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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

極東魔術師のお気に入り〜転生巫女は西国でおにぎりを食べていただけでした〜

作者: 冬瀬

短編です!

お手隙の際にサラッとどうぞ!

お口に合うと幸いです。





「――その。一緒に食べますか……?」



 どうやら私が放ったそのひと言が、全ての始まりだったらしい。


 この国では馬の餌になっていた穀物を炊き上げて、塩で握っただけのおにぎり。

 時々無性に食べたくなるそれを、料理番の見習いさんに頼んでこっそり庭で食べていたら、その子と出会った。


 こちらの大陸では初めて見る黒髪に、青黒曜石の瞳。

 すっきりとした目鼻立ちで容姿の整ったその子は、少し痩せてはいたけれど、確かに美少年で。

 彼が噂に聞く『極東からの迷い人』だと理解するのに、時間はかからなかった。


 もう二度と見ることはないと思っていた黒髪。

 三歳で思い出してから、七年ぶりに触れた過去の断片。

 死の海域を超えた先にきっとまだ存在しているのであろう、ひとつめの故郷に哀愁の念が沸いた。


 そしてそれは、きっと目の前の少年も同じなのだろう。


 メイドに連れられて屋敷の案内をされて暇を潰していたらしい彼は、外廊下を歩いている途中、私の持っているそれに目を見開くと真っ直ぐこちらに歩いて来た。

 最初は覚束ない足取りだったのが、近づくに連れて確信を持ち、その歩みはいつしか大きくなって。

 一方、木陰の裏で上機嫌におにぎりを食べようと大口開けていた私は、急に現れた黒髪の少年が引き寄せられるように向かって来るのを知って、口を閉じるのを忘れていた。


 少年が見ているのは、私ではない。

 明らかにその目線は私が持っているおにぎりに釘付けだった。

 こんなところで、極東の島国のソウルフードとご対面することになるとは、彼も思っていなかったみたいだ。


 時刻はちょうどお八つ時。

 昼食もしっかり食べているとはいえ、こちらは育ち盛りなのだ。図らずも彼が連れて来てしまったメイドさんからの鋭い視線を感じるけれど、間食くらい見逃して欲しい。

 そして、このままでは、また大事なお米を取り上げられてしまうと悟った私が選んだ道が、少年を巻き込むという選択だった。

 動きそうにない少年を待ちかねて、私は立ち上がると籠の中にあとふたつ並んだ、小さめのおにぎりを差し出す。

 彼は戸惑ったように瞳を揺らしたけれど、「おひとつどうぞ」と伝わっているかも分からない言葉と共に笑顔で答えれば、それをひとつ手に取った。


 恐る恐る運ばれた塩おにぎりは、彼の口へ。

 

「ど、どうですか?」


 ひとくち食べたのを見守って、私が少年に尋ねれば。


 彼は無言で二口目、三口目を食べて――泣いていた。


 声も上げず、ただおにぎりを食べて泣く美少年。

 泣いているのに気が付いた瞬間は、口に合わなかったのかとギョッとしたけれど、そうではないことはすぐに分かった。

 渦潮や悪天候が酷い死の海域を超えて、こちらの大陸に迷い込んでしまった哀れな少年は、たぶんもう故郷に帰れないだろう。


「全部食べてください。お腹が空いてるなら、もっと作りますよ!」


 私は弁当の籠を少年に持たせると、泣いているのもお構いなしに、厨房へと連れ込んだ。

 情けないことに、それくらいしか彼のために出来ることが思いつかなかった。

 それでも、同郷の少年がお腹を空かせているより、断然マシだ。ちゃんと食事を取れていないことくらい、彼の顔付きを見ればすぐに分かる。

 お茶とおにぎりを並べ、例の見習いさんに簡単に卵焼きを焼いてもらって。

 完全に極東の島国の味を再現するまでには至っていなかったけれど、それでも彼は完食してくれた。

 それがどうしようなく嬉しかったのは、私も人とは少し違うこの人生に孤独を感じていたからなのかもしれない。



 あの時のおにぎりが、彼に振る舞った最初の手料理だったのは、ここだけの話だ。

 




 ◆◆◆





 そういう訳で、当たり障りのない日常の延長線上での出来事が、巷で話題の「極東の魔術師様」と私の出会いだった。


 こちらでの名をレイクラウド・ナシュ・ウォルガン。

 昔はおにぎりひとつで泣いていた彼も、今となっては、国を代表する天才魔術師様だ。

 王宮勤めの魔術師なんてほんのひと握り。かつてはこちらの言葉さえ知らなかった少年が、努力の末にたどり着いた地位は、それはそれは輝かしいものである。

 加えて、西では唯一無二の黒髪に、エキゾチックな瞳と芯の通った凛々しい振る舞い。

 その物珍しい容姿と、甘い社交辞令が習慣の貴族男子にはない真面目さが相まって、ご令嬢たちの人気を集めているらしい。

 何せ、公爵家の養子になっているので、実力はもちろんのこと家柄も申し分ないスーパー優良物件様なのだ。


「――エルシア」


 そして、そう。

 エルシア・フォス・ディアロとして二度目の人生を送っている私は何者かといえば、極東の魔術師様が誕生したのと同じ島国で巫女というやつをやっていた転生者だ。

 西ではあまり馴染みのない転生という概念を説明するのは、東の文化や宗教観についても語る必要がありそうなので、割愛させていただこう。生きる苦しみから逃れるための修行が云々という話をしても、楽しくはない。

 それなら巫女とはなんだという話については、あまりいい思い出がないので口にするのも億劫だ。とりあえず、神の下僕として二十数年ほど一生懸命働いていたということだけお伝えしておこう。え?中身は年寄りじゃないかって?レディに歳の話はしないのが暗黙の了解というものだ。言わなければ分からない。


「エルシア」


 ……さてと。私の自己紹介はこのくらいにして。

 我がディアロ伯爵家自慢の書庫にやってくる人物で、私をそう呼び捨てる人なんてひとりしかいない。

 開いたままだった本をそっと閉じてから、後ろを振り返る。


「――ご機嫌よう、極東の魔術師様」


 少し癖のある艶を帯びた黒髪に、凛とした眼差し。

 すっかり身長が伸びた体躯に東の文化を想起させる前合わせの衣にベルトを締めているのが、恐ろしいほど彼という人を際立たせている。この男に、天は二物以上を与えすぎた。

 ……まあ、その多々ある才能のおかげで、彼がこうして死の海域を超えて西の国でも生き延びることができたと思えば、溜飲も下がる。与えられたもの以上に、苦労もしている人に違いないのだ。

 少なくとも生まれた時から、裕福で円満な家庭で愛されて育った私が羨むべきではない。

 

「……宮廷小説でも読んでいたのか?」

「そんなところです」


 いつもはしないお誂え向きなお嬢様ご挨拶にご不満らしく、彼は柳眉を顰める。


 少年から青年になった魔術師は、残念なことに成長の代償に素直さと可愛げを失ってしまった。

 もともと物静かな性格であり、言葉の壁もあったことで端的に物を言う子だったけれど、それが磨きをかけた結果、社交的とは言えない人柄が出来上がってご覧の通りだ。

 多感な年頃を、右も左も分からない異国で周囲からは見せ物のように扱われたことを考慮すれば、それは必然だったのかもしれない。

 私は女学校に通っていたので詳しくは知らないが、士官学校に放り込まれた彼の学生時代というものは、それなりに波瀾万丈だったと聞く。

 まあ、あの国の人間には珍しくもない真面目で勤勉な気質だ。特に長男だったら厳しく育てられたはずで、硬派になるのも理解に容易い。

 実際、彼には三人の弟と二人の妹がいたそうだ。

 今やたったひとりの跡取り息子なのだけれど。


「それで? 王宮勤めの多忙な魔術師様は、どうしてここに?」

「……何も用がなければ来たら駄目なのか」

「普通は目的があるものかと思いますが、違うのですか?」

「…………東の甘味に使われる、葛という木の根が手に入った」

「庭でお茶でもいかがでしょう」

 

 急な訪問には慣れた。私も、家族も、屋敷の使用人たちも。それくらいにはこの魔術師はここに馴染んでしまっている。

 というのも、彼は少年期の一時、この家に住んでいたのだ。茶も出さずにお暇願うような関係ではない。

 わざわざこんな問答をせずとも、この男が屋敷に入った時点で、きっとすでにお茶とお茶菓子の準備がされていることだろう。

 それに、ここで葛――ごほん。彼を逃すつもりはない。

 

「実は、ついさっきあずきのパイを焼いたところだったんです。タイミングが良かったですね」

「…………そうか」


 私は席を立ち、彼を見上げる。

 出会ったばかりの時は同じくらいの身長だったのに、逞しく育ってくれたものだ。

 こちらに来たばかりの少年は、その珍しい容姿から攫われて闇市に売られたり、逃げ出したり、捕まったりで、天涯孤独に恐怖を味わった心的疲労から食事が喉を通らなかったというのに。

 日々痩せていく彼のことを、どうにかならないかと後見人を引き受けたウォルガン公爵が助けを求めたのが、私の父だ。

 ディアロ家の家長は、異国の文化を調べることに長けた外交官。そして、その娘が創作するモノゴトが、彼の故郷のものと似ていた。

 これだけ言ってしまえば、この魔術師と私の縁は何となくお察しいただけるだろう。


 彼と初めて出会った、あの日。

 厨房でおにぎりと卵焼きを食べていると報告を受けて駆け込んできた公爵様が、安堵の涙を流していたのは今でも忘れられない。

 少しでも故郷に近い何かがあるかもしれないからと、父が試しに彼を引き取って、私はその間、毎日お米にありつけることになったのだ。

 お米の美味しさを伝えるチャンスと踏んだ私は、あれやこれやと見習いさんに入れ知恵をして、それまで我慢していた故郷の料理を数品勝ち取ったのはいい思い出である。それ以来、創作をしやすくなった点は、この魔術師に感謝をしなくてはならないだろう。


 書庫を出て外廊下を歩き、彼との出会いの記念地である庭に足を伸ばす。

 こちらの季節は、極東の島国よりも変わり目が激しくなくて過ごしやすい。それをどこか物足りなく感じる私がいるけれど、まだ四季と呼べるものがある国に生まれただけ喜ぶべきなのだと思う。

 漫然とかつてを生きていた私より、うんと頭の良く物覚えと要領がいい彼が見つけてきた極東寄せのお茶を淹れて。

 家を出て騎士団で働いている兄以外、この屋敷の住人たちに好評をいただいているあずきパイを頬張る。今日もなかなか良い仕上がりだ。


「……? お腹が空いていませんでしたか?」


 だというのに、せっかくのお茶とパイに手を付けず、何か考え込んでいるような魔術師に私は首を傾げる。

 嫌いなものは出していないはずなので、原因は彼自身にあると思いたい。


「……いや……。今日はまだ何も食べていない……」

「それもどうかと思います。もうお昼過ぎですよ?」


 人智を超えた力を扱っているとはいえ、自分が人間であることまで忘れないでいただきたいものだ。天才と呼ばれているのだから、食事の存在くらいは覚えていてほしい。

 ただ、そんな働き方をしていても、何故か身体付きはいいのだから不思議だ。こちらは一介の貴族令嬢として太らないように毎日汗を滲ませ運動をしているのに、喧嘩でも売られているのだろうか?

 私が呆れて物を言うと、彼はそっとフォークを取ってパイを口に入れる。

 極東の人間が、銀のフォークを使って東西混合したデザートを食べている姿は、どうしてこうも目を引くのだろうか。

 ご令嬢から視線と人気を集める理由が、改めて分かる気がする。


「エルシア……」

「はい」


 彼は透き通った深緑色の茶を飲むと、少し躊躇いがちに口を開いた。


「しばらく、王都を離れることになった」

「そうでしたか。また遠征ですか?」


 別にわざわざ私に報告してくれなくてもいいのに律儀な人だ。遠征で王都を空けることなんて珍しくもない話なのに、改まってどうしたというのだろう。




「――邪龍の討伐に参加する」




 そして。

 呑気にお茶を飲んでいた私は。

 かつて、ソレの()()()()()()()私は。

 二度と関わりたくなかった存在を告げられて、表情を取り繕うことができなかった。


「エルシア!?」


 持っていた茶器が滑り、傾いたそれから私の膝に茶が染みを作る。

 人間心の底から驚くと、直前まで当たり前のように出来ていたことすらままならなくなるらしい。


「じゃ、りゅう――?」


 頭の中が真っ白になった。

 あの忌々しい存在は、再び私の世界に牙を剥くというのか。


「《朱雀の烈火、玄武の鏡水、慎みて加護を願い奉る》」


 いつの間にか私の隣に跪いた彼は呪文を唱える。

 この国ものには意味を聞き取ることすら許されない、ひどく懐かしい極東の言葉だ。

 濡れたスカートのシミが抜けて、何もなかったかのように乾いていく。


「大丈夫か……?」

「す、すみません。驚いてしまって……」


 心配そうに見上げられて、私は我に返った。

 未だに胸のざわめきが収まらない。

 昔、ソレに己の肉体を噛み砕かれた恐怖が蘇り、平常ではなかった。


「……顔色が悪い。中に戻って横になった方がいい」

「そう、させていただきます……」


 彼からすれば一体何事かと疑問に思ったに違いない。

 けれど、詳しいことは何も問われず、極東の魔術師様は私を心配してくれる。

 どうやらエスコートしてくれるみたいで、彼から差し出された手に、自分の手を伸ばした。

 ……放心していた私は、その手が痺れたように震えていたことに気が付いていなかった。


「…………少し、我慢してくれ」

「え?」


 手を引いてもらって立ち上がったところ、彼はそう言うや否や、私の背中と膝裏に腕を回す。

 急に視界が落ちたと思えば、魔術師に抱き上げられていた。


「レ、レイ!? 私、自分で歩けます!」

「そんな青ざめた顔で言われても困る」

「困るのは、私の方ですが!?」

「なぜ?」

「…………なぜって……」


 戸惑う私は置いてけぼりで、彼はさっそうと庭を後にする。

 近くで控えていたメイドたちが何事かと私たちの様子を見に来たのに対し、魔術師は我が物顔で指示を出す。

 そして、案内もなしに、まっすぐ向かっているのは私の自室だ。

 空気を呼んだ執事が何の合図も無しに扉を開けて、彼は部屋の中に入っていく。一応レディの寝室にもなっているのだが、私の許可はいらないらしい。


「――すまない。怖がらせるつもりはなかった」


 やっと腕の中から下ろしてもらえた後に言われたのは、謝罪の言葉だった。

 ベッドのふちに腰掛け、横になった私に彼は告げる。

 確かに聞きたくはない話だったが、誰にも自分の本当のことを話していない私が勝手に驚いてしまっただけで、彼に非はない。


「どうしてあなたが謝るんですか。……ちょっと、幼い時に読んだ絵本でトラウマがあっただけなんです。自分でもここまで驚くとは思っていなくて……」


 言い訳にしては、少し雑だっただろうか。

 私は上体を起こし、彼と合わせる顔もなくて目を伏せる。

 あんな風に取り乱したことは滅多になかったから、何かしらの説明は必要だ。

 そして、心中苦し紛れに答えた私に向けられるのは、静かな眼差し。


「そんなに怖かったのか……?」

「……そうですね……。子どもが読むには怖かったかもしれません。邪龍が人を食い殺す話なんて――」


 これは実際に存在している絵本の話だ。

 教訓として語り継がれるその物語は、独特なタッチで描かれた龍の絵が描かれていて、西の国にもその存在が恐れられていたことを知った時にはかなりの衝撃を受けた。


「……アレは、天の災いだからな。感覚の優れた幼少期には本能が危険だと察していたのかもしれない」


 まるで、アレが何か知っているような口ぶりだった。

 気まぐれに人の世界に降りて、気まぐれに人を喰って腹を満たす天災。それが邪龍だ。

 人間の都合など知ったことではないと言わんばかりの所業を成す怪物だ。

 

「大丈夫だ。俺が何とかする。エルシアはいつも通り、この屋敷で茶を飲んでいればいい」


 さらりと言って退ける魔術師に、私は黙っていられない。


「――っ。本当にアレが降りて来ているんですか?」


 もし。もし、本当にこの話が事実なら――。


「……ああ。黒雷と影が観測されている。今はまだ海上にいるみたいだが、大陸にくれば何が起こるかわからない」

「行かないでください」


 彼が行くのを、止めなければならない。

 自分の声が硬くなっているのが分かる。

 私は本気だ。これは子どもの我儘ではない。


「エル、シア?」


 彼は青黒曜石の瞳を見開いていた。

 普段ならどんな危険そうな仕事でも、この魔術師を止めるなんてことはせずに、適当に送り出していた。

 彼もそれを知っているだろうし、私にも自覚はある。

 だから、さっきから、いつもとは違う事ばかりをする私に違和感があるのだろう。


「狙われます。強い魔術師は」


 かつての私がそうだったように。

 このまま彼が邪龍の元に行けば、一番能力の高い魔術師であるレイクラウド・ナシュ・ウォルガンが狙われる。

 アレが喰らうのは人の肉ではなく、養分だ。

 たったひとり分の血肉だけで満足できる訳がないなんて、少し考えれば分かる。

 だから、養分をたっぷり含んだ異能者を、あの極東の国は捧げたのだ。

 あちらの国では誰もが知っている、儀式として語り継がれる事実である。


「……なぜ、それを……」


 極東の魔術師は、訝しげに眉根を寄せた。

 あれだけ邪龍を恐れ、魔術師でも何でもない私が、そんな知識を持っていることが腑に落ちないらしい。


「それでも、俺が行かない訳にはいかない」


 しばらくの沈黙の後。

 彼から告げられたのは否定の言葉だった。


「――レイ」


 私は懇願するように彼を見つめた。

 しかし、この魔術師が私なんかの願いを聞いてくれる訳もない。


「必ず戻ってくる。今までだってそうだっただろ」


 極東の魔術師は、私の心などいざ知らず、そうして邪龍の討伐に行ってしまった――。






 ◆◆◆






「――禍々しい黒髪の妖術師め! あいつが邪龍を呼んだに違いない!」



 それは、極東の魔術師が遠征に出かけた二か月後のこと。

 ずっと屋敷にこもっている私を心配した兄と、久しぶりに街に出て買い物をしていた時に聞こえて来た言葉だった。

 それが誰を指しているかなんて、確かめるまでもない。


「エル。気にするな。弱い奴が自分の不満を押し付けたいだけだから」


 兄のダリウスは眉間に皺を寄せ、まるでゴミでも見るかのような目線を男に刺しながら言った。


「お兄様がレイの肩を持つなんて珍しいですね」


 貴族の娘のもとに何の頼りもなく訪れる魔術師のことを、兄はあまりよく思っていない。

 私としても婚期が遅れているひとつの原因なので、彼も身を固めてくれればいいのにとは思っているところで、兄の気持ちも理解しているつもりだ。

 こうしてたまに買い物に連れて行ってくれる兄が、自分を大切にしてくれているから、あの魔術師に厳しいことも知っていたから、珍しく魔術師を庇う発言が印象に残った。


「……別に。やつと馴染みのあるおまえまで悪く言われるかもしれないと思ったから言っただけだ。あいつに気を遣った訳じゃない」


 むすっとして答える兄は、どこかつまらなそうだ。

 昔は兄弟のようにあの魔術師と遊んでいたのに、どうして今は微妙な仲になってしまったのだか。


「もう二か月だ。いつまで待たせるつもりなんだ、あいつは。そのせいでこっちの業務がどれだけ増えていくことか」


 我が家自慢の美形の兄は、城で文官をやっている。

 今日は息抜きで休みをもらえたらしいが、最近は地方から徐々に王都まで広がってきた邪龍の被害の対応で寝る間も惜しんで仕事をしているそうだ。

 せっかく整った顔を歪め、彼は目頭を抑える。

 疲れているだろうにせっかくの休日を自ら妹と買い物に出かけるなんて、この人も変わっている。


「お兄様。次はどこかお店に入ってお茶にしませんか?」

「……そうだな。今にも雨が降り出しそうだ」


 彼は空を見上げた。

 灰色をした薄い雲が空を覆い、さっきまですごく良い天気だったのが嘘みたいだ。

 雨が酷くならないといいのだが。

 生ぬるい風が強く吹いて、私は乱れた髪を耳にすくう。


 そして、次の瞬間に鳴り響くのは――雷鳴。


「――っ!?」

「エル!」


 唐突な轟音に、兄が私を抱き寄せた。

 かなり近かった。すぐそばに落ちた。

 今落ちたそれは何色だった――?


 稲妻を従えてやってくるのは、天の災い。


 カンカンカンと警鐘が鳴っているのが小さく聞こえる。


 黒く分厚い雲から落ちてくるのは。

 彼女の目前に姿を現したのは。



 血を煮詰めたような真っ黒な鱗と、ひとつの目玉に五つの瞳孔を持つ化け物の頭だった。

 



 身がすくんで動けない。

 怪物だ。化け物だ。災いだ。


 こんなものがどうして、ここに存在しているのだろう。





「――逃げろ、エルシア!!」





 空耳が聞こえる。

 もう丸二か月聞いていない男のものと似た声が聞こえた。

 愕然と立ち尽くす私は、呆然と空を見上げる。

 今にもあの首が落ちて来て、丸呑みにされそうだ。


「エルシア!!」


 そして、二度目の声が聞こえて、私はやっと気が付いた。

 龍の首元に一本穿たれた杭に離されまいと、しがみ付いた男の姿に。


「――――レイ?」


 あの男は、どうしてあんなところにいるのだろう。

 まさかこの化け物と一緒にずっと空の旅をして来たとでも言うのだろうか。


「エル、エル!」


 兄に身体を揺すられても、声が出てこない。

 動けない私を担ぐと、彼は走り出す。

 兄に抱っこされるなんていつぶりだろうかなんて呑気なことを考える間もなく、黒い雷が空からこちらに向かって落ちてくる。


「《青龍の原木、白虎の金剛、災厄祓いて弱きを守護せよ》」

「――クッ、冗談じゃない!!」


 魔術師の呪文と共に結界が張られて稲妻が弾ける。

 その音に肩を揺らしながらも、兄はソレから遠ざかるように走り続けた。こんな体力があったとは驚きだ。

 私を担いでいなければ、もっと速く遠く逃げられるだろう。


「――ていってください」

「何か言ったか!?」

「置いていってください」

「何、馬鹿なことを言ってる!?」


 優しい兄の怒声は雷鳴にかき消される。

 すると黒い影が横目を掠めたかと思えば、兄の後ろ。つまりは私の目の前に黒髪の魔術師が現れ並走する。


「おい、魔術馬鹿! なんであんなのを王都に連れて来た!?」

「知るか。アレに聞け」


 再会早々ふたりは言葉をぶつけ合う。


「エルシアは俺に任せて、お前はひとりでくたばれ」

「言われなくても、そのつもりだ」


 兄は足を止めると私のことを魔術師に押し付ける。


「お兄様!?」

「癪だが、この状況で僕の可愛い妹を任せられるのは魔術馬鹿くらいだからな。――行け」


「《天を翔けるは朱雀の翼、地を駆けるは白虎の虎爪》」


 それを合図に、私を抱いた男は跳躍した。

 だんだんと現実を受け入れて来た私の脳みそは、どうしてこの男が兄を置いて自分を連れ出したのかを考え出す。

 今も止まらぬ黒い雷は、全てこの魔術師が高難易度の二重加護で張った結界で防いでいる。


「――まさ、か……」


 気のせい――なんかじゃない。

 アレは私に向かって黒雷を放ち、あの全てを見ていそうで何も見えていない目玉を何か探すように、ぎょろぎょろ動かしている。


「すまない。俺の見込みが甘かった」


 後悔の色が滲む声音が、すぐそこから降ってきた。

 極東の魔術師をよく見てみれば、頬に切れて血が滲んでいる。服も所々破れて、ボロボロだ。


「分かってたんだ。アレが現れたら君を狙うだろうってことくらい」

「……ど、どうして……」

「昔からエルシアの魔力は強かった。だから、俺がアレを倒すつもりだった」

「違います。なぜ、あなたはアレの存在を確信して――」


 そこまで言って、私はひとつの可能性に気が付いた。

 唖然として言葉を呑み、走って郊外を目指す彼を見つめて。




「そうだ。俺はアレの鉤爪に攫われて、この国に落ちた」




 死の海域を超えた向こう側からやって来た少年。

 迷い人といわれた彼は、どうやってこの国に迷い込んだのか。

 その事実が明らかになり、私にはそれこそ雷に打たれたような衝撃が走っていた。


「君に出会ってから俺は救われた。だから、いつかこんな日が来たら君を守れるだけの力が欲しくて魔術師になった。――次は何も失いたくなかったから」

「……そ、そんな……」


 私は、ずっと、ずっと勘違いをしていたのかもしれない。


「あなたは、極東に帰りたいから魔術師になったんじゃ」


 いつか彼は帰るだろう。そう思っていた。

 だから、どれだけ側にいても、彼との間には距離があった。



「――俺の帰るところは、もうあそこじゃない」



 魔術師は足を止める。

 気が付けばそこは、王都の街を抜けた草原だった。

 他に人の姿はない。

 たったふたりになった地の上には、狙いを定めやすくなったであろう邪龍の姿が泳いでいる。


「エルシア。力を貸してくれるか」


 今世も前世と同じだけの養分を持って生まれてしまった私は、つまるところ贄になって再び喰われるか、倒すかの二択を迫られている。

 昔は有無を言わさず手足と口を縛られ、嫁入りだとか何だとか言って、白無垢を着せられて食いやすいように山の頂上に捧げられた。それをどれだけ恨んだことか。

 だけど、彼は後者を選んでくれていた。

 もうずっと前から。

 

「わかりました」


 何にせよ、もう逃げるのは難しい。

 私は極東の魔術師に頷いた。


「手を」


 彼に言われた通り、人差し指と中指以外を握って刀印を結ぶ。

 前世ではよく使っていた印だ。

 最後の最後で、人によってなされた拘束のせいで使えなかった術だ。

 もう時間がない。彼がアレを抑えているのも限界だろう。

 彼の使う呪文が何かは、私が一番よく分かっている。



「「《青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女》」」


 

 声はひとつに合わさった。

 私に呪が返ってこないようにか、刀印の上から同じように印を結んだ手を重ねた彼は背後にいて、その顔は見えない。

 

 そして、私たちがそれを唱え、印を切った直後。


 天が割れた。


 ソレの長い身体が激しく脈を打ったかと思えば、黒い雲を裂き、地上に落ちてくる。


 天の災いが地に落ちる――。

 それが何を意味しているかなど、言わずと知れたこと。


「――終わった……」

「っ、エルシア」


 力を出し切って、身体がふらつく。

 それを支えてくれた魔術師だが、彼の方が疲れているに違いない。

 ここで気を抜いたらダメだ。ダメだ、けれど……。

 この身体で初めて使ったのが、全ての精神力を出し切らなければいけない大技。魂が削れたとは言わないが、そうたとえたくなるくらいには、どっと疲労が全身を襲う。


「……()()()()、お茶に付き合ってくださいね。聞きたいことがたくさんあるんです……」


 何とか絞り出した言葉は、果たして届いていただろうか。




「――ああ。俺もだ。エルシア」




 彼の腕の中で返事をされた、気がした。





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