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ほのぼのの欠片

作者: 猫舌

島根小旅行。



 爽やかな目覚め。

 昨日は酒を飲んでいない、体調は万全だ。


 車のガソリンも満タンだし、車内の掃除もきちんとしてある。

 階段を降りて行くと、1階の台所からコーヒーの香りがする。

 『昨日コーヒーの予約してたか?』

 台所に入ると、ジャージにエプロンを付けた隣の家の娘さんが、カップにコーヒーを注いでいた。


 「おじさんおはよう。コーヒーどうぞ。」

 彼女は俺の好みを把握しているから、もうミルクと砂糖が入っている。

 コーヒーをじっくりと味わうと、じわじわと身体に精気が広がっていく。


 「ありがとう。ところで、玄関の鍵はかかっていなかったかな?」

 「いや、合鍵持ってるから。普通に鍵開けて入りましたけど?」

 可愛らしく首を傾げて、私何か悪いことしましたか?の表情だ。


 いや、駄目でしょ。


 「前に俺が階段から落ちて動けなくなった時があったから、非常時のために合鍵は渡していたけど、今は非常時かな?」

 そう俺が聞くと、彼女はきょとんとした顔をした。


 「コーヒー美味しいですか?目が覚めましたか?」

 「ああ、しっかり目が覚めたよ。」

 「じゃ、旅行よろしくお願いします。二人っきりですね。」


 コーヒーの味よりその言葉で目が覚めた。

 確かに非常時のようだった。


 「上野さんすみません、あの、伊東です。今日の旅行の事でお聞きしたいことがあるのですが?」

 隣家のインターホンに告げると、パタパタとスリッパの音が近づいてきた。

 玄関のドアが開く。

 「ほんっとうに、ごめんなさいっ。」

 俺の目の前で、薄ピンクのふわふわパジャマを着た小柄な女性が、全力で頭を下げていた。

 とても可愛らしい。


 「急な仕事が入って、今日中に調整が必要なので、私は旅行に行けないんです。」

 目に涙を浮かべ、胸の前で両手を合わせて、彼女は俺を見上げた。


 「でも、当日キャンセルだと、お宿の料金は全額支払いになっちゃうので、勿体無いと思うんです。」

 「私も旅行での取材の予定も組んでいたし、源助さんさえ良ければ、才良と2人で旅行に行ってきて欲しいんです。」


 「はあっ?ちょっと待ってください。友生さん、年頃の娘さんと2人でって、そんな。」

 「3人で楽しみにしてましたし、出来たら私の仕事用の写真や資料を確保して欲しいんです、お願いします。」

 俺が楽しみにしていたのは友生さんと才良ちゃんと3人でのわちゃわちゃした温泉旅行だったのだが。


 「おじさん、どうかよろしくお願いします。」

 「お母さんが急に行けなくなったけど、大丈夫ですっ。」

 「お母さんから撮ってきて欲しいものなどは聞いているので、行きましょう。」

 才良ちゃんはいい笑顔で俺に笑いかけてくる。


 確か高校を卒業したくらいだったか、俺より10cmくらい背が低い。

 スレンダーな体型で、ジャージが良く似合っている。


 小さなリュックサックを背負うと年齢より幼く見える。


 ちなみに友生さんは才良ちゃんよりさらに10cm背が低い。


 忘れ物が無いか確認する才良ちゃんの後ろで、友生さんは笑顔で手を振った。

 「すみませんが、よろしくお願いしますね。」


 助手席に才良ちゃんを乗せて、俺は車をスタートさせた。


 「まず、この空港のハチミツを確保だな。」

 「ええと、ハチミツを2本買ってきてだって、お母さんホットケーキが好きだから。」


 空港入り口からエスカレーターを上がって、売店に行く。

 この空港のハチミツは売っている期間が短く、さっぱりした甘味が良いと評判だった。

 容器に入れられたハチミツを2本と、紅茶用のパックのハチミツを買っておく。

 ふと気がつくと、売店に才良ちゃんの姿が見当たらない。


 売店の外に出ると、空港の食堂のメニューを見ている才良ちゃんの背中を見つけた。

 「ん、どうした?」

 「おじさん、カレーライスが美味しそうなんだけど、食べて行きませんか?」


 「あ,このカレー美味しいです。」

 「そんなに食べて大丈夫?この後予定の店に行くんだけど。」

 「大丈夫,大丈夫、1時間あればお腹減りますし、余裕です。」

 笑顔で俺の質問に答えながら、カレーライスを頬張っていく。

 地元産の和牛を使ったカレーライスは、この食堂の人気メニューの一つだ。

 牛肉の旨味が強く、地元産の米も美味しい。


 「おじさんはゆず塩ラーメンですか。朝ラーメンもいい感じですね。」

 地元産の柚子の風味が効いたラーメンは重たくなく、塩味が身体に染みる。


 「おじさんだからね。朝からご飯がっつりはちょっと。お昼は豚カツの予定なんだけど大丈夫?」

 「大丈夫です、カレーは食べ慣れてるし、旅行の準備を早起きしてしたので、朝ごはんが早かったんです。」


 「ふふ,お母さんがこの事を知ったら、食べ過ぎだって怒られたかも。」

 「うん、友生さんが頬をぷくって膨らませそうだ、そんなところも可愛いけど。」

 「お母さんがいない時は、ほんと正直ですね。」

 「まあ、近くに友生さんが居るとまだ緊張しちゃうけどね、ただ、いつも友生さんの事を頭の片隅で気にかけているのは間違いないかな。」

 「で、帰り道にここのハチミツピザを友生さんにお土産に買って帰ろうかと思うんだけど。」

 「お母さん甘いもの好きだし、喜ぶと思います。」


 「うう、もう食べられません。」

 目の前に3分の1残る豚カツを見て、才良ちゃんが顔を顰める。


 「いや、旅行の目的の一つがこれだし、ゆっくりでいいから食べてちょうだいよ。」

 「美味しいのに、もう手が動きません。」

 可愛らしい顔を残念そうにしている。

 空港から1時間、カレーライスの消化は間に合わなかったようだ。


 自社で育てた特別な豚肉の豚カツ。

 噛み締めると、じゅわ、と肉汁と脂身の旨味が口の中に広がる。

 ご飯と味噌汁、コールスローサラダ、きゅうりの漬物に、メインの豚カツはボリューミー。

 お値段はお手頃で、地元で大人気の店だ。


 「店に入る時は余裕だって言っていたじゃないの。」

 「豚カツ定食と言ってもランチだし、そんなに量はないかなと思ってました。」

 仕方がないので残った豚カツを引き受ける。


 「せめてご飯と味噌汁はきちんと食べてくれ。」

 「うう,わかりました。」

 「友生さんが居たら、お残しはだめですって、指を立てて怒られてると思うよ。」

 「そうですね、ご馳走様です。」


 友生さんのためにコラーゲンしゃぶしゃぶセットの配達をした。

 届いたら喜んでくれるだろう。


 「おじさん、車フラフラしてます,フラフラしてますって!」

 「あ,ええっつ。」

 助手席で慌てて俺の肩を叩く才良ちゃんの、高音の叫び声に目を見張る。

 うとうとしていたようだ。


 「大丈夫ですか?」

 「いや、昨日はちゃんと寝たんだけどなあ。」

 対向車がいなくて良かった。

 「次のサービスエリアで休憩しましょう。」


 サービスエリアに駐車して、車の脇で身体を伸ばす。

 屈伸運動して、膝の痛みに気づく。

 少し寒くなってきた季節、腰と膝の古傷が痛む。

 「身体労らんとなあ。」

 自分が歳を重ねたことを自覚する。


 「はい、飲み物買ってきました。」

 黄緑色の缶に入った飲み物を渡される。


 「え、冷たくて甘めのコーヒー頼んだよね?」

 「眠気がある時にはこれが1番です。」

 エネルギードリンクは初めて飲むんだが。

 カフェインがえらいことになりそうだ。


 「もう少し距離ありますし、これがお勧めです。」

 才良ちゃんに上目遣いに見つめられれば、仕方がない。

 ドリンクを三分の一ほど飲んで、両手で頬を叩いた。


 交通事故なんて起こしたら、友生さんに合わせる顔がない。

 安全運転で行こう。

 脳裏に、腕組みをして『うんうん。』と頷く友生さんの姿が浮かんだ。


 カーナビを確認して、才良ちゃんが声をかけてくる。

 「おじさん、お母さんはこの先の水族館の画が欲しいみたいです。」

 「水族館か、若い女の子とおじさんの2人で水族館というのも場違いな気がするけど。」

 「お母さんから資料を預かっていますから、私が画は撮りますから、おじさんはついてくるだけで良いですよ。」


 国道沿いの水族館は、イルカのヒレ?海の波?のような形の、国道を跨ぐ橋を支えるワイヤーの支柱が目を引く、田舎には珍しい立派なものだ。


 じっと水槽の中を見つめる。

 砂地から美しい曲線を描く、可愛らしいフォルム。

 まず正面から反り返りを眺めた後、屈んで下から見上げるように顎の下を眺める。

 次に自分の位置を変えて、魚の背面からの模様を楽しむ。

 チンアナゴ、可愛い。

 魚の目は怖い感じのするものがあるが、このつぶらな目はたまらなく可愛い。


 「おじさん、この水族館の目玉はイルカなんですが。」

 「私もう大体見て回りましたよ、一つの水槽にどれだけ釘付けなんですか。」

 いつの間にか水族館の撮影を終えて、才良ちゃんはジト目でこちらを見てくる。


 休憩の時に飲んだドリンクのせいか、俺の目が冴えて、魚の見え方が今までと違う。

 ついつい入り口近くの水槽に夢中になって、まわりが見えていなかった。


 「おじさーん、聞こえてます?」

 ポスポスと才良ちゃんに背中を叩かれて我に返った。


 「お母さんが居たら無視しないでって怒られてますよ。」

 「そうだね、友生さんに嫌われたくないから気をつけるよ。」

 「滅茶苦茶真顔になりましたね、私と二人っきりの時と、お母さんと一緒に3人でいる時とのおじさんの態度の差を強く感じます。」


 山の近くの温泉宿に着く。

 おじさんと、リュックサックを背負ったジャージ姿の女の子の2人の旅行。

 あまり見ない取り合わせだと思う。


 受付で3人から2人に予約の人数を変更して、部屋とご飯の調整をした。

 横を見ると才良ちゃんのジャージのお腹がぽっこり膨らんでいる。

 晩ご飯の時間は宿で頼める一番遅い時間にした。


 部屋に入ろうとしたら、びしっと俺の目の前に才良ちゃんの可愛らしい手のひらが出された。

 「あの、まず私が部屋の中の画と、窓からの景色を撮ったりします。」

 「おじさんは入り口脇に荷物を置いて、少し売店とかで時間を潰してきてください。」


 売店の品物を眺める。

 定番の温泉饅頭は抑えるとして、他に何か。

 ノドグロの干物がいい感じだ。

 温泉の素もいいな。

 薔薇を使ったドリンクもあるのか。

 ノドグロの干物以外にも、炙り丼セットもあるのか。

 友生さん専用に温泉の素、薔薇のドリンク、でノドグロは干物と炙り丼セットを3人前ずつ、友生さんの家にお土産に送っておこう。


 頃合いを見て俺は部屋に戻る。


 部屋の上り口と中を仕切る襖の前で、襖を開ける前に才良ちゃんに声をかける。

 「戻ったよ、入って良いかな?」

 「あ、おじさん、どうぞ。」


 俺が部屋に入ると、才良ちゃんは矢羽模様の薄紫色の浴衣を着ていた。

 細身の身体に浴衣がよく似合う。


 俺は才良ちゃんの頭を軽く小突いた。

 「おじさん、痛いですよ。」

 「うん、さよちゃん、正座。」

 「え。」

 「座布団の上に正座。」

 ちょこん、と正座する年頃の娘さんに注意する。


 「何をしていたのかな?」

 「温泉に入る前に、まだお腹が苦しかったから、少し運動を。」

 「浴衣姿で?」

 「はい,浴衣姿です。」

 「俺は部屋に入って良いか聞いたよね。」

 「ええ、どうぞって言いました。」

 「部屋の襖を開けたら、2枚並べた座布団をマットがわりにして激しく腹筋運動をする、浴衣姿の若い女の子を見ました。」

 「はい、この時のおじさんの気持ちをどう思う?」


 才良ちゃんは滑らかに頭を下げた。


 「すみません、でも、浴衣の下にもきちんと着ていますし、迷惑じゃないと思って。」

 「浴衣がかなりはだけてたからびっくりした。」

 「スポーツジム用のシャツにスパッツだから大丈夫ですって。」

 「友生さんにこの話をしたら、はしたないってぷるぷる震えて怒ると思うよ。」

 「もし一緒に居たらお母さんは私の足を支えてくれてると思いますよ、おじさんなら私が腹筋するのを見られても問題ないですって。」


 「ところでおじさん、お茶を淹れておきました。茶菓子もありますよ。」

 よく気がつく子である。

 何とか話を変えようとしているのはバレているが。

 お茶の入れ具合が良い。

 抹茶風味の茶菓子によく合っている。


 俺も浴衣に着替えようとしたが、少し丈が短いようだ。

 仕方がないので、普段から準備している薄手のシャツと短パンのパジャマに着替える。

 「おじさん、ちょっと風情がないんじゃないですか?」

 「いや、ゴロゴロするには丁度いいんだよ、寝そべっても楽だし。」

 運転で疲れた身体を和室の畳に横たえる。

 ゴロゴロと身体を揺らして解す。


 「ああ、いいですね。」

 才良ちゃんが俺の隣にうつ伏せになると、浴衣越しに才良ちゃんの身体の曲線が際立つ。

 「こら、さっき浴衣ではしたないことはしないよう言ったじゃないか。」

 浴衣が崩れているから、太ももが裾から出ている。


 才良ちゃんだからまだ良い。

 ただ、もし友生さんがこの場にいて同じような姿勢になっていたら。


 『私を見ても変わらなかったおじさんの表情が、突然かなりだらしなくなりました。』

 『本当に、考えがわかりやすすぎです。』


 透明なお湯にゆっくり浸かる。

 晩ご飯を遅めにしたから、先に身体を洗っておく。

 仕事をしているであろう友生さんには悪いが、とても気持ちが良い。


 「友生さんは温泉、楽しみにしていたのになあ、仕事だから仕方がないけど、残念だ。」

 時間が早いので男湯には自分一人しかいない。

 思わず愚痴が出てしまった。


 「お母さんとお風呂一緒するつもりだったんですかー。」

 「3人での予約の時にはお部屋が部屋風呂付きだったのはそういう意味ですかー。」

 女湯も一人だったのか、仕切りの壁の向こうから才良ちゃんの声がした。


 「いや、下心が全く無かったということはなきにしもあらずというか、ありましたと白状した方が良いのか。」

 「おじさん、動揺がごまかせてないですよ。」

 才良ちゃんが呆れているのがわかる。


 呆れながらも笑っている友生さんの姿が脳裏に浮かぶ。

 もちろん、友生さんは服を着ていた。


 晩ご飯の会場で席に着く。

 「凄いですね。」

 才良ちゃんが驚きの声をあげる。

 俺も温泉宿の会席料理がテーブル上に並ぶのを見るといつも圧倒される。


 「ビールと、飲み物何にする?」

 「ええと,じゃノンアルコールビールで。」

 「俺も酒は控えておこうか。」

 飲み物が配られたので、お互いノンアルコールビールのグラスを手に取る。

 ガラスの高音が響く。

 「うえ、苦い。」

 初めてだったのだろうか。

 ちょろっと舌を出して可愛い反応をしている。

 「ノンアルコールビールでも、味はビールに近いから。」

 「お母さんが居ないからチャンスと思って。」

 チャレンジ精神は認めるが、才良ちゃんの為にウーロン茶を追加で注文する。

 才良ちゃんの残したノンアルコールビールは俺が飲むことにした。


 「会席料理はお酒のつまみが初めに来るから、塩気が強い。」

 「食べ慣れない松前漬けや酒盗などは厳しいだろう。」

 「ちょっと味を見て駄目なものは貰おう、代わりにお刺身と茶碗蒸しをあげよう。」

 才良ちゃんが前菜の全てを俺に差し出してきたので、少し罪悪感がある。


 「あ、お刺身美味しい。」

 「和牛焼きも良いな。」

 それぞれのペースでゆっくり味わう。


 日本海の新鮮な海の幸、美味しい。

 刺身はぷりぷり。

 焼き物の鯛、海苔風味のタレが特徴があり、珍しくて美味しい。


 天ぷら、海老も鱚も野菜もさっくりと揚げ加減が良くて美味しい。

 地元産の和牛の溶岩焼き、旨味が強い。

 宿の手打ちの地元産の蕎麦、喉越しも風味も抜群だ。

 


 「お母さん、何か食べたかな?忙しいと栄養ドリンクでご飯を済ませるから心配です。」

 「明日は仕事が終わってなくても何か美味しい物を差し入れよう。」

 才良ちゃんと2人で旅行しているが、お互いふとした事で友生さんを思い出す。

 ふと、友生さんがコーヒーを飲みまくりながら必死に仕事をする姿が俺の脳裏に浮かんで、切なくなった。


 俺は晩ご飯を食べて後一休みし、再度温泉へ向かう。

 軽く身体を流して、低温の湯船に浸かる。

 1人用の、桶風呂。

 のんびりと過ごす。

 運転で疲れた身体がほぐれていく。


 「友生さんも温泉に連れてきてあげたかったなあ。」

 何時も疲れている様子だったから、たまにはのんびり休んで欲しかった。


 才良ちゃんは部屋で資料の整理をすると言っていた。

 今日はとても資料集めを頑張っていたから、きっと友生さんも喜ぶだろう。


 温まって部屋に戻ると、布団が二組敷いてあるうちの、部屋の奥側の布団に才良ちゃんが入っていた。

 「おじさんがいつお風呂から戻るかわからないから、奥側の布団を頂きました。」

 「ああ、良いよ。朝早かったから、もう寝るかな。」

 「私はちょっとお母さんに連絡してから寝ますね、お休みなさい。」

 宿の布団がふんわりとしていて、俺は心地良く寝ついた。

 

 才良ちゃんがすごい速さでキーボードを打つ音が聞こえる。

 睡眠導入に良いリズムだ。

 写真も撮っていたし、友生さんに頼まれた資料も充分だろう。

 俺の声が聞こえた気がしたが、気のせいか。



 俺は普段通りの起床時間に自然と目を覚ました。

 旅行先でも、体内時計の習慣は変わらない。


 隣の布団を見てみると、掛け布団を蹴り飛ばし、浴衣の帯が吹っ飛んでいる才良ちゃんの寝姿が見えた。

 奇跡的に、浴衣は才良ちゃんの身体を隠す様に広がって被さっていた。


 浴衣が掛け布団の代わりの様になっているが、あまり見ない様にしないと。

 掛け布団をそっと才良ちゃんに掛けてあげ、俺は才良ちゃんを起こさない様、忍び足で朝風呂に向かった。


 朝風呂で身体を整え、宿のロビーのソファーで新聞を読む。

 朝食の30分前には才良ちゃんが目を覚ましてくれると信じている。


 俺は旅行に行くときは、宿の朝ご飯にかなりの期待を込めている。

 旅行の予約をする時、晩ご飯の内容込みで予約をするのが普通だろう。

 で、晩ご飯と朝ご飯を付けて予約した場合には、朝ご飯に宿の特色が出るのを期待するのだ。

 事前に内容が予想できない分、俺の旅の楽しみを膨らませるのだ。


 「おじさん、ご飯がきらきらしてますよ。」

 お櫃に入ったご飯の輝きに才良ちゃんは目を輝かせている。


 地元産のご飯、米の美味しさもちょっと硬めの炊き加減も素晴らしい。

 味噌汁は甘めの白味噌、青みのほうれん草の味が濃い。

 鯵の開き、肉厚で脂の旨みが良い。

 目玉焼き、白身の盛り上がりが凄いし、半熟の黄身の味が濃い。

 俺は目玉焼きは醤油派だが、この醤油、出汁醤油で美味しい。

 出汁醤油自体をご飯に直接かけても美味しいはずだ。

 冷奴、自家製と説明された豆腐はほろほろで大豆が強い。


 「才良ちゃんはご飯を食べ過ぎない様に気をつけてね。」

 すでに3杯目のおかわりをしゃもじでペタペタと盛っているが、大丈夫だろうか?


 宿の人に感謝の挨拶をして、帰り道。

 車を少し走らせたところで、才良ちゃんはうとうとし始める。

 「朝ご飯食べ過ぎたかな、眠くなってきちゃった。」

 「帰り道に寄る場所の予定は無いから、寝ていても大丈夫だよ。」

 「うん、ありがとう。」

 すぴすぴ寝息をたてる才良ちゃんを横目に、車を走らせる。


 昼時になると、ぱちっ、と才良ちゃんは目を見開いた。

 「おじさん、今どの辺りですか?」

 「あと空港まで1時間くらいかかるはず。ハチミツピザと何か持ち帰り出来るものを買って、帰ってから友生さんと遅めのお昼ご飯を食べたらいいんじゃないかな。」

 「おじさん、そこに看板が出ています。曲がってください。」

 才良ちゃんは昼ご飯の目星をつけていた。


 看板の出ていたひなびた食堂に入る。


 「うん、美味しい。」

 朝ご飯をたっぷり食べていたのに、大きなオムライスがどんどん無くなっていく。

 「ケチャップじゃなくて何か美味しいソースがかかってるんですよ、たまごもご飯も美味しいです。」

 「調べておいて良かった。」

 才良ちゃんはご満悦だ。


 俺は食堂の名前のついた丼の定食だ。

 エビフライと豚カツが、親子丼にのっている。

 エビフライはぷりぷりで、豚カツはサクサクしたところが残っている。

 親子丼の鶏肉が大ぶりで、鳥肉を食べている、との主張が強い。


 エビフライと豚カツを半分、親子丼を少し才良ちゃんの皿に移す。

 「ありがとうございます、あ、出汁が効いた玉子が絡んで美味しい。」

 よく食べられるのは良いことだ。

 デザートも才良ちゃんに進呈しよう。


 持ち帰りができたので、食堂の名物というカツサンドを友生さん用に買いこんだ。

 才良ちゃんが食べたオムライスと同じソースが入っているようで、味に期待が持てる。


 「気が利いてますねえ、お母さんも喜ぶと思いますよ。」

 「本当、一緒に来れたら良かったのにねえ。」


 家まであと30分ほど、空港の食堂でハチミツピザを買う。

 ついでに珍しかったのでハチミツ酒を1本お土産に追加する。


 「友生さんは酒は強くないけど、甘めの酒みたいだし、ハチミツなら身体に良さそうな気がする。」

 「お母さんが味見して駄目そうだったら、私が飲んでも良いですか?」

 「その時はおじさんの家に持ってきて。才良ちゃんは飲んじゃ駄目だからね、まだお酒駄目でしょ。」

 「ちぇ、分かりましたよ。」

 ほっぺを膨らませる仕草が可愛らしい。


 「お母さんは奥の仕事部屋で仕事してるはずですから、荷物を手前のリビングに運んでくれませんか?」

 自宅の玄関の鍵を開けて才良ちゃんは俺を見た。

 才良ちゃんに促され、上野家のリビングにお土産を運ぶ。


 リビングのソファーの上で、友生さんが横向きに身体を丸めて寝ていた。

 ソファーの前のテーブルには、飲みかけのリンゴジュースのグラス。

 パジャマ姿の友生さんは、子犬の様だった。

 幸せそうに寝ているが、口元によだれが垂れている。

 とても可愛らしいが、人に見せたい姿ではないだろう。


 俺は友生さんを起こさない様に静かにリビングを出て、玄関近くにいた才良ちゃんに声をかける。


 「才良ちゃん、家に戻るから、友生さんによろしくね。」

 「え、どうしたんですか?」

 「友生さんリビングにいるから、カツサンドとハチミツピザを食べさせてあげてね、じゃ。」

 「カツサンドとハチミツピザの量があるから、一緒に食べませんか?」

 「いや、ちょっと帰って荷物を片付けるから。」


 上野家の隣の自宅に俺が逃げるように戻ってすぐに、『ひゃあああっ!』という友生さんの叫び声が響いた。


 「お見苦しいところをお見せしました。」

 2時間ほどして、俺の家に友生さんが訪ねてきた。


 「いや、お見苦しいなんてそんなことは無かったですから。」

 「カツサンドは美味しく頂きましたが、ピザがあるから、おやつにしませんか?才良も家で待ってますから。」

 「わかりました、ちょっと良いジュースがあるので持ってきますね。」

 友生さんが俺の家に来た時用にと買っていた薔薇のシロップジュースを持って行こう。


 「才良がとても喜んでいました。」

 家に来る前にシャワーを浴びたのか、前を歩く友生さんの髪が少し濡れている。


 「仕事の方は終わりましたか?」

 「何とか終わって、リビングで休んでたのですが、つい寝てしまったみたいで。」

 「旅行、ありがとうございました。才良が源助さんにとても良くしてもらったと喜んでいましたし、私が頼んでいた仕事の資料もきちんとあの子が確保してくれました。」

 友生さんは微笑んで俺を見た。


 「才良が私にとても楽しかったと言うのが羨ましいので、再来週に才良が友達と高校の卒業旅行に行きますから、その時に2人で、あの、近場の温泉なんかいかがでしょうか?」

 「え、ユイさん?」

 動揺して発音がおかしくなった。

 「才良から、源助さんが旅行でどんな様子だったか聞きました。」

 「私とおじさんと2人きりで旅行したから、今度はお母さんがおじさんと2人きりで旅行して、だそうです。」

 友生さんは顔をリンゴの様に真っ赤にしている。


 「あの、源助さんが才良と泊まった宿にいつか私も行きたいな、なんて。」

 「で、才良が『自分は家から近くの大学に通うから、落ち着いたら源助さんとお母さんと3人で旅行に行きたいね』って言うんですが。」

 友生さんの頭から湯気が出ているのが見える様だ。

 「あの、その時は部屋風呂がついたお部屋とかいかがでしょうか?」

 俺は思わず天を仰いだ。













美味しいものと温泉で幸せ。


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