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「キキョウ。――キキョウ、どこ?」
「母上。こちらです」
ふさふさとボリュームのあるドレスの裾を優雅にさばき、扉の影から妙齢の貴婦人が現れる。
黒い騎士服。白のハーフマント。金鎖が弧を描くマント留めで胸元を飾る青年は控えめに応じ、長い廊下をゆく足を速めた。「どうしました」
王城は現在、祝宴のさなかにある。
自分は王太子殿下付きの近衛騎士として、今夜の主役である彼らの身辺に侍っていた。
無論、れっきとした伯爵子息という立ち位置もあったけれど。今日という日は、王太子殿下と妃殿下の側に居たかったという思いがある。
母と呼ばれた婦人――ミズホは、さりげなく辺りに視線を滑らせた。
ここには大した物陰もなく、誰も隠れようがない。壁燭台に照らされた、まっすぐな幅広の通路があるだけ。自分たち母子以外にいるのは、通路の両端にある大扉を守る衛兵のみ。
が、彼らは役目に忠実な王国兵であって、幸い間諜などではない。
だからこそミズホは息子をこの場所へ呼び出したのだ。
ミズホは長身のキキョウに近寄り、そっと扇で口元を隠した。念には念を入れ、遠方から唇の形を読ませないため。不必要に声を響かせないためだった。
「あなた、このあと抜けられる?」
「なぜ」
「こんな素晴らしい、晴れの日に申し訳ないのだけど。良からぬ噂があるのよ。近郊で蠢くカゲがあると」
「『カゲ』ですか。近郊とは、王都の?」
「聖エレナ巫女院よ」
「ああ……」
思わず返事から力が抜けた。
母が告げた場所は、キキョウもよく知っている。どころかこの三年の間、わりと定期的に訪れている。
表向きは母の私用。裏向きには重要な『業務』の一環として。
渋い顔つきになった息子を、母はひたと見つめた。
今度はキキョウが声をひそめる番だった。
「あのかたが、何か?」
「正確にはあのかたではないわ。接触を図ろうとする、出入りの商人がいると」
「…………いつもながらの仕事ぶり。お流石ですね、エヴァンス伯爵夫人」
「茶化す余裕がおありなら、すぐに出られるわね。結構なこと。では、よろしく頼みます」
「うえぇ」
ぱっ、と扇の影から紙片を袖口に捩じ込まれ、キキョウはそれを注意深く抜き取った。目立たぬよう左手に握り込む。
やがて、「王太子ご夫妻には伝えておくから、日の落ちないうちに行ってらっしゃい」と微笑んだミズホは、来たとき同様の軽やかさで去ってしまう。
容赦なく所用で送り出されるらしい近衛騎士を、出口側の兵は哀れみの表情で労った。
「お疲れ様です、キキョウ殿。いまのは……?」
「騒がせてすまない。私の母なんだ。久しぶりの王都だからと、回りきれない場所は息子に向かわせようという魂胆らしい。さっそく頼まれてしまった」
「大変ですねぇ」
「まあね。――と、いうことで通るよ。今夜中には戻れると思う」
「お気をつけて。ご存知でしょうが、城下は民でごった返しています。警らも増やしていますが」
「だろうね。ありがとう」
* * *
こんなとき、稀有な“転移魔法”を持つ主の王太子殿下なら、一飛びでかの巫女院に辿り着けるのだろうか……と、考えながら厩をめざす。
それから秒で打ち消した。
否。
彼は、長年焦がれた愛しい妃のためならばともかく、彼女のために力を振るうことはないだろう。
彼女は咎人だ。
三年前の夜会の折り、こともあろうに王家の人びとを意のままに操るべくワインに薬物を混入しようとした。余罪は他にもある。
当時の名をルシエラ・グレアルド。飛ぶ鳥を射落とす勢いのある大商会を束ねる北方貴族、グレアルド侯爵家の一人娘だった。
なお、現在侯爵家は取り潰され、代わりの貴族らが領地と商会経営を分担して引き継いでいる。
彼女は、いまはただの『ルシエラ』。
戒律の厳しい聖エレナ院の巫女として、日々を清貧のうちに過ごしているはずだった。