忘れられた図書館への扉、深淵の囁き
佐藤愛の悲痛な叫びを魂で感じ取った瞬間、黒崎渉の足元に、アルカディア・イリュージョンの石畳が眩い光を放ち始めた。それは、『創世記』に記されていた『忘れられた図書館』への扉が開いた証だった。
「おい、黒崎! これは一体……!」ギルは驚きの声を上げたが、黒崎は迷わなかった。
「これが、図書館への道だ。行くぞ!」
黒崎は、光の中心へと足を踏み入れた。ギルも一瞬ためらったが、覚悟を決めたように後に続いた。強烈な浮遊感の後、二人が次に目を開けた時、そこはアルカディア・イリュージョンの喧騒とは全く異なる、静寂に包まれた空間だった。
目の前には、天まで届くかのような巨大な書架が無限に連なり、その一つ一つに膨大な量の書物が収められている。空気は乾燥し、古紙の匂いが漂っている。ここが、世界の全ての物語の原型が眠る『忘れられた図書館』だ。
しかし、その荘厳な雰囲気とは裏腹に、図書館全体が不気味な影に覆われ、所々で書物が崩れ落ち、まるで生命力を失ったかのように色褪せていた。そして、図書館の奥深くからは、魂を凍らせるような、冷たく邪悪な気配が漂ってきていた。
「……これが、忘れられた図書館……。確かに、何かに蝕まれているようだ」ギルは、警戒しながら周囲を見回した。
黒崎は、佐藤愛の魂との繋がりを頼りに、図書館の奥へと進んだ。彼女の魂の輝きは、まるで灯台の光のように、彼を導いていた。しかし、その光は今にも消え入りそうに弱々しい。
「佐藤さん……待っていてくれ……!」
図書館を進むにつれて、邪悪な気配はますます強くなっていった。そして、彼らの前に、黒い靄のようなものが立ち塞がった。それは、まるで意思を持っているかのように蠢き、複数の目のような光点が黒崎たちを睨みつけていた。
「……『魂の捕食者』……!」黒崎は直感した。これが、異世界を喰らい、図書館を蝕んでいる元凶だ。
黒い靄は、耳障りな囁き声を発した。『ククク……来たか、鍵の片割れよ。そして、もう片方の鍵も、間もなく我が手に……。お前たちの魂も、この図書館の記録と共に、我が糧となるがよい……』
その声は、直接脳内に響き、聞く者の精神を蝕むような不快な力を持っていた。ギルは苦悶の表情を浮かべ、膝をつきそうになる。
「くっ……頭が……!」
「ギル、しっかりしろ!」黒崎は叫んだが、彼自身も強烈な精神攻撃に耐えていた。しかし、佐藤愛の魂との繋がりが、かろうじて彼の意識を保たせていた。
(こいつに、どう立ち向かえば……!?)
物理的な攻撃は通用しそうにない。これは、魂そのものの戦いだ。
その時、黒崎の脳裏に、かつて面談した死者たちの顔が次々と浮かんできた。勇者志望だった元ニートの山田太郎、カリスマ経営者だった鳳龍牙、そして、伝説の詐欺師ジョーカー。彼らの魂は、それぞれに歪みや欠点を抱えながらも、確かに「生きたい」という強い意志を持っていた。
(そうだ……魂の力とは、単なるエネルギー量じゃない。その魂が持つ『物語』の強さだ!)
黒崎は、自身の魂の奥底にある、生前の後悔、転生局での経験、そして佐藤愛を助けたいという強い願いを、一点に集中させた。それは、彼自身の「物語」を凝縮した力だった。
「お前の好きにはさせない! この図書館も、佐藤さんの魂も、お前のような存在に喰い尽くされてたまるか!」
黒崎の魂が、強い光を放った。それは、鳳龍牙のような圧倒的な力ではない。佐藤愛のような純粋な献身でもない。しかし、数多の魂の「物語」に触れ、その重みを知る者だけが放つことのできる、複雑で、どこまでも深い輝きだった。
その光は、魂の捕食者が放つ邪悪な気配を、わずかに押し返した。
『ヌゥ……小癪な……! だが、その程度の抵抗、無意味だ!』
魂の捕食者は、さらに強大な負のエネルギーを放ってきた。黒崎の意識が遠のきそうになる。
その瞬間、彼の背後から、もう一つの強い光が放たれた。ギルだった。彼は、アルカディア・イリュージョンのペテン師としての矜持を胸に、自身の魂の力を振り絞っていた。
「黒崎……お前さん一人に、いいカッコはさせねえぜ……! この図書館は、俺たちの『嘘』の源泉でもあるんだからな……!」
二つの魂の光が合わさり、魂の捕食者の攻撃をなんとか押し留めた。しかし、それも時間の問題だった。相手の力はあまりにも強大すぎる。
一方、異世界転生局では、月読静が自室でこの戦いの様子を、ある特殊な観測装置を通じてリアルタイムで監視していた。彼女の表情は、依然として冷静沈着だったが、その瞳の奥には、わずかな緊張の色が浮かんでいた。
「……予想以上の力ですね、『魂の捕食者』。ですが、これも計算の内です」
彼女は、キーボードを操作し、『魂の共鳴増幅プロトコル』の出力を最大にした。そして、もう一つ、別の極秘プログラムを起動させた。それは『アストラル・ゲート連結シーケンス』。特定の条件を満たした異世界同士を、一時的にアストラル次元で直結させる、禁断中の禁断の技術だった。
彼女の目的は、シルヴァニアと、もう一つの異世界――鳳龍牙が支配するヴァルハザード――を繋げることだった。
「黒崎さん、ギルさん。あなたたちの魂の輝きは素晴らしい。ですが、それだけでは足りません。『鍵』が真に覚醒するためには、もう一つ……絶望的な状況下での、強烈な『魂の叫び』が必要なのです」
月読のモニターには、シルヴァニアで『灰色の呪い』と戦い続ける佐藤愛の姿と、ヴァルハザードで暴虐の限りを尽くす鳳龍牙の姿が映し出されていた。そして、二つの世界の境界が、ゆっくりと溶け合い始めているのが見えた。
『忘れられた図書館』では、黒崎とギルが限界に達しようとしていた。
「ここまで、か……」黒崎は、朦朧とする意識の中で呟いた。
その時、彼の魂に、再び佐藤愛の悲痛な叫びが響き渡った。しかし、今度の叫びは、以前とは異なっていた。それは、シルヴァニアの世界そのものの断末魔のような、そして、そこに無理やり侵入してきた、別の世界の邪悪な気配に対する絶望の叫びだった。
鳳龍牙の魔王軍が、月読の開いたアストラル・ゲートを通じて、シルヴァニアへと侵攻を開始したのだ。病に苦しむ人々の上に、さらなる絶望が降り注ごうとしていた。
『いやああああああっ!』
佐藤愛の魂が、これまでにないほど強烈な絶望と共に、しかし同時に、守りたいという純粋な願いと共に、激しく燃え上がった。その輝きは、『忘れられた図書館』にいる黒崎の魂と、かつてないほど強く共鳴した。
黒崎の魂の奥底で、何かが弾けた。彼が持つ『無限の記憶』と、佐藤愛が持つ『無垢なる絆』が、ついに完全に一つになったのだ。
『創世記』が、黄金色の光を放ち、ひとりでにページがめくれていく。そして、そこには、新たな文字が浮かび上がっていた。
『目覚めよ、鍵の守護者よ。汝の魂は、記録を紡ぎ、世界を繋ぐ。今こそ、その真の力を解き放て』
黒崎の身体から、眩いばかりのオーラが立ち昇った。それは、これまでのどの魂とも異なる、世界の根源に触れるような、神々しいまでの輝きだった。
『忘れられた図書館』の最深部で、何かが動き始める気配がした。




