第一回
擦れ違う相手に出くわす事も滅多に無いと言うのに、無駄に広い廊下は何処までも真っ直ぐに伸びていた。
高速道路の二車線程の幅もあるだろうか。誇張抜きで車が行き来出来る程の太さを持つ白い廊下に、一つきりの足音が木霊する。
さながら、辺りは蝋石をくり抜いて作られたかのようである。床も壁も天井も、四方を囲う視界に入る全てが全き白で覆い尽くされていた。
長さだけ見れば滑走路にも使えそうな白い廊下には窓と呼べるような物は一切無く、何の装飾も施されていなければ瑕や染みの一つとして見当たらぬ無表情な外見を、消失点まで几帳面に晒し続けていたのであった。
好意的に評するのなら、清潔感溢れる様相と呼べるだろう。
否定的に切り捨てるなら、ただひたすらに窮屈である。
間取りが幾ら広かろうと余りに清潔な、換言すれば潔癖過ぎる装いというのは見る者へ無言の圧力を加えて来る。差異や違反を絶対に認めない同化圧力とでも呼ぶべきものであろうか。
何事も過ぎたるは及ばざるが如し。
こんな環境に居心地の良さを覚える者も珍しいであろう。
果てしなく伸びる廊下の奥へと、投げ出すような、不貞腐れたような足取りの音が淡々と吸い込まれて行った。
灰色の作業服に身を包んだ青年が一人、突き当りも見えぬ廊下を歩いていた。
向こうから近付いて来る者も、後ろから続いて来る者も、誰一人の姿も辺りには見当たらない。ただ遠くから囃し立てているかのように反響する己一人の足音を、その主たる青年は実に不機嫌そうに聞き流していたのであった。
接する物を強引に脱色するかのような白い照明が、煌々と辺りを照らす。事実、床も壁も天井も、種々の色味を余さず吸い上げられてしまったかのように純白に照り返り、今その中を歩むこちらをすら漂白しようと、表情の無い様相を淡々と晒し続けていた。
無限に続くようにさえ見える幅広の廊下は静まり返っており、その果てへと刻々と吸い込まれては消えて行く足音が余計に寂寞を強調した。
せめて何かの音楽でも掛けておけばいいものを、と青年は不機嫌そうな面持ちの裏で愚痴を零した。
若しくは、あからさまな白々しさは感じるにせよ、小鳥の囀りや動物の鳴き声などの環境音を流せばこちらの足取りも少しは軽くなるだろうに。
この次に職場アンケートを提出する際、ノイローゼを装ってその辺りの要望を強引にでも呑ませてやろうか。
白けた調子で響く他ならぬ己の足音を聞き流しつつ、如何ともし難い鬱憤を胸中に蟠らせていた青年は、そこでふと息をついたのであった。
誰もいない空間で独りで腹を立てている自分の有様が、急に馬鹿馬鹿しく思えて来たのである。
次いで、彼は無性に疲れを覚えたのであった。
つまらない事でこれ以上頭を悩ませていても仕方が無い。どうした所で今更、自分達の毎日が明るく軽やかなものへ変わる道理も無いのだ。小手先の小細工で救われる程、現状に対するこちらの認識が軽い訳でもない。
そう結論付けた青年は、徐に首を横へ巡らせた。
光沢ある白い壁に、他の誰でもない己の姿が映り込んでいる。わざわざ汚す者もいないのだから当然ではあるが、鏡面のように磨かれた壁面には、黙って歩を進める彼の姿が投影されていたのであった。
灰色の作業服を着込んだ何とも冴えない男の姿が、嫌味なまでに煌めく白い壁に映っていた。作業服自体が何ら目立つ所の無いありふれた代物である事を差し引いても、往来で擦れ違ったとて誰も気に留めぬであろう。
壁面に映る虚像と並んで歩く内、園田大成は不機嫌な面持ちを更に顰めて行った。
何とも冴えない面だ。
やはり、メリハリに欠けた毎日を繰り返していると、顔形にも影響が出て来るものだろうか。或いは、周りが時折愚痴を零しているように、この建物の中にいると徐々に生気を吸い上げられてしまうのだろうか。
軽い溜息の音が、廊下に撥ね返る足音の間に差し込まれた。
そして灰色の作業服を着た青年は、未だ先の見通せぬ白亜の通路を独り進む。
床や壁に反響する己の足音に先導されるようにして。
扉を開けた大成を、控え目な喧騒が出迎えた。
バスケットコートがすっぽり収まる程の広さの一室が、灰色の作業服を着た青年の前に広がっていた。外の廊下と同様に窓の設けられていない室内には、壁面をぐるりと囲うようにして大型の液晶ディスプレイが掲げられ、様々な数値やグラフがびっしりと表示されている。
そして、諸々のディスプレイに環視されるように部屋の中央には六つの机が並べられ、同じ数の職員が各々の席で自身の作業に没頭している所であった。
大成と同じ灰色の作業服を着た者達が、それぞれの机でそれぞれに手先を動かしている。特に賑やかな活気が満ちている訳でもなく、張り詰めた緊張感が湛えられている訳でもない。
敷居の前に立った大成は、いつもと何ら変わらぬ職場風景を冷めた眼差しで捉えた。
戸口へ掲げたIDカードを戻すのと一緒に、湿った吐息が自然と湧いて出る。耳元へ微かに届く空調の駆動音が、室内に満ちる乾いた空気を一層際立たせた。
開け放たれた扉の脇には、『第七管制室』と書かれたプレートが威張るでもなく掲げられていた。
ややあって、大成は敷居を跨いで部屋に入ると、所定の位置へと向かった。
広い室内では灰色の作業服を着た五人が机上のディスプレイと銘々に向かい合っており、特に誰と口を利く事もせず、新たに部屋へと入った青年は黙々と歩を進めた。
間も無く、最後列の角の席に大成は腰を下ろしたが、そこへ殆ど間髪を入れず横合いから声が掛けられる。
「よう。何だ、寝坊したのか?」
場に湛えられた空気に頓着しない、陽気な声であった。
「誰の所為だと思ってんですか」
相手につられてか、少し明るい口調で大成は答えた後、右隣の机へと苦笑した顔を向ける。
先の声色と相違せぬ、実ににこやかな笑顔を覗かせた壮年の男が、彼の隣に座っていた。
如何にも愛想の良さそうな人懐っこい顔、とでも評すべきであろうか。
詳しく訊ねた事は無いが、年齢は四十の後半に差し掛かっていると思われる。寄る年波には勝てぬ故か目尻には小皺が生じ始めていたが、それが却って相手の人当たりの良い雰囲気を強調するのだった。
男の名は、大前田玲と言う。
この『施設』に配属されて以来の同期であり同僚である壮年の男へ、大成は少し遅れて相好を崩して見せた。
「夜通し笑いこけてましたよ。三席ぐらい一気に聞いたんだったかな。落語ってのも真面目に聞いてみると面白いもんなんですね」
「だろ? あの話術は独特だよ。枕の語り口なんか、上手い人は本当に上手いからな」
大成の言葉に、大前田は嬉しそうに首肯した。
「やっぱ娯楽は心の滋養だよ。来る日も来る日も塞ぎ込んでばかりいちゃ体にも良くない。一日に一度は声を上げて笑わなくちゃあ」
「ええ」
机のパソコンを立ち上げつつ、大成も頷いた。机上に並べられた三つの液晶画面が読み込みを表示する前で、大成は徐に視線を持ち上げる。
「……何てんですかね……ドラマとか映画とかの映像を見てると、何かその内段々悲しくなって来んですけど、ああいう音声データだけのを聞いてる分にはそんな事も無くて、逆に身の周りが僅かでも賑やかになってくような気がして来るんですよ。不思議なもんですけど」
「ああ、皆そう言うね。今じゃテレビよりラジオの方が暖かみがあるって。俺も最初は半信半疑だったんだけども、実際体験してみるとなぁ……これがノスタルジーって奴かと思う訳よ」
何やら感慨深そうに述懐した大前田の隣で、その時、大成は真顔に戻って相手へと問い掛ける。
「それで、何か引継ぎは?」
問われた大前田も、笑顔を引っ込めて応答する。
「んー……特に無い、かな。少なくとも、夜勤の連中からは何も聞いてない」
「断線とか漏水とかも無しって事で?」
「ああ。その辺りは先週点検したばっかだからなぁ。そうすぐにトラブルが出て来られても困る」
大前田が蟀谷の辺りを掻いて言った後、顔を顰めた。
「いや実際大変だったじゃん、こないだの断線騒ぎの時なんかも。全部の階の配線を一つずつ確認して回る羽目ンなって」
「あー、ありゃもう思い出したくないっす……」
大成も苦い口調で答えた時、彼の目の前で画面の表示が切り替わる。
そうして、彼は画面上に示される諸々の数値に目を通し始めた。
「んじゃ、今日も全て世は事も無しって事で」
「ああ。俺らの頭の上からは、神様はとっくにいなくなってるかも知んねえけどなあ」
言いながら、大前田もまた椅子を引き摺って自分の席へと戻った。
程無くして、広い室内にはマウスのクリック音とキーボードの入力音が満ちるばかりとなった。灰色の作業服を着た男達は、大成を含めて談話を交える事も無く、それぞれの作業に没頭する。
壁に掲げられた無数の大型ディスプレイが、音も立てずに明滅を繰り返した。