第八回
じっとしていても体の芯まで漂白されそうな眩い光が、天井から音も無く降り注ぐ。
これでは居眠りどころか、ふと脇に目を逸らす事すら躊躇される有様である。
いつもと変わらぬ職場の環境に辟易しつつ、大成は机上のディスプレイを眺めていた。時刻は正午を少し回った所であるが、その事実を伝えるものは壁に掛けられた時計以外に何も無かったのであった。
今日も今日とて昨日と変わらず、管制室内の壁にずらりと掲げられた大型ディスプレイには受け持ち区画の『個室』の情報がびっしりと表示され、秒刻み以下の間隔で様々なデータが更新されて行く。
しかし、大成はそちらへは一瞥もくれず、自分の席に置かれたパソコンの画面のみをじっと視界に収めていた。
その時、廊下に繋がる部屋の扉が外から開かれる。
そして仕事場に戻った大前田は、部屋の奥で一人パソコンと睨み合いを続けている大成の姿を認めるなり、大袈裟に眉根を寄せたのであった。
「若者よぉ、仕事に打ち込むのは結構だが、折角の昼休みまで費やす事ぁないだろう?」
大成は眼前の液晶画面から目を外すと、何やら勿体付けて皮肉を遣した同僚をちらと垣間見る。
「今正に休憩中っすよ。わざわざ心配して貰わんでも」
何処か不貞腐れたように言葉を返した大成へと、大前田は近付いて行く。
「飯食う時ぐらい休憩室で寛いだらどうだ? こんな殺風景な所に缶詰になってねえで」
「そこまで歩いてくのが面倒臭いんです」
本当に億劫そうに言った大成の背後を回り、大前田は隣の席へと腰を落ち着けた。
「やだね、年寄り臭い事を言う奴は。そういう姿勢じゃ折角の飯も不味くなっちゃうぞぉ」
「いや、こんな物にそもそも美味いも不味いも無いでしょうが」
言って、大成はキーボードの横に置いた小さな袋を人差し指で突いた。
薄手の辞書が入る程の大きさの、何の印刷も施されていない無機質なビニールの包みが机の上に投げ出されるように置かれていた。大成は無造作にその袋へ指を差し込むと、中からショートブレッドに似た物を摘み上げ、やはり無造作に口へと運ぶ。
乾いた咀嚼音が、デスクの周りに響いた。
「何処で食ったって味が変わる訳じゃなし、て言うか、何処にいても気分だきゃ宇宙旅行って感じですわ」
「だからこそ、せめて周囲の環境を変えて誤魔化せっての。味気無い物を味気無い所で食ってると、ひたすら惨めな気分になってくじゃんよ」
ショートブレッド状の食品を頬張りながら退屈そうに愚痴を零した大成へ、大前田が椅子に腰掛けたまま無精たらしく近付いて行く。
と、そこで大前田は、大成の机に置かれたディスプレイに目を留めたのであった。
「何それ? 外の景色?」
「ええ……」
言われて、大成も眼前の液晶画面へ眼差しを移した。
机上のディスプレイには『施設』の外の街並みが映り込んでいた。一枚絵の画像と異なり、道端に顔を覗かせた雑草が時折動きを見せているのを認めて、大前田は顎先を引いて映像を注視した。
「……ああ、監視カメラの映像か。軍の連中が市街地に設置してった奴の」
そこまで言った所で、大前田はからかうような笑みを浮かべて傍らの青年を見遣る。
「幾ら退屈だからって、こんなん閲覧してると或る日突然両手を後ろに回されっぞ」
「大丈夫じゃないすか? うちらの数少ない特権で、軍のデータの一部閲覧は公に認められてんですから。保安上の理由だとでも言っときゃ咎められる事も無いでしょ」
至って平然と大成は切り返すと、大前田が肩を竦めて見せる。
「じゃ何? 不審者が『施設』の周りをうろついてないか監視してんの? 仕事熱心だねぇ」
「いや、それこそ気晴らしに。散歩でもする代わりに。学生時分に屋上で弁当食ってたのと同じ感覚っすわ」
空惚けた口調で大成は答えながら、マウスを操作して画像を切り替えた。また別の、しかし同じ崩れ掛けた街並みのライブ映像が画面上に描写される。
見た目の差異も、時の移ろいすらも見分け難い寂れた景観を見据えて、大成は目を細めた。
「これでも四月の頭にゃ花見も出来るんですよ。それで飯が美味くなるって訳でもないけども……」
言って、大成は袋から新たに摘み上げたショートブレッド状の食物に目を向けた。
「流石に三百六十五日の三食全てがこれってんじゃねぇ……」
眉根を寄せた大成の隣で、大前田が溜息をつく。
「恨み言なら甘い見通しの上に長年胡座掻いてた奴らに言いなよ。そういう風潮に疑問を抱かなかった俺らもきっと同罪ではあんだろうが……」
湿った声でそう言うと、大前田は椅子に座ったまま背凭れに寄り掛かり、徐に天井を仰いだのだった。
「かつての華やかなりし頃は、食糧自給率の低下なんてろくすっぽ顧みられもしなかった。金融と自動車産業さえきちんと回しときゃあ、んな事わざわざ気にする必要も無いってのが一般的な認識だったもんな。食い物なんか外から幾らでも買い付けりゃいい。経済が機能してる間は山海の珍味なんか選り取り見取りで、むしろそれが当たり前。こんな狭い島国で、貴重な人と時間を割いてまで食糧生産なんか推し進めた所で今更何がどうなんの?、ってな。それで今じゃこの有様だ」
白い明かりの灯る天井を見上げた大前田の両目は、随分と細く鋭いものへと変わっていた。
傍らの大成もまた、自分が今手にしている食べ物へ冷ややかな眼差しを注ぐ。
「そりゃしょうがないでしょうね。世界規模の食糧危機なんて事が実際に起こっちゃったんだから。昔の共産圏じゃないんだから、自分とこの国民を飢えさせてまで他所へ食い物を輸出したいなんて思う所も今更無いっしょ。自分らの食う物ぐらい自分らで何とかしろって開き直られたって何もおかしくないすよ」
「そんなん不義理でも不条理でも何でもねえよなぁ。相手からすりゃ至極当然の発想な訳だし、ケツに火が点く前に備えとかねえ方が悪いんだ」
大前田も突き放すように評すと、椅子の上で姿勢を戻した。
「利潤も効率も追求し過ぎりゃ自分の首を絞め上げてくだけだ。それも、やってる間は中々気付けねえんだから余計に始末が悪い」
他方、大成はショートブレッド状の食物を口に咥えると、机上のディスプレイの方へと目を戻す。
「でもやっぱ、あれっすかね? 他の農業大国は、天下のフランスなんかはこんな時でも良い物食ってられたりすんすかね?」
「どーかなぁ……あっちはあっちで片っ端から原発壊されて、全土で核汚染が深刻だって聞くが……」
「うへえ、そりゃまた難儀な事って」
大前田の言葉に、大成は気の無い相槌を打った。
それから間も無く、外へ休憩に出ていた他の職員達が続々と室内に戻って来る。休憩時間も終わりに近付いていた。
「ま、昔は格差の象徴だった食が途絶えた途端、今度は飢えこそが平等の象徴になりつつあるって訳だ。笑えるんだか笑えねんだか……」
椅子を引き摺りながら自分の机へと戻る間際、大前田が冷めた口調で言い放った。
大成は面白くもなさそうに口の中の物を呑み下すと、目の前の画像を見据える。
机上の液晶画面には、白昼の市街地の様子が今も映り込んでいる。
誰の姿も見当たらぬ空虚な瓦礫の都市が、鮮やかな青空の下に広がっていた。
そして今、大成は晴れ上がった夏空を独り仰いでいたのであった。
蝉の声が、林立する建物の壁に撥ね返って木霊する。
蒸し暑い夏の空気が充満する、そこは廃墟の只中であった。
外壁に無数の亀裂が走り、崩れ掛け、傾き掛け、或いは完全に倒壊した建造物ばかりが無惨な骸を晒す、かつての大都市の一画であった。
その中に、大成は佇んでいた。
今は灰色の作業服を纏わず、これと言って特徴も無い私服姿で、彼は人の姿の消えた都市の片隅に立っていたのだった。
振り返れば、『施設』の建つ小高い丘が朽ちたビルの間に望める。距離としてはそう遠くない筈なのに、実際に『ここ』まで足を運ぶと既に数万里を隔ててしまったかのような錯覚にすら陥ってしまう。
その奇妙な感慨が距離に根差したものか、はたまた過ぎ去った時間に根差したものか、大成にはすぐに判別が付かなかった。ただ一つ確かな事は、目の前に広がる死に絶えた街が紛いも無い現実の産物であり、刻々と時の重なり行く『現在』の有様であるという事実のみである。
大成は、足元へと目を落とした。
道路脇の歩道には、夥しい量の瓦礫が堆積していた。砕けたコンクリートやモルタル、木材の切れ端に融解した鉄骨やガラスの欠片などが、かつての歩道をほぼ隙間無く埋め尽くしていたのであった。
物資を輸送する車両が往来する都合上、車道こそ最低限の整備がなされていたが、他の小道や歩道などは殆ど手付かずの様相を呈している。完全に朽ちた街路樹が今も尚植え込みにそのまま残されているまでに。
時の流れも凝固する場合がある。
それを証明するかのような街並みを、軍の設置した監視カメラだけが見下ろしていた。
通り掛かった誰の目を通しても同様の感慨が湧くであろう。
ここは既に見捨てられた土地であるのだと。
食料の完全自給自足を喫緊の課題として国土再生計画が立案された結果、復興作業は必然的に郊外の農村地帯を基点として行なわれ、都市部の復旧は政治経済の中枢を別として後回しとされたのだった。かつて往来の絶える事の無かった都市部は戦災の跡も未だ露わなまま放置され、何処の国でも市街地の至る所には廃墟が広がっていた。
元々形在るものを何も生み出さず、実体の無い様々な数字だけが目まぐるしく飛び交っていた都市空間は、流通の激減と共にその命脈を絶たれたのであった。
それでも人々は、過去の栄華の成れの果てを目の当たりにして自らの凋落を嘆く余裕も無く、ただ明日の糧を確かなものにする為だけに一途に働き続けた。
そこで、大成は徐に顔を上げた。
彼の見据えた先、傾いたビルを二つ程跨いだ先に、未だ電灯の光を窓から吐き出している生きたオフィスビルが望める。その屋上には、付近のビルのものよりも大型の貯水タンクがふんぞり返るように設置されていた。
あれが『戦後』の社会に作られた新たな『農場』であった。
農業従事者、及びそれに関わる技術者は都市部に於ける作物の栽培に従事していた。食物の生産は国を挙げての急務であり、社会的重要度は極めて高い。郊外の農耕地は未だ復興を成し遂げられずにいる為、『戦後』の『農地』は市街地で破壊を免れたビル群が専ら活用されたのだった。
水耕栽培のプラントが在りし日のオフィス内に敷き詰められ、パソコンやプリンターのそれに代わって浄水を回すポンプの駆動音が昼夜を問わず鳴り響く。他国から食糧品の輸入が全く望めない現状、各都市に点在する『農場』は国民の生命線であり、管理と警備が徹底された事からプラントを有する都市はいつしか『荘園』と呼ばれ始めた。
『施設』の置かれたこの区画も、広義に照らせば『荘園』の一部であるとも言える。但し、そこにかつての大規模農場のような賑やかさは皆無であり、人の往来でさえ同様であった。新たな都市型農場に何より必要とされたのは、周囲の環境に左右されず常に一定の収穫量を確保する為の機密性と確実性であったからである。
人々が周期的に眠りに入る事を義務付けられた時計仕掛けの社会に於いては、生産活動に対しても活動自体が限定的である分、事前の計画に反する事柄は何一つとして認められていなかった。そして国全体が余裕の無い中で施行された窮屈な指針は、当然の成り行きとして国民一人一人の生活にも当て嵌められたのであった。
『荘園』で栽培された作物は耕作面積の問題もあって種類が限られており、戦前のように多種多様な食材を堪能する事は不可能となっていた。収穫された作物はそのまま工場へと送られ、幾つかの栄養調整食品に加工される。ショートブレッド状の味気無い加工品が国民の主食となり、それに頼る他に人々は己の命を繋ぐ術を持ち得なかった。
そうして最低限の糧を与えられた者達は続々と郊外へ赴き、各農地の再興に従事する事となったのだった。慣れぬ事でも、覚えが無い事でも、誰も彼もが無心に働き続けるより他に道が無かったのである。
限られた時間というどうしようもない足枷に否応無しに繋がれたまま、人々は地表に焼き付けられんとする影のように己の責務を果たし続けた。
幾日も幾日も、幾年も幾年も。
この先、更にどれだけの歳月を要するのかも定かでない作業を、彼らはひたぶるに行ない続けた。大戦の終結より既に七年が過ぎようとしていたが、それでも復興の見通しは未だ暗く、耕作地の除染も全体の二割程度しか進んでいないのが現状であった。
顔を戻した大成は、再び辺りを見回した。
瓦礫の中で佇む彼を取り囲むように、蝉の声が四方から鳴り響く。
過去を失くした街に、未来を見失った街に、これまでと変わらず、またこれからも変わらぬであろうその声は囃し立てるように響き渡ったのであった。