存在の耐えられない複雑さ
・・・その日。目を覚ますと10時だった。
正確に言えば、午前10時47分。二度寝をしたわけでもない。ただこの時間にしか起きられなかったのだ。数年前はちゃんと8時前に起きていたのに、なんでいつの間にこんな夜型人間になってしまったのだろう。オレは嘆息する。暗い気持ちを胸に落とすと、スマホから音が鳴った。妹からのLINEだ。
「今日は雨が降るから、ちゃんと洗濯物とりこんでおいて」
だそうだ。相変わらず気の利く性格で、それが逆にイヤになる。兄とは大違いだ。じっさい、窓の外には曇天が広がっている。
「…自分のことばかり、だよなあ」
なにも予定は無いが、とりあえず外に出てみる。俗説では、幸福感の正体と言われている物質ーーセロトニンは、太陽光に照らされることで産出されるという。それに従って、毎日外に出るようにしている。今日は陽が出ていないけど、習慣は裏切れない。
そんな調子で隣町のK市まで電車で赴く。
行き先はM書店。この地域随一の本屋だ。
俺はその3階まで上がると、文庫本のコーナーに辿り着き、買いたいものが無い故の立ち読みを開始する。親のスネ齧って生きているだけの、なんも楽しくない人生の中で、読書は数少ない楽しみのひとつだった。
それが12時26分?とかだったっけ。いったい二時間弱も何に費やしたのかぜんぜん思い出せない。ともかく、あの子に最初に会ったのが13時ピッタリだったから、凡そ30分前ということになる。
彼女と出会ったのはイラスト集の棚の前。
神妙な面持ちで西洋絵画のアートワークを開いていたその子は、オレの視線に気づいたのか、咄嗟に目を横に遣る。
意図せざるして見つめ合っている格好になった。
月下美人…とまでは言わないにせよ、その端正な顔立ちに短い髪はよく似合っていた。身長は低く、ヒョコヒョコと動くサマが可愛らしい。制服を着ている。その襟に目を遣ると、かつて俺が内申点不足で行けなかった高校の紋章が光っていた。
「それ、K北高の制服だよな?」
先に口火を切ったのは俺だ。なんの接点も無い歳下の女の子にいきなり話しかける。ハタから見れば不審者そのものに違いない。しかしオレは彼女と接点を持ちたいという欲望を世間体に優先させた。彼女が絵を見る様子には、なぜだかそんな誘因があったからだ。
機嫌が良かったのか、応えてくれた。
「…そうですね」
「そこ、俺むかし落ちたんだわ」
早速ディスコミュニケーションをブチカマす。思い返すだけで顔から火が出そうになる。そのあとに続く独演会も酷い。
「…ん、いやなんか女の子がそんな絵を眺めているのも不思議だなと思ってさ。ほら、今日って平日だろ?俺はもう高校生じゃないからコロナ禍以降の時間割とかわかんないんだけどさ、だとしてもこんな時間から抽象画を丹念に眺める女の子なんて珍しいよね。それも印象派じゃん。セザンヌ…じゃないか、モネか。こういう言い方は失礼かもしれんけど、女子高生ぐらいの齢の人間が好き好む芸術ってこう、もっと明晰な、写実主義的で現代で言うラッセンとかのイメージがあるな。もし良ければで構わないんだけど、絵とか好きなのか聞かせてほしい」
コミュ障丸出しだ。何度思い返しても、よくこんな不審者丸出しのトークに付き合ってくれたものだ。
彼女は考え込むように俯き、一拍置き、喋り出す。
「ーー美しいものって、分かりやすくっちゃダメだと思うんです」
「というと」
「具体的なもの、分かりやすいものって、私にとってはグロテスクなんです。上手くは語れません、が」
何を言わんとしたいのかさっぱり分からない。実際、彼女本人もしまったとでも言いたげに、続く言葉を考えあぐねているようだ。二、三回言葉を交わすも、詰まる。話題を変えようと適当な質問の台詞が喉まで出かかった瞬間、彼女は投げ出すようにこう言った。
「もしよければ、連絡先を交換しませんか?」
そう言って、彼女は自分のTwitterアカウントを俺に伝えた。さすがに初手でLINEを交換するわけにもいかないらしい。ひょっとしたら、オレの物欲しげで挙動不審な態度を見て哀れに思ったのかもしれない。それが3週間前、とかだったはず。
今にして思えば、あの時、俺はヘンな女に出会って、何がしか人生が変わるとか思っていたんだろう。
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夜天は今日もキラキラの星を散りばめて、俺の頭上をどこまでも覆っている。…いや、正確に言えば緑色の網が今日に限って掛かっている。
要するに、バッティングセンターにいる。
--ポンッ!ポンッ!ポンッ!
気晴らしに投球を突っ撥ねに来たにも関わらず、その音は虚しく響く。マトモに打つ気が無いのだ。今のオレには気晴らしの気力さえ起きない。数百円が無駄になっただけらしい。
過去のことはあまり振り返りたくない。にも関わらず振り返ってしまうのは、それが一種の自傷行為と同じ機能を果たしているからだ。記憶するだけで傷口に塩が塗られていくような、無数のディスコミュニケーションがどうしても頭から離れなくなった時、オレはいつもここに来る。んで、数百円を無駄にする。痛みを覚えているとき、気晴らし用の気力は擦り切れているから。
彼女--諏訪かのんとのコミュニケーションは、結果的に言えば失敗の連続で凍結状態に陥った。
何を言っても興味を持たない。オレの言葉は常に宙を舞い、彼女はそれを軽くあしらうだけ。愛想で取り繕ってはいるけれど、結局のところ退屈だと言われているに過ぎない。もう20歳なのだから、それぐらい察することができる--いや、その程度しか視ることができないと言うべきなのだ。歳は上のはずなのに、場数の差、話術の差、頭の出来の差がそこには横たわる。毎日のように言葉を詰めれど、なにも進まない日々。
そして今日、そこを踏み越えるように強引な賭けに出た。
それが彼女に関係を切る口実を与えた。
「・・・あー」
後悔で胸が満ちる。
綱渡りが終わったことに安堵する気持ち。転落した痛み。その両方が入り混じる経験は異性との関係に特有のものだ。
『そりゃ、あんな賢い子がアンタみたいなのに靡くわけ無いでしょ。ちょっとは身の丈かんがえなよ』
妹の言葉が胸を刺す。イヤな気分がモクモクと肺胞に昇ってくる。一体どこで間違えたんだろう。
そんなところで思考がループして、一時間半ほど無気力にバットを振り回し、帰宅の途に着いた。失敗を積むたびに、これまでの人生の惨めさが顧みられて益々イヤな気持ちになる。思えば小学生の頃から何もできない人生だった。勉強もできないスポーツもできない、同じ程度の近所の友人とたまにゲームで遊ぶ。中学生に上がる頃には流行りにも着いていけなくなり、気づけば友人も減り、インターネットにどっぷりと肩まで浸かる日々が始まった。そうして成績も下降し、貴重な青春を過ごす若者に羨みの視線を過ごす毎日を送り、いつの間にかテキトーに入った三流美大さえ中退の憂き目を見る。むろん、ところどころで良かったこと、楽しかった記憶もあったはずだ。だが、オレはいずれもそれをモノに出来なかった。継続させられなかった。全ては自分が成長できなかったからだ。前に進めなかったからだ。
そんなことを考え、コンビニに入る。安い商品がたくさん置かれているフランチャイズな小売店は、実存なんて重っ苦しいことを考えさせずに済む。気を紛らわすにはもってこいの空間である。
その入り口。
・・・何かが転がっている。
人間大の大きさだ。動物だろうか。
腹を突ついてみる。
「う″え″っ″!?」
うわ、ビックリした。人間じゃん。
「う″え″ぇ″っ、こここここここは…?」
「セブンの前だよ」
「はっ、コ、コンビニの…?」
「それ以外に何があんだよ」
人間…というより少女は、堰を切ったように多弁になる。快活な響きを帯びた声。まあるい瞳。健康そうなお腹。ちょっとお馬鹿っぽい喋り方。普通だったら夜の路傍には転がっていないような存在である。
「で、なんでこんな感じになってんの」
「う″っ″、それは、ソレハデスネ…」
謎のガールは言葉を詰まらせる。そのまま二分ほど彼女の話を聞いていたが、整合性のとれる理由は出てこない。察するに余りある事情があるのだろう。これ以上は不毛だ。ちょっと待ってろと言い残すと、背後のセブンでジュースを買い、そいつに渡してやる。
「わあああああ…!助かります、わたし、無一文だったので、ずっと喉が渇いていたんです!」
「華のJKだかJCが、無一文でコンビニの真ん前に突っ伏して、危機感ってもんは無いのか」
「…は、はい!ささささっきも言ったように、わわわわたしはグレイ型宇宙人に誘拐され、こここ国際連合の大いなる陰謀に巻き込まれていたんです!お、お金を稼いでいる暇なんて、ありませんっ」
「…ここから200メートルちょっと先に、サイゼリヤがある。今は懐に余裕があるから、ちょっとなら食わせてやれるけど、奢ろうか」
と言ってやった瞬間、少女の目は露骨に輝き出し、
「!?!?!?ほんとですか!?ぜひ、ぜひ食べさせてください!!」
そう懇願する。どうやらそれまでの全ての発話を無視されたことに怒る気はないようだ。
会話パートは後回し。