2.家出と、お祖父さまが遺してくれたもの
執務室の真下に食堂がある。階下からなにかきゃあきゃあとわめく声が聞こえて、私は執事のセバスティアンと顔を見合わせてため息を吐いた。
「またお金がないだのなんだの騒いでいるのかしら…」
「まこと、救いようのないことで御座います」
「ふふっ、セバス?一応当主様たちご家族にそのような物言いは不敬よ?」
「おおっと、これは失礼をば」
セバスティアンはお祖父さまの代からの忠臣だ。いや、忠臣だった。お祖父さま亡きいまではもう完全にこのニール家を見限っている。
「さて…と、これで全員分の紹介状が出来上がったわ。一応それなりに名のある伯爵家だから次の雇用に問題はないと思うけれど、ニール伯爵家が貴族から除籍される前には仕事を見つけるよう伝えてね。没落前と没落後じゃ、雇われる方も体裁が違うわ。これから議会がどういう判断を下すかはわからないけれど…もしかしたらうちに勤めていたことで、新しい雇われ先で文句を言われることもあるかもしれない。…それは本当にすまないと皆に伝えてて頂戴な」
「…お嬢様が、ここまでしてくださらなければ全員路頭に迷っていたことでしょう。使用人一同、お嬢様には感謝しているのです。…ろくにお仕えもしなかった輩にも慈悲を施してくださって」
「あの癇癪持ちのリリーの命令だもの。私の身の回りの世話をするなと命じられても断れなかったんでしょう?私は全然気にしてないから、気にしないでと伝えてね。セバスティアン…あなたも本当にありがとう。これからどうするの?」
「もう老体ですからね…どこか保養地にでも行ってのんびりと畑でも作って過ごすことにします」
「そう、あなたのこれからの日々が健やかであることを願っているわ」
お祖父さまが無くなって一か月とちょっと。その間に、あの三人はすべての財産を使い果たした。もう今月使用人たちに払えるお金すらない。
これからどういう末路を辿っていくかはわからないけれど、没落は免れないだろう。もともと、ニール伯爵家にあてがわれた領地(フロイラという名前なんだけど)はお祖父さまが一人で切り盛りしていた領地だったのだ。父上に当主の座を渡した後も実質この領地の経営を担っていたのはお祖父さまだった。
お祖父さまが私とセバスティアンにだけ遺していた遺言に基づいて領地は国に返還する手続きを進めていた。こんな伯爵家に管理されるとか領民は地獄でしかないからだ。
お祖父さまもとっくに見限っていたのだろう。それでも、この屋敷だけは父上たちのために遺していくとの遺言もあったから、あとは自分たちでどうにか立て直して行けとのことなんだろう。
「お嬢様は、今夜行かれるのですか?」
「ええ、馬車の手配に最後まで手間取っていたんだけれど、やっと昨日の夜信用できそうな相手に頼むことが出来たから」
「おや、警戒心の強いお嬢様が珍しい。爺がどれだけ言っても馬車の手配はさせてくださらなかったのに」
「ごめんね、セバスティアン。でも、あなたに令嬢誘拐などの嫌疑がかけられたら堪ったものじゃないもの」
「…そこまで気にしなくてもいいですのに」
そこまで言って、セバスティアンはじっと私を見つめた。
「どうしたの?」
「…セバスティアン・クロウ。これでも数十年執事をしてまいりました。各方面それなりに顔が効きます。ルーシュ様が困られていたら、すぐにでも私にできるすべてを使い、あなたの助けになります。困ったことがあったら、爺を御頼り下さるとお誓いください」
真摯なセバスティアンの顔に、泣きそうになる。ああ、この家にお祖父さまとのこと以外いい思い出はあまりないけれどちゃんと味方はいたのだ。
「ありがとう、セバスティアン。約束するわ。何かあったら必ずあなたを頼る」
「約束です」
そう言って、セバスティアンは右手を私に出してきた。握手を求められて、それに応じる。
「お嬢様のこれからのご健勝とご多幸をお祈り申し上げます」
「ありがとう、私からも同じ言葉を返すわ」
―――――――
その日の夜中。私は小さなトランク一つを手に取り、本邸をそっと出た。
そして、本邸のすぐ隣、別邸へと足を運んだ。ここはお爺様の屋敷。本邸と違い質素に作られたそこはでも、私とお祖父さまの思い出がたくさん詰まった場所だ。
お祖父さまが無くなって一か月。
お祖父さまがいつもいた執務室に入る。掃除の行き届いていないそこは埃っぽかったけれど、たくさんの本が並べられていて、その黴臭さと紙とインクの香りに、たくさんの思い出が沸き起こってきて、涙が出そうになった。
お祖父さまがいつも座っていた机にそっと触れる。
「お祖父さま。…私、参りますね。今まで本当にたくさんたくさん、ありがとうございました。お祖父さまを置いていく非礼をお許しください。…大好きでした」
ぐ、っと目を瞑る。
いつも膝に乗せていろんな話をしてくれた。薬草のことをたくさん教えてくれた。本を読むだけでは得られない知識を全て全て私に託してくれた。たくさんの薬の作り方を教えてくれた。一人で生きて行けるように生きる術を教えてくれた。大好きな、大好きな祖父。
「…さようなら」
そうして、私はニール邸を後にした。
―――――
約束の場所に着くと、ウインターがいて、私はびっくりしてしまった。馬車を手配してくれるだけでよかったのに。
「ウインター、あなたわざわざ来てくれたの?」
「…あ、えっと、はい。一応、あの…見届けなきゃと思って」
「なぁにそれ。律儀ね。でも、ありがとう」
「その…お礼も言いたくて。お金の件、ありがとうございました…。会頭からも、よくやったと…」
「ふふ、それならあなたに貸し一、になるのかしら?」
「はい…!あの、なにかあったら、僕もできる限り、力になるので…」
冗談で言ったのにまさかのマジで返されるとは思ってなかったわ。まぁ、でもここで商会と何かしら繋がりを作っておくのもいいのかもしれない。
「わかった。じゃあ、何かあったらあなたを訪ねるわ。ありがとう」
「…約束です。あの、気を付けて」
ウインターは最後までおどおどしていたけれど、その瞳は優しくて、誠実な人だった。こんなひどい状況だけど良い出会いがあったことに少しだけ嬉しくなる。
「ウインターも、これから立派な商人になっていってね」
「はい、…お約束します」
最後に軽く握手をして、私たちは別れた。
御者に行先を告げると、馬車が動き出した。ふう、と息を吐く。これからどうなるかわからないけれど、きっと大丈夫。
馬車が向かったのは、ニール伯爵家が管理していたフロイラの中でも極々小さな町、ハビトゥスだった。比較的のどかな土地だが、王都には馬車で十数分という近さで、利便性の高い土地だった。それでもニール家からは馬車で揺られて三時間という道のりだったため、疲れていた私は眠りこけてしまった。
「お嬢さん、お嬢さん、ハビトゥスに入りましたぜ」
御者から起こされたとき、うっすらと日が昇っていて、世界が白明かりに満ちていた。ぼんやりした頭の中から覚醒するのに少しだけ時間が掛かった。
「ああ…朝になったのね」
「はい、ここからどこに向かいましょう?」
「…ここでいいわ。ありがとう。長い道のりをごめんね?お代はいくらかしら?」
「ウインターさんから、釣りは要らねえってことでたくさんいただいてるんでお代は大丈夫ですよ」
「あら、まぁ」
ウインターは私が渡したお金の中から馬車代まで払っていてくれたらしい。
馬車を手配するのに使ってと言って渡しただけなのに、運賃代まで出してたら、彼の手元にはあまり残らなかったのではないかしら?…でも、やっぱ誠実な人だったんだなぁ、と私は嬉しくなる。
馬車を降りて、私は目的の場所へと歩き出した。
やがて、一軒の家の前で立ち止まる。赤いレンガでできた、小さいけれど一人で住むに十分な広さの、私のお城。
トランクから鍵を取り出し、木でできた扉の真鍮の鍵穴に差し込む。かちゃり、と音がして扉はすんなりと開いた。
家の中に入って大きく息を吐いて、中を見渡す。小さなテーブルに、小さな椅子が一つ。ベッドとお気に入りの本が並ぶ本棚。小さな戸棚。この部屋で私は基本的に生活していくことになる。
そのまま歩いて、奥の扉を開く。むわっと乾燥された薬草の匂いがむせ返る。ああ、私の大好きな大好きな匂い。薬草の調合場。すりこぎや石臼。沢山の瓶詰された薬草たち。
調合場をすり抜けて、もう一つの扉を開ける。ここは家の裏口につながっている。眼前に広がる広大な薬草畑。―――私の宝ものたち。
お祖父さまは生前、私に言っていた。自分が死んだら、恐ろしいくらいの速さでニール家は没落するだろう、と。元々薬草だけを触っていたかったお祖父さまは、没落した時は没落だ、とさほど貴族籍を持つことに執心していなかった。
ただ、私の身だけは案じていてくれた。
あの三人はいい。痛い目を見ないとわからない。だがお前は違う。こんなに聡明で可愛いお前が路頭に迷うなど考えたくもない、と。
それで、生前私にお祖父さまはこの家と広大な薬草畑を、私名義で準備してくれたのだ。薬草学は扱える人間が少なく重宝されるため、薬さえ作れれば生計を立てていくことが出来る。その効能が実証されればなおのこと。
お祖父さまの調合した薬は効能一つとっても、どこの薬よりも優秀だった。その知識をそのまま私に授けただけではなく、お祖父さまはここハビトゥスで販路まで整えてくださった。
すべては私が一人で生きて行けるように。
そしてもう一つ、お祖父さまが私に遺してくださったものがある。これだけは、何があってもなくしてはいけないから、ニール家の屋敷に置いていたことはなかった。だってすぐリリーが私の部屋物色しに来てたしね!だからまだ使ったことはない。
私は部屋の中に戻り、戸棚の一番上の引き出しを開けた。そこに置いてあるものを見てニヤニヤが抑えられない。
――――王立図書館使用許可証。ルーシュ・ニール―――
お祖父さまが、生前王宮に申請してくださっていたもの。本来ならなかなかもらえるものではないけれど、お祖父さまはかつて流行り病のときにそれを収めた。王家はそれを未だに感謝していて、恩義を感じているらしい。それで、この使用許可証も比較的簡単に取れたという。
王立図書館の蔵書数は大陸一と言われている。一生かかっても読み切れない量の本が置いてあると聞く。もう今から楽しみすぎてどうにかなりそうだ。
執務からも、あの屑みたいな家族からも逃れて、大好きな薬草を触ってのんびりと薬を作って働きながら、図書館でのんびりと読書を楽しむ日々。
もう貴族じゃなくなるだろうし、婚姻とか淑女教育とかそういうのぜーーーーんぶ気にせず!
ルーシュ・ニール。これからのんびり生きさせていただきます!!!!!