上げて、非常に厳しい状況です。過去にも何人か治癒系のスキルを持つ転生者を送りましたが、いずれも状況を好転させるには至っておりません。あなたが行かれたとしても、徒労に終わる可能性も……」
黒崎は、あえて最悪の可能性を口にした。これが彼女への最後の「確認」だった。
しかし、佐藤愛は顔を上げ、真っ直ぐに黒崎を見た。その瞳には、迷いの色はなかった。
「行かせてください。もし、ほんの少しでも、私にできることがあるのなら」
彼女の魂の輝きが、一段と増したように黒崎には感じられた。まるで、自らを燃やして周囲を照らそうとする蝋燭の炎のように。
「……分かりました。佐藤様のそのお気持ち、確かに拝受いたしました。シルヴァニアへの転生手続きを進めます。あなたのような方が来てくださることを、かの世界の人々も待ち望んでいることでしょう」
黒崎は、珍しく、その言葉にわずかな感情を乗せた。これは賭けだ。彼女の純粋な献身性が、絶望に沈む世界に奇跡を起こすかもしれないという、淡い期待を込めた賭け。
佐藤愛の魂が、感謝の言葉と共に面談室を後にした直後、黒崎のデスクのモニターの一つが、警告音と共に赤く点滅した。
『警告:異世界コード734『アビスティア深淵国』にて、大規模エネルギー消失反応。世界崩壊の兆候を確認。倒産処理プロトコル、スタンバイ』
「またか……」
黒崎は眉を寄せた。アビスティア深淵国。Fランクの、いわゆる「不人気異世界」の一つだ。光の届かない地下世界で、奇妙な生態系が築かれていたはずだが。
「黒崎主任、これを見てください」
いつの間にか背後に立っていたのは、同僚の月読静だった。彼女は感情の読めないクールな表情で、自身のタブレットを黒崎に差し出した。そこには、アビスティア深淵国のエネルギー変動グラフが表示されていた。通常ではありえない、急激なエネルギーの収束と消失。まるで、何者かに魂ごと吸い取られたかのような不自然なパターンだった。
「これは……自然崩壊とは考えにくいな」黒崎は呟いた。「まるで、掃除機で吸い取るようにエネルギーが消えている」
「ええ。そして、興味深いことに、ここ数ヶ月で『倒産』した他の不人気異世界でも、同様のエネルギーパターンが観測されています。統計的に、偶然とは考えにくい頻度ですわ」
月読の言葉には、どこか黒崎の推理を試すような響きがあった。
「……つまり、何者かが意図的に、不人気異世界を狙って『処理』している可能性がある、と?」
「あくまで可能性の一つ、ですけれど」月読は肩をすくめた。「もしそうなら、目的は何でしょうね。魂のエネルギーの収集? それとも、もっと別の……」
彼女の言葉はそこで途切れたが、その瞳の奥には、黒崎もまだ知らない何かを知っているかのような、深い光が宿っていた。
黒崎は、先ほど送り出した佐藤愛の魂の輝きを思い出した。彼女のような存在が、もしこのような「不自然な倒産」の犠牲になるとしたら……。それは、あってはならないことだ。
「……少し、調べてみる必要がありそうだな」
黒崎は、コーヒーカップをデスクに置き、深く息を吸い込んだ。彼の日常業務に、新たな、そして厄介な「案件」が加わった瞬間だった。それは、個々の死者の「就職斡旋」というミクロな視点から、異世界全体の存続に関わるマクロな問題へと、彼の意識を否応なく引きずり込もうとしていた。