脱出不可能な教室で、元カノと愚痴をこぼす
「やっと起きたのね。寝坊よ、晴渡くん」
無様にも床で寝転んでいた晴渡晴は、頭上から聞こえてきた高圧的な声で目が覚めた。
「最悪な目覚めだぜ」
声の主は見なくても分かる。因縁の相手だ。
晴渡は素早く立ち上がり、汚れたズボンをはたいた。
「あらら……ずっと寝ていればよかったのに」
真正面に佇む黒髪ロング少女――雨咲雨は侮蔑する眼差しだ。汚いものを見たとでも言うように、口元を白い手で覆い、クスッと笑みを漏らすのだ。
「生憎だが、寝るなんてできないねー。何処ぞの女が、俺を殺す可能性だってあるんだから。怖くて仕方がなくて」
「確かに、今なら晴渡くんを殺せるかもね」
売り言葉に買い言葉。
雨咲も抵抗するように吐き捨てる。
「だって、ここは密室なんだから」
「み、密室……?」
今の今まで、晴渡は意識を失っていた。
だから気が付かなかった。自分が居る場所に。
視界を凝らして確認してみる。
普段と変わらない教室。
綺麗に並べられた椅子と机。乱雑に消されたあとがある黒板。いつもと同じだ。
だが、違和感がある。視界を逸らす。
教室から見える景色は、運動場のはず。
夕暮れ時ならば、綺麗な夕日が見えるはず。
それなのに——
「…………どうなってんだ?」
今見えているのは青白い球。
月だ。超巨大な月があった。
教室から数十メートル先にだ。
その周りには、大小異なる石ころが浮遊している。真っ暗闇な世界を。ぷかぷかと。
宇宙空間という表現が相応しかった。
ていうか、それが最も近しい状況だ。
「うっ!!」
怖くなった。
家の布団で寝ていた記憶があるからだ。
気味が悪い。こんな場所から逃げ出そう。
晴渡はドアへと向かった。わざわざこんな辺鄙な場所に来る道理はない。ましてや、雨咲雨が居る場所に足を運ぶなど尚更ありえない話だ。
「ど、どうして開かねぇーんだよ!!」
訳が分からなかった。自分がどんな状況に居るのかさえ。
晴渡は踵を返し、次は窓を開けようとするのたが、それさえも不可能だった。
「お……おい。う、嘘だろ……な、なんだ」
こうなれば、やけくそだ。
タックルでドアをぶち破ってやる。
そう思い、晴渡は右肩に力を入れ、駆け出すのだが。
「無駄よ、諦めなさい」
ピシャリ。
雷が鳴ったかと錯覚を引き起こす声。
「ここからは出られないわよ」
「…………」
晴渡は立ち止まった。
既に何となくだが、察していた。この部屋から出られないと。
「別にお前の意見を聞き入れたわけじゃない。勘違いするなよ。ドアにぶつかったら痛い。そう判断したから、俺は止めただけだ。分かったな?」
雨咲の言葉を聞いて、行動を止めた。
そう思われるのは癪だった。
「本当晴渡くんって……プライド高いわよね」
これだから、と呆れ声を出して。
「わたしに振られるのよ」
晴渡晴と雨咲雨は付き合っていた。
数ヶ月前に別れてしまったけれど。
突然、雨咲雨から別れを告げられたのだ。
『ごめんなさい。わたし……もう無理だわ』
恋人から別れを告げられたら、多少は引き止めるだろう。でも、晴渡はしなかった。できなかった。その言葉をスンナリ聞き入れたのだ。
「昔の話はやめようぜ。なぁ、過去を振り返っても今は変わらないし」
晴渡は話題を変えることにした。
これ以上話しても、水掛け論になるだけと悟ったのだ。
◇◆◇◆◇◆
時間だけが無駄に過ぎた。
だが、何も現状は変わらない。
このままではダメだと思い、晴渡は提案した。
「現在の状況を確認しよう。お互いの情報交換だ」
「考えまとめるのは大切ね。わたしが板書するわ。晴渡くんはどうせ字が汚いだろうし」
「汚いは余計だ」
晴渡は適当な席に座り、雨咲は黒板へと向かった。
「それで何から考える?」
「5W1Hで考えてみよう」
「Why、How、Who、What、When、Whereの順番で考えるのが良いと聞いたことがあるわ」
二人はお互いの情報を交換した。
そして、結論が出た。
「理由も方法も分からないが、何者かが俺と雨咲を集めた。時間帯は二人が寝たあと。場所は宇宙空間と思しき教室で……」
結局何もはっきりとしたことは分からなかった。
「これは考えても無駄だった感があるんだが? 分からないことばかりだし」
「確認することが大切なのよ。どんなときも考えないと」
「まぁーそれはそうだな。で、次はどうする?」
「教室探索かしらね。何か見つかるかもしれないわ」
雨咲の意見を聞き入れ、晴渡は手がかりを探すことにした。
教室に閉じ込められるのはごめんなのだ。自宅へとさっさと帰りたかった。
それ以上に、雨咲雨を家に帰してあげたかった。不安だろうと思って。
◇◆◇◆◇◆
「何かあった?」
雨咲が訊ねてきた。
手当たり次第に確認してみたのだが。
「残念なことに何も。そっちは?」
「こっちも手がかりなし。机の中にも何もなかったわ。空っぽね、全部」
「なるほど……お手上げ状態ってわけか。参ったな……これは」
「ロッカーと掃除用具入れはまだ確認してないわよね?」
雨咲は教室後方へと向かうのだが、その前に晴渡は呼び止めた。
「あぁー残るはそこだけだな。でもさ、おかしいと思わないか?」
「おかしい?」
長い黒髪を揺らしながら、雨咲は振り返った。
ふわぁとゆっくり浮かぶ髪。毛先がスローモーションで動いている。
宇宙空間にいるために、重力が軽くなっているのだろうか。
「もしもの話だぜ。現実世界の教室を宇宙空間まで持ってきたとするだろ……そしたら、どうして何も机に入ってないんだ? 置き勉してる奴が一人や二人ぐらいいてもいいだろ。だけど……何もないんだよ。これってさ、明らかにおかしくないか?」
「何が言いたいの?」
「この場所は現実世界ではない」
確信があるわけではない。
ただ、どうしても現実世界とは思えないのだ。
この空間には感触がある。温度がある。音がある。光がある。匂いがある。普段自分たちが暮らしている世界と、何ら変わりはないだろう。
「だから? 何が言いたいの?」
「いや……だから……ここが現実ではない何処かだろってさ」
威圧的な態度で否定されて、晴渡は動揺してしまう。
かえって、雨咲は呆れた表情を浮かべて。
「ここが現実世界ではない。それが分かったところで、今のわたしたちにはここが現実であることは変わりはないんじゃない?」
「それはそうだけど……」
「ロッカーを確認しましょう。晴渡くんは出席番号が遅いひとからお願いね」
晴渡のことなど眼中にないかのように、雨咲はスタスタと歩いた。
早速出席番号一番からロッカーを開いている。
「変な妄想に耽る前に、手を動かしなさい。悩むのはあとからよ」
さっさと動けと指図された晴渡は「チッ」と舌打ちをしてから動き出したのだが、雨咲に聞かれてしまっていたらしい。
「今舌打ちしたでしょ?」
「はぁ? やってねぇーよ」
「無意識に出るならやめたほうがいいわよ。他人に迷惑かけるから」
そう言うと、雨咲はロッカー確認作業へと戻ったのだが。
「あ!!」
「な、何か見つかったのか?」
「……うん。あったわ……」
雨咲はロッカーの中へと両手を入れた。
片手で良いのに、わざわざ両手。
何か重たいものが入っているのだろうか。
彼女が取り出したのは——
「ぬ、ぬいぐるみ……?」
クマのぬいぐるみだった。
可愛らしいテティベア。触り心地は良さそうだ。
「ぬいぐるみじゃないもん。くまきちだもん!!」
「いや……クマのぬいぐるみだろ?」
「くまきちはくまきちだもん。ねぇ、くまきち?」
くまきちと呼ばれるクマのぬいぐるみを抱きしめて、雨咲はニコニコ笑顔だ。
ギュッと握りしめているところを見るに、大切な物らしい。
ここに来てからずっと怒られてばっかりだったが、こんな表情もできるんだな。
と、晴渡は感心しながらも、雨咲の姿を見て、過去を思い出した。
「それってさ、俺がゲーセンで取ったやつだっけ?」
「お、覚えてなかったの!! は、初めてのプレゼントで嬉しかったのに」
「プレゼントって……いや。まぁーそうなるのかな?」
***
付き合っていた頃、晴渡と雨咲は二人でデートへ行った。
そのデート中にゲームセンターへ行くことになり、雨咲がUFOキャッチャーを眺めてぼぉーとしていたのだ。ガラス張りの先には、可愛らしいテティベアのぬいぐるみ。
『アレが欲しいのか?』
『別に全然欲しくないわ。もうわたし、高校生だし』
『と言ってるくせに、全然動かないし。俺のシャツ裾を掴んでるんだが?』
『そ、それは……』
『待ってろ。すぐ取ってやるからさ』
その後、晴渡はお小遣いの大半を使い果たして、クマのぬいぐるみを手に入れたのだ。
雨咲雨が喜んでくれる。それだけで嬉しかったから。
『えへへへ……あ、ありがとう……大切にするね、くまきちのこと』
***
「もしかして覚えてないの……?」
今にも消え入りそうなほどに、雨咲の声は小さかった。
「覚えてるよ。あの頃はお前可愛かったのに」
「今は可愛くないみたいな言い方じゃない?」
先程までの小ささはどこに行ってしまったのか、また大きくなった。
「ぬいぐるみを抱えてニコニコ笑顔してる今の姿は可愛いんじゃないの?」
本心を伝えたのだが、雨咲は顔を真っ赤にさせてしまう。
彼女は肩をぷるぷると震わせながら、鋭い目付きでこちらを見てきて。
「……バカぁ」
女の子という生き物は、振られた男にさえも「可愛い」と言われたら嬉しいものなのだろうか。乙女心を理解できない晴渡は恥ずかしそうに俯く雨咲を、遠目で見ることしかできなかった。
◇◆◇◆◇◆
雨咲雨のロッカーからテティベアが見つかった。
それを皮切りに、希望の光が差した。
もしかしたらこの不条理な世界から抜け出せるかもと。
「他のロッカーも探してみよう」
「もちろんよ」
別段、テティベアが謎を解決するアイテムではないはず。
だが、何かしら手がかりが見つかるかもしれない。
そう思い、二人は急いで残りのロッカーを漁ることにした。
「あっ!!」
晴渡が声を出した。
そのロッカーは、晴渡晴自身の場所だった。
中に入っていたのは——
「マフラーだな」
青、黄、黒、白が混ざったチェック柄。
見た瞬間に誰のものか分かったし、誰からもらったかも分かった。
「そ、それって……わたしが前にあげたやつじゃない?」
「そうだっけ?」
本当は知っていたが、敢えて晴渡はとぼけてしまう。
マフラーを大切にしていると思われるのが嫌だったのだ。
「あら、酷いわね。わたしが折角プレゼントしたものなのに」
「ええーと……手編みだっけ?」
「変な部分だけ覚えてて……でも、どうしてここに?」
雨咲が言う通りだ。
手編みのマフラーがロッカーに置いてあるのか。
家にあるはずだ。今年の冬が来るまでタンスのなかにしまっていたはずなのだが。ここにある理由は全く分からない。
***
マフラーを貰ったのは、去年のクリスマスであった。
『はい、これ』
『ん? 何これ?』
『ぷ、プレゼント……クリスマスの……』
『クリスマスプレゼントは要らないって言ってたじゃん!』
『わたしは要らない。でも晴くんには渡したいの』
『いやいやいや、受け取れないって』
『くまきち、貰ったからそのお返し』
『うーん……そ、それでもだな……』
『渡したいからあげてるの。ダメなの……?』
『ダメってわけじゃないよ。嬉しいよ』
『それならいいんだけど……開けてみてよ』
『家でゆっくり見たい派なんだが』
『いいから開けて。今、丁度使えるものだと思うから』
『うん。分かった』
晴渡が袋を開ける。
入っていたのは、チェック柄のマフラー。
市販品かと思ったのだが、違和感がある。
マフラーの端っこに、晴渡の名前が入っているのだ。
『これって……もしかして』
『………………』
雨咲は何も言わなかった。
ただジィーと晴渡の反応を見ているだけだ。
『手編み……?』
『う、うん……もしかして気に入らなかった?』
『そんなことねぇーよ。雨が作ってくれたんならさ』
手編みのマフラー。
且つ、単色ではなく、複色で作っているのだ。
雨咲雨の苦労が一目見ただけで分かる。
『今、ちょっとヤケクソ感があった気がするー』
『そ、そんなのないって』
『今ここでマフラー付けてみて』
晴渡はマフラーを巻きつける。
サイズは大きめ。
一人で使うには大きすぎるほどブカブカだ。
『どうだ? 似合うか?』
『……似合ってる。とっても似合ってる』
『それなら良かったぜ。それに結構暖かいな、これ』
『高い毛糸を使ってるもん』
『違うよ。雨の愛情が入ってるからじゃないかな?』
『…………………』
『あ、ごめん。今のはちょっとクサすぎたな……あはは』
『ううん。嬉しい』
雨咲はそう言いつつも、『くしゅん』と可愛らしいくしゃみをした。
『ん? ……な、なな、何? 近くに寄ってきて』
『寒いかなと思ってさ。ほら、マフラー一緒に使おうぜ』
『えっ……? それはちょっとは、恥ずかしいかも……』
『恥ずかしいって。別にいいだろ、誰にも見られないと思うし』
周りを見渡しても、歩く人々は誰も居なかった。
『そうだね……す、少しだけなら』
晴渡は雨咲とくっ付き、二人でマフラーを巻きつける。
元々こうなることを予想していたのかのように、長さは丁度良かった。
『……あ、あたたかい……』
『なら良かった』
『でも、手がちょっと寒いかも』
だ、だから、と呟きつつ、雨咲は晴渡の手を握った。
『……晴くんも寒かったでしょ?』
『……あ、うん……寒かったぞ』
『えへへ……それならどっちも得してるし、お咎めなしだね』
***
「変なことを思い出したわ」
「俺もだよ」
「手編みのマフラーって重かったかしら?」
「さぁーどうかな。当時の俺は喜んでたと思うぜ」
雨咲雨は顔を真っ赤に染めたまま。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「今のは昔のあなたに言ったのよ。今じゃないわ」
「過去の俺から伝言だ。スゲェー助かっただとよ」
「どういたしまして」
◇◆◇◆◇◆
このまま時間が過ぎ去るのを指を咥えて待てるはずがない。
晴渡と雨咲は他のロッカーや掃除用具入れを探してみたのだが、特に何も見つからなかった。収穫できたのはマフラーとテティベアのみ。どちらも、晴渡と雨咲に関係するものだった。
「こんな場所に俺たちを閉じ込めた奴は一体何がしたいんだろうな」
「さぁーね。全く意図が見えないわね」
「大体どうして俺たちの関係を知ってるんだよって思うよな。このクマも、マフラーもさ」
「ただの気まぐれなんじゃないの? 何の意味もないと思うとけど」
「どういう意味だ?」
「犯人はただの愉快犯ってわけ。今も滑稽なわたしたちの姿を見て、笑っているのよ」
「何だよ、それ……。トゥルーマン・ショーみたいだな」
「もしかしたら、わたしも仕掛け人の一人かもよ?」
「おいおい……やめてくれよ。そんな冗談」
「そうね、ネタバラシは最後まで取っておくべきだわ」
こんな状況でも、軽々しい発言をするとは。
あたかも自分は何でも知ってますみたいな顔しやがって。
晴渡は溜め息を出すしかなかった。
◇◆◇◆◇◆
「今更だが、腹も空かないし、喉も乾かないよな?」
「今更気付いたの? わたしはとっくの昔に気付いていたんだけど」
「はいはい。先に気付いて偉いですねー」
晴渡は面倒そうに言って。
「トイレに行きたいとも思えないし。眠気さえもない」
「こんな場所でトイレに行きたいとか言われたら逆に困るわ」
密室空間。
そんな場所でトイレに行きたいと言われたら大変だな。
小ならまだしも大をしたいと言われたときには、どうするべきか悩んでしまうだろう。
「犯人の目的はなんだろうな。ミステリーやサスペンスとかなら、今頃俺たち二人が殺し合ってもいいころなんだけどな」
「わたしに殺されたいの?」
「殺される気はないよ」
「殺す気だったのね……こんなか弱い少女を……」
「なわけねぇーだろ。例え話だ。こーいうのって、結構あるじゃん。絶海の孤島に閉じ込められて……みたいな?」
「あるわよね。でも、今の状況ってあまりにも狭すぎるでしょ」
教室の一室。
こんな場所で殺人事件が起きたところで、犯人はすぐさまに分かることだろう。
「えーとさ、こーいう状況を何て言うっけな?」
「クローズド・サークル」
「わざわざそんな空間を作り出したんだ。犯人は何かしらの意図があると思う」
「そう思うのは勝手だけど、何のために??」
雨咲の問いに対して、晴渡は何も答えられなかった。
◇◆◇◆◇◆
手がかりと思える手がかりは何もなし。
となれば、もう残るは強行突破しかない。
掃除用具入れを開け、晴渡はモップを手に取る。
「掃除でもするの?」
「俺がそんなことすると思うか?」
「そうね。心が醜いもの。教室を綺麗にする前に、心を綺麗するべきよね」
「教室内で最も汚れているのは、お前の心だと思うんだが?」
「……見破られていたのね。わたしの邪悪な心が」
「あぁーこれでも一応付き合っていたからな」
「付き合っていた頃はまだ猫かぶっていたと思うんだけど?」
「前から結構素が出てたぜ。付き合ってるときは尚更だが」
「お互い様よ。付き合ってから嫌な部分が目立つようになったし」
「待て待て……言い争いはやめようぜ。無駄に体力使うだけだ」
「疲れてるの? ただ喋るだけなのに」
「気苦労だな」
晴渡は両手でモップを持ち、構えのポーズを取った。
その姿は前方から襲いかかる獣を迎え撃つようだ。
「何する気?」
「まぁー見てろって」
晴渡はモップを構えたまま突進した。
目指すは教室のドア。果たして結果は——。
開くはずも、壊れるはずもなく、ただ床に倒れるはめになった。
ぐにゃりとモップは折れてしまい、使い物にはなれなさそうだ。
教室とドアの狭間に見えない壁があるのか、手も足も出ないのだ。
「クッソタレが……逃げ出す方法はねぇーのか、やっぱり」
「さっきも言ったけどね。逃げ出すのは無理よ、諦めない」
「確かめたかったんだよ。本当に開かないかどうか」
「男って単純ね」
「百聞一見に如かずって言うだろ?」
「でも晴渡くんらしいわ。他人の話なんて全然聞いてないんだから」
「それって愚痴か?」
「自分の胸に聞いてみたら?」
「分からないから聞いてるんだが?」
「なら分からないままでいいわよ」
◇◆◇◆◇◆
「晴渡くんって、視力悪い?」
「どうしてそんな話を?」
「ただの雑談よ」
「密室内での会話は酸素を奪う行為だ。最もしてはならない」
「今更? 酸素が減るとは到底思えないんだけど。こんな都合が良い世界で」
そもそもと呟きつつ、雨咲は続けて。
「どうせ死ぬわよ。現状を続けていたら。この場所に助けが来るはずがないから」
「遅かれ早かれ、俺たちはどっちも死ぬな。今のままだと確実に」
「で、視力が悪い?」
「視力が悪いけど……それがどうかしたんだ?」
「ということは、メガネとかコンタクトとか付けてるってこと?」
「授業中にかけるぐらいだよ。普段は裸眼だ。俺、右目だけ視力が悪くてさ。だから、授業中、黒板の右側に書かれると困るんだよね」
「ふぅーん。実はわたしもメガネ愛用者だったんだ」
「だったってことは……昔の話ってことか」
「そう、大体中学校に上がってからだったかなー?」
「何が言いたいんだよ?」
「初めてメガネをかけたときの話になるんだけどね。わたし、ビックリしたんだ。こんなに世界は綺麗なんだ、こんなに世界って美しく映るものなんだって」
「視力を矯正したら……世界が丸っ切り変わるもんな。黒板の文字が一番後ろの座席でも見れたときは、無駄に興奮したっけな」
「晴渡くんも似た経験があるのね。ちょっと嫌な気分かも」
「俺に喧嘩売ってるのか?」
「特別感が消えるじゃない?」
それでね、と付け加えるように発言してから。
「ただ、途中から怖くなったんだよね。見えすぎて逆に怖いというか」
「怖い?」
「嫌な部分が目に見えるようになったって言えばいいのかな?」
「例えば?」
「毛穴」
「女子力全開だな」
「石を動かしたあとの、虫の集合体」
「虫が悪いんじゃない。石を動かしたお前の責任だ!」
「周りの反応とか」
ツッコミを返せなかった。
雨咲雨がまだ口を開いてたから。
「中学校の頃にね、一分間スピーチってものがあったの。出席番号順に、毎日一人ずつ自分が感心するニュースや出来事に関して話すってのが。帰りのホームルーム時間中にするんだけど……わたし結構好きだったの。だからさ、そこそこ時間をかけて考えていたんだよね。子供ながらに調べてさ。だからこそ、長くなるんだ。言いたいことが沢山出てくるから」
晴渡は相槌を打つ程度で、何も言葉は返さなかった。
ここで返してしまうと、雨咲雨の話を遮ると思ったからだ。
「で、何度目かのスピーチが回ってきたの。三十人クラスだったから、大体一ヶ月半ぐらいで回ってたかな。で、そのときに気が付いたんだ。あ、誰もわたしの話に集中して聞いてないなって。メガネをかけて初めて。全員早く帰りたい感を醸し出して、ただ流れ作業を熟すようにわたしの話を聞いているの。必死に頷いていたのは、さっさと終わらせて欲しかっただけみたい。わたしね、今まで自分が世界の中心だと思ってた。子供だよね。自分は特別な存在で、勝手に周りから注目されてるってさ」
雨咲雨の話を聞き終えたあとは、しっかりと返事しよう。
と思っていたのだが、人生経験が乏しい晴渡は気が利いた言葉が出てこなかった。こんなときに軽くカッコいい台詞が出てくるのならば、どれほど良かったことだろうか。
ともあれ、雨咲雨に怒った出来事は理解できた。
挫折だ。
生まれて初めての挫折。
子供から大人になるにつれて、物事を理解していく。
その過程のなかで、雨咲雨は悟ったのだろう。自分は普通の人間だと。
子供の頃は、誰もがスーパーヒーローになりたいという野望や、白馬の王子様が迎えに来てくれるという幻想を想像する。しかし、そんな夢は到底叶わないと理解して生きていく。
地元で最強と謳われて鼻高々のスポーツ少年が地元を離れた途端に、取るに足りない存在だと自覚するように。
「でも、晴渡くんはあの日わたしを選んでくれた。嬉しかったんだ」
「…………今更そんな話するなよ。もう別れてるんだからさ」
「……そうだね、ごめんこんな話しちゃって」
雨咲が僅かに顔を背けた瞬間、チャイムが鳴り響いた。
それからノイズ混じりの機械じみた声が流れてきた。
『完全下校時刻になりました。まだ教室に残っている生徒は電気を消して、戸締りを確認してから帰りましょう。生徒の皆さんはただちに下校してください。さようならさようならさようならさようなら』
もう一度繰り返します、という言葉に引き続き、『別れの曲』が流れ始めた。悲壮感漂う曲調に、晴渡は何とも言えない表情になってしまう。
◇◆◇◆◇◆
「き、気味が悪いな……壊れた感じだし」
何かに気付いたのか、晴渡は言った。
「もしかして……俺たち以外にも誰かいるのか?」
「残念だけど、これは録音テープ。毎日同じ時間に流れる設定よ」
「相変わらず……現状は変わらないってわけかよ……」
晴渡が溜め息混じりに言うと、雨咲が提案してきた。
「とりあえず座ってみましょう。足が疲れたわ」
「一理あるな。今後の計画も考えないといけないし」
立っているのも辛い。このままでは保たない。
晴渡と雨咲は適当な座席へ座ることにしたのだが。
「で、どうして俺の隣に座るんだ?」
「別にいいでしょ。わたしが座りたい場所に、丁度晴渡くんが居たの」
「なら、俺は席変えるわ」
「いいじゃない。二人しか居ないんだし。話してないと気が狂うわ」
「…………言う通りだ。黙ってるよりは話しているほうがマシだな」
「おまけに可愛い子の隣だもんね」
「……正しくは可愛かった女の子な」
「今は可愛くないみたいな言い方ね、失礼だわ」
「見た目は可愛いけど、最近はイジワルだ」
「それだけ素を見せられる関係ってことじゃない」
「俺に心を許しているってことなのか?」
「…………そういうことでもいいわ」
「何だか、猫みたいだな」
「人様を猫扱いとは……」
「何だか昔のことを思い出すわね」
「昔……?」
「そう、わたしと晴渡くんが隣同士だったこと」
「……あぁーあったな。俺のほうを見てニタニタしてたよな」
「だって、寝顔が面白かったんだもん」
「寝顔を見るな!!」
「寝ているほうが悪いわ」
「授業に集中しろよ」
「寝ている人には言われたくないわね」
最もな意見を聞き入れつつ、晴渡は思い返す。
隣の座席。雨咲雨と隣同士になったことを。
どちらかと言えば、雨咲は他人を寄せ付けないタイプ。人との距離を取る。それにもかかわらず、晴渡には結構突っかかってきていた。
一番最初まともに会話したのは何が始まりだっただろうか。
「ん? 何これ?」
疲れを癒すためか、机にグダァーとなっていた雨咲。
そんな彼女の手には消しゴムがあった。机のなかにあったらしい。
調べたつもりだったが、暗くて見えなかったのだろう。
「あ、これって……俺のじゃねぇーのかよ」
「あぁー。思い出したかも」
「消しゴムを忘れた誰かさんに貸したんだっけ?」
「わざわざ遠回しに言わなくていいのよ」
雨咲は吐き捨てるように言って。
「でも、あのときはビックリしたわ。晴渡くん、持っている消しゴムを半分に千切って渡してくるんだもん」
「いや……別にビビることじゃねぇーだろ」
「鉛筆貸してと言われて、ポキっと半分折られて渡されたら怖いでしょ?」
「たしかに……それはサイコパス感があるな」
「そんな感覚よ」
「ならアンパンマンはどうなるんだ? 自分の頭を千切って渡してくる奴だぞ」
「ヒーローには悩みが付き物なのよ」
「かっこいい風に言われて誤魔化された!!」
「アンパンマンはフィクションだからいいのよ」
「逃げたな」
「逃げではないわ。現実と虚実は見抜けないとダメよ」
「でもさ、消しゴムって全部使い切ることなくね?」
「言われてみれば……そうかもしれないわね」
「小さくなってきたら新しいのに買い換えるだろ」
「まぁーそうかも。握りにくくなるしね」
「シャープペンの消しゴムって抵抗あるわよね?」
「あぁー。あの上に付いているやつか?」
「使うか躊躇しない? 綺麗なままがいいっていうか」
「遠慮なく使わせてもらうタイプだけどな。使わないと無駄になるんだし。逆に消しゴムだって使われて嬉しいと思ってるはずだ」
「消しかすの言葉は説得力があるわね」
「誰が消しかすだ」
◇◆◇◆◇◆
隣に雨咲雨が居る。それだけで晴渡は気が気でなくなる。
心を休めようと思い、月を眺めることにした。席に座っていたとしても、雨咲がジィーと見つめてくるのだ。妙にそわそわするのだ。
「何見てるの? 黄昏ちゃって」
心を休めようと思い、移動していたのに。
雨咲が喋りかけてきたのでは一緒じゃないか。
と思いながらも、晴渡は外に浮かぶ青白い丸を指差して。
「月だよ。やっぱり綺麗だなと思ってさ」
「窓も開かないのに?」
「あぁー悪かったな」
「別に謝る必要はないでしょ?」
「嫌味を言いに来たと思ってさ」
「わたしってどんなふうに思われるのかしら?」
「さぁー自分の胸に聞いてみなよ」
「イジワルなのね」
「お前と一緒のことを言っただけだよ」
「……カーテンの後ろって確認した?」
「……そういえばまだだな」
晴渡と雨咲はカーテンを裏返してみた。
特に何もなかった。暗号の一つでも見つかればいいのに。
「ん? どうしたんだ? 顔を真っ赤にしてさ」
「いや……別に」
と言いながらも、ますます雨咲の顔は熟したリンゴみたいになる。
不思議そうに見つめていたからか、逆に訊ねられてしまった。
「お、覚えてないの……ここで何したか?」
「あ? 何かしたっけ……?」
「もういいわ。どうせわたしは過去の女みたいだし」
過去の女というのは間違いないのだが、言葉の節々から怒りが感じられる。教室に閉じ込められている身だ。喧嘩ばかりしていてはお互いに困るだけだ。気まずいのだけは勘弁なので、晴渡は先に言うことにした。
「気に食わないことがあるなら謝るよ、ごめん」
「言葉だけの謝罪以上にムカつくことはないわ」
「ムカつくと言われてもだな……」
「あーもういいわ。忘れて」
雨咲は晴渡から視線を逸らした。
「おい……待てよ」
という必要はない。
どうせ教室から出られないのだから。
それなのにわざわざ呼び止めた晴渡が何か言おうとした瞬間。
「ん? 何か聞こえてこないか?」
先に謎の音に気が付いたのは、晴渡だった。
「俺たち以外の誰かがいるのかもな」
「それは絶対ないわ」
「いや……だけどさ、何か聞こえるだろ?」
もう一度、晴渡は耳を澄ませる。
聞こえている。音だと思っていたものは曲だった。
しっかりと聞こえてくる。何度かテレビで聞いたことがある。
有名なものだと理解はできるが、曲名までは断定できない。
「……カノンね、これは」
「何それ? 楽器の名前?」
「違うわよ。曲の名前。知らないの?」
「知らねぇーよ。俺は音楽に疎いんだよ」
「歌も下手だしね」
「音痴はいいだろ」
「それにしても……どうして曲が?」
「さぁーどうしてかしらね。でもあの日のことを思い出すわ」
「あの日……?」
「そう、あの日も吹奏楽部からカノンの演奏が聞こえてきてた。まさかまだ思い出せないの?」
「本当使えないわね、このゴミは。記憶力悪すぎでしょみたいな表情をされても困るんですけど」
「本当使えないわね、このゴミは。記憶力悪すぎでしょ、このドブがという表情をしていたのよ。甘かったわね、わたしの感情はそう簡単に把握されないわ」
「自信満々に言ってるけど、九割近く俺の予想で当たっているんだが?」
こほんと、咳払いをしてから雨咲は言った。
「……こ、こっちはかなり緊張してたのに……覚えてないのね」
「緊張した? えーと……」
「鈍感過ぎて殴りたくなるわ」
「殴るのはやめてくれ」
「なら、蹴り殺すわ」
「ますます処遇が酷くなっているんだが?」
「キスよ……キス。覚えてないの?」
晴渡晴と雨咲雨はカーテンの裏でキスをした。
他の生徒が誰も居なくなった二人きりの放課後の教室で。
誰にも見つからないように、こっそりと。
「告白したと思ったら、その直後にしてきたでしょ?」
——好きです。もしよかったら俺と付き合ってください——
と、言ったあとに、恋人同士になった二人は唇を重ねたのだ。
「ああっと……そ、そうだっけ?」
「何その言い方。軽すぎるでしょ。人生で食べたパンの枚数ぐらい、興味ないじゃない」
「パンの枚数は気になるな」
「……ぱ、パンに負けた……屈辱的だわ」
雨咲は床に膝を付いてしまう。今にも血反吐でも出しそうだ。
「わたしとのキスは、パン未満だったのね」
「味は格別だったと思うけどな」
◇◆◇◆◇◆
時間が幾ら経過しても、救いの光は一向に現れない。
このままでは教室一個分の広さしかない辺鄙な場所で、骨を埋めることになるかもしれない。と思われたのだが、空腹も渇きも襲ってこない。
「あのさ……俺たちってずっとこのままなんじゃないか?」
少しの不安でも一度考えると、それは心を蝕んでいく。
「かもしれないわね」
「冷静だな、お前」
「大学受験もその先の就職も何も考える必要がないもの。気楽よ」
マイナス視点でしか考えられなかったが、晴渡と雨咲は高校二年生。
来年には大学受験し、それぞれの道を歩むことになる。晴渡は将来をあまり考えないタイプなのだが、雨咲は見据えているようだ。
ただ、晴渡だって、多少は分かる。勉強しなければならないと。
「あぁー。案外このままでもいいのかもなぁー?」
「どういう意味?」
「現実戻っても、俺は自堕落な生活を送るだけだしな」
「ふぅーん。ここには何もないのに?」
「一人だったら気が狂うかもしれないけど、お前が居るからな」
「…………お、お前って呼び方はやめてよ。雨でいいわよ」
「雨って……俺たちは別れただろうが」
「苗字で呼ばれるのは嫌なのよ。雨でいいでしょ? わたしも名前で呼ぶから」
苗字で呼ばれるのが嫌と言われてしまえば、名前で呼ぶしかない。
少し前までは何度も呼んでいたはずなのに、晴渡は緊張した声で。
「まぁー別にいいけど、雨」
「ありがとう、晴くん」
むず痒くなる会話。
お互いによそよそしくなって、全く進まない。
「あのさ……晴くん」
雨咲雨は少し躊躇いながらも、何かを決意したかのように口火を切る。
「何だよ? 雨」
「わたしもね、このままでいいかなーとか思ってるの」
「悪くないよな、こんな生活もさ」
食事を取らなくても、睡眠をしなくても。
何もしなくてもいい。
ただ、教室内でクラスメイトと過ごすだけというのも。
「うん」
雨咲雨は強く頷いてから。
「もうこの世界で生きてもいいかなーと思ってきちゃった」
「意外だな。二人っきりの世界は嫌だと言い出すと思ったぜ」
「そんなことないよ」
「久々に喋って、俺の愛を取り戻したか?」
「ううん。それはないよ」
そこまで単純な女の子ではないか。
少し喋って愛を取り戻すようでは、チョロすぎるものだ。
そんな夢物語ありえるはずがない。
「だって、元々ずっと晴くんのこと大好きだもん」
雨咲から放たれた言葉に、晴渡は息を呑んだ。
「えっ?」
「それにね、怒らずに聞いて欲しいんだけど」
肯定も否定もしてなかったのだが、雨咲雨は続けて。
「この世界を作ったのは、わたしなんだ」
◇◆◇◆◇◆
晴渡は息を止めてしまう。
ただジィッと黙り込むしかなかった。
暫くしてから息を整え、晴渡は言葉を紡いだ。
「あ、あのさ……今の……う、嘘だよな?」
否定して欲しかったが、雨咲の言葉は決してそぐわない。
「ほんとだよ? この世界を作ったのは、わたしなの」
「なんでこんな真似を?」
「晴くんともっと一緒に居たかったの」
常識では考えられないことが起きた。
尚且つ、それを起こしたのは目の前に居る女の子。
数ヶ月前まで付き合っていた彼女であった。
「でもどうやって?」
「毎日お願いしてたんだ。晴くんと一緒になりたいって。叶ったんだよ」
「何でもアリだな……ほんとう」
幽霊やUFOを信じない派だが。
それでも今起きている現象を信じないわけにはいかない。
晴渡はもう納得するしかなかった。
「もしかしたらこれもわたしの夢かもと思ってる」
「夢にしては長すぎる話だぜ。それに俺だっているし」
脱出不可能の教室を作り出していたのは、元カノ雨咲雨。
それだけでも分かれば、残りは簡単な話だ。
晴渡はほっと一安心しつつも、雨咲雨へと訴える。
「さっさと元の世界に帰らせてもらおうか?」
「………………ん?」
雨咲の笑みから朗らかさが消え失せた。
信じていた相手から裏切られてしまったみたいに呆然とし、言葉を出すまでに時間が掛かっていた。今の流れが理解できてないのだろう。
「……さっさと家に帰らせろよ」
晴渡の言い分は正しい。
突然変な世界に連れてこられたのだ。
家に帰らせろと主張するのは極々当たり前なことだが。
「嫌だよ。帰らせるわけないじゃん。ずっとこのままだよ」
「はぁ?」
「さっき言ってたじゃん。このままでもいいかもって」
「言ったけど……そ、それは……」
「いいじゃない。このまま二人でこの世界で楽しもうよ」
「元の世界に帰りたい」
「……それの何がいいの?」
「何がいいって……」
帰りたいという気持ちは残っている。
だが、元の世界の何がいいのか。
その答えは出てこない。
「わたしたち二人きりだけ。楽しいと思うけどな」
「息苦しいだけだ」
「大丈夫だよ、わたし神様だもん。この世界の」
二人しか居ない教室を歩き回りながら、雨咲雨は言う。
「晴渡くんが欲しいというもの、わたしなんでも出せると思う。どんなものだって、わたしなら……晴渡くんにプレゼントできる。マンガでもアニメでもラノベでもなんでもなんでも……わたしなら渡せるよ?」
確信に満ちた声だった。必ずできると自負しているのだ。
それにもかかわらず、雨咲雨の態度は自信満々ではなかった。
見る限りでは、体をガクガクと震わせているのだ。晴渡の返事を恐れているようだ。
「……俺は何も要らないよ」
晴渡の声に空かさず、雨咲の声が重なる。
「わたしのこと嫌いなの?」
「……そういうわけじゃない」
「それならいいじゃない。このままずっと二人で!!」
雨咲雨は感情的になった。
右足を前へと突き出し、豪快に音を立てる。
怒りか、それとも悲しみか。
何が彼女を突き動かしているのだろうか。
「わたしへの想いも変わったでしょ? ここに来て」
雨咲は縋るように言った。
だが、晴渡の返事は無慈悲なものだった。
「生憎だが、俺の想いは変わってねぇーよ。ここに来る前と一緒だ」
「………………ふざけないで。折角、この世界を作ったのに。そ、それなのに、……なのに……どうして受け入れてくれないのよぉ!!」
床がグラグラと揺れ動く。
それと同時に、ピカピカと月光が点灯した。
まるで、寂れた公園にある外灯みたいである。
「何だ……こ、これは!」
立つことさえやっとだった。
しかし、雨咲は全く倒れる気配もなく、駆け出していく。
教室からは出られないはず。
感情が爆発している雨咲を引き止め、話を持ちかけるしかない。
このままでは冷静な判断はできないはず。
「……おいおい……何でもアリかよ。マジでよ」
雨咲雨は見えない壁を擦り抜けて、そのまま出て行った。
振り返ることもない。けれど、彼女が教室出ていく前に、目元から涙が出ていた。流石は無重力。その水滴はぷかぷかと浮かんでいた。
「また……俺はアイツを泣かせてしまった……ほんとう最低な男だぜ」
***
「ごめんなさい。わたし……もう無理だわ」
涙ながらに別れを告げられたのは、数ヶ月前の出来事だった。
生まれて初めての彼女。
雨咲雨は美しい女性であった。自分には勿体ないと思えるほどに、煌びやかで、自分とは住む世界が違うと思うほどに、儚げなひとだった。
お似合いの二人と呼ばれたことはなかった。釣り合わないというのは付き合う前から分かりきっていた。正直なところ、未練を消すために、告白したのだ。絶対に後悔しないようにと。
そしたら、意外にも付き合えて——。
この世界で一番大切だった。一生幸せにしてあげよう。
この世界の誰よりも、自分の彼女が幸せだと胸を張って答えられるようにと思っていた。信じていた。
雨咲雨の笑顔を見るだけで、幸せになれた。
でも、次第に避けるようになっていた。
怖かったのだ。自分が本当に雨咲雨の彼氏でいいのかと。
自分みたいな何の取り柄もない男が、雨咲雨を幸せにできるのかと。
だからこそ、別れを告げられ、素直に受け入れてしまったのだ。
「あぁーもう終わりだよ、俺たちは」と。
本来ならば、引き留めなければならないのに。
彼女は涙を流していたのに。何もできなかった。
***
「……何やってんだよ……お、俺は……二回もよ……」
晴渡は気合を入れ直す。決意はもう既に固まっていた。
「もう二度と俺は間違えない!!」
晴渡はタックルを仕掛けるように、ドアへと向かった。
見えない壁にぶつかる。ぶつかったとしても何度でも立ち向かえばいい。一回でダメなら十回、十回でダメなら百回。何度でもだ。
そう思ったのだが、意外なことに壁は意図も簡単にすり抜けることができた。結果、勢い余ってそのまま晴渡はクルクルと前回りしてしまった。
「いてて……だけど、教室から出れたぜ。あばよ」
晴渡は駆け出した。
前方を走る雨咲を追いかけるしかない。
キュッキュというシューズ音が聞こえてくる。
「おい、待てよ!!」
雨咲は足が早かった。
体育では、辛そうに走るタイプなのに。
けれども、今はこの世界の神様。
多少は自分の体力を上げているのか。
雨咲雨との距離は全然縮まる気配がない。
「待てって。なぁ? なぁ、た、頼むからさ」
「待つわけないでしょ!!」
「俺と話をしよう。なぁ? 話せば分かりあえるはずだ」
聞く耳を持たない雨咲雨が向かった先は、最上階。
階段を上がり辿り着いた先は屋上。
どこに行こうとも、宙を浮かぶ水滴を追えば場所が分かってしまう。
「残念だったな……お前はもうここで終わりだ」
ドアの向こう側には、人影が見える。チェックメイトだ。
そう思って、ドアノブを回すのだが……開かない。
「ふっ、鍵をかけさせてもらったわ」
息を切らした雨咲雨の声が聞こえてきた。
やはりこの奥に居るらしい。
それなのに、そこに行くまでにはドアが邪魔だ。
「ふざけるなよ……反則だろ」
「わたしのやりたい放題できる世界だもん」
「何でもアリだな。それなら俺からも手を出させてもらうぜ」
屋上へと繋がる場所には、余った椅子や机が並べられていた。
少子化が進んだ現在ではありがちな光景だ。教室内の壊れた机や椅子を補充するために置いているとも聞いたことがある。
とりあえず、大人の事情はどうでもいい。
「んっしょ」
晴渡は近くの椅子を手に取る。
「な、何するつもり?」
「あぶねぇーからちょっと離れとけよ」
頭上へと高く持ち上げ、そのままドアへと振りかぶる。
ガッシャーンという音が聞こえるのだが、壊れる気配はない。
「い、今の音はッ!!」
「ドアぶっ壊そうと思ってな」
「ここはわたしの世界なの。開くはずないわ」
雨咲雨。
この世界を創り出した神様はそういうけれど。
晴渡は決してやめない。やめるはずがない。
「やってみねぇーと分からねぇーだろ」
「百聞一見に如かずって言ってたでしょ? 試して無理だったじゃない」
「無理とか決めつけるなよ。俺は絶対に壊すよ」
晴渡はもう一度椅子を持つ。
力の限り殴った結果、変形してしまった。
それでもまだドアを壊すには使えそうだった。
「なぁー。雨、実は俺さ……雨咲雨が大好きなんだ」
勇気を出す必要はなかった。
ただ、本心を伝えるだけだったから。
むしろ、言えてほっと一安心してしまう。
「えっ?」
雨咲は疑問を呈してきた。
突然の事態に対応できないようだ。
あたふたしているのが、ガラス越しのシルエットで分かる。
「雨のことを考えるだけで、胸が熱くなる。他の男と雨が喋っているだけでイライラしちまう。大分、お前のせいで頭おかしくなってるんだ」
「ええええ?」
「ここに来て、やっと気付いた。俺の人生には雨咲雨が必要だって!!」
晴渡の心に嘘偽りはなかった。
「ただその前に……このドアを壊さねぇーとな」
晴渡は椅子を持ち上げ、また思い切り振りかぶる。
見えない壁がある。それは知っている。
それでも、壊して会いに行くしかない。
ガッシャーンと、金属音が響き渡る。
「雨に別れを告げられたとき、めちゃくちゃショックだった。どうして振られるんだと思った。どうしてだって聞けば良かったかもしれない」
まだ壊れない。それならば——まだまだ続けるしかない。
「そんなの嘘よッ!? わたしを避けていたじゃない!! 付き合ってから、ずっとずっとわたしを蔑ろにしてたじゃない!! 今更遅いわ!!」
一枚壁の向こう側から聞こえてくる声は、怒号を含んでいる。
「怖かったんだ。元々俺と雨じゃ釣り合ってないし……」
だからさ、と呟いて。
「逃げちまってた。俺がお前からずっとずっと」
「ふざけないでッ!? 何を今更……わたしが……わたしが……い、今まで……どんな思いで……どんな思いになっていたか……ずっとずっと晴渡くんのことが好きだった。それなのに……避けられていた。もっともっと大切にしてほしかった。寂しかった。わたしのこと嫌いになったのかなと不安に思った……だ、だから……わたしは……別れを告げたのに……」
晴渡は雨咲を避けていた。
それは雨咲を大切にする一心で行ったものだった。
でも、雨咲は晴渡から避けられていると思い、不安になってしまった。寂しかったのだ。もっと相手して欲しかったのだ。
「今でも、わたしは晴くんのことが好き!! 超超大好きッ!?」
二人はお互い大好き同士だったのに。
ちょっとした歪みで、お互い理解できず、別れてしまったのだ。
二人とも、今でも大好きなのにもかかわらず。
「ごめん。俺が傷付けてた。悪かったな、本当」
でも安心してくれと呟き、晴渡は何度も持ち上げた椅子を手に取る。腕には疲労が訪れていた。まるで、魔法にかかったかのように。
「もう二度と寂しい思いはさせねぇーから。今ここでぶっ壊してッ!」
それでも、彼は決して歩みを止めることはない。ドアを壊すまでは。
ガッシャーンッ!?
今までで一番大きい当たり。無慈悲にも大きな音が鳴り響き、そして遂にドアが吹き飛んだ。ガラス結晶の如く、小さな破片となったそれはキラキラと光輝きながら、外の世界へと飛び上がっていく。
「へへっ……雨咲……会いに来たぜ。少し時間はかかったがな」
晴渡は汗を拭いながら笑うが、雨咲はまだ歩み寄る姿勢は見せない。
「こ、来ないで……今更そんなこと言っても無駄ァ!!」
来るなと言われて、素直に聞くはずがない。
晴渡は少しずつ近づいていくのだが。
「何だ、アレは……?」
晴渡は頭上に浮かぶ世界を見上げながら呟いてしまう。
光の尾を伴う巨大な石がこちらへと迫ってきているのだ。一個だけではなく、数十個もある。月の周りを廻っていたはずものである。
「やっと気付いた? アレは隕石よ……もう全部終わりにしようと思って……へへへっ……もうこれで全部全部おしまいよ……」
「おしまい……? ど、どうするつもりなんだ?」
「ここで死ぬわ」
キッパリと言い、雨咲は屋上の端を指差した。
「晴渡くんは現実世界に戻れるわ、あちらから」
時空が歪んでいるのか、大きなシャボン玉みたいな空間ができている。
あそこを潜れば、現実世界に戻れるのかもしれないが。
「一緒に帰ろう、雨咲。もう一度俺とやり直そう。なぁ?」
「嘘よ、そんなの全部嘘ッ!! 現実世界に帰ったら、どうせわたしのことなんか……ただの重たくて気持ち悪い女だって言うに決まってるッ!」
「勝手に人を値踏みすんなッ!!」
「来ないでよ……お願いだから。これ以上来ないで……優しくしないで」
決して歩みを止めない晴渡に対して、雨咲は涙を流して懇願する。
「どうせ、晴渡くんはわたしのことなんか……ちっとも思ってない」
「どうでもいいなら、わざわざここまで来てないさ!」
「それなら……証明してよ。本当に好きだってことを」
「分かったよ。なら、お前と一緒に残ってやるよ、ここでさ」
「もしかしたら帰れないかもしれないのよ。そ、それでもいいの……?」
「あぁーいいさ。残ってやる」
「こ、怖くないの? 永遠の闇があるかもしれないんだよ。そこは地獄よりも苦しいかもしれない。そ、それでもいいの……?」
「永遠の闇? 地獄よりも苦しい? それを聞いたら、尚更、雨咲一人残すことはできねぇーな。ただし、一つだけ約束してくれよ」
「約束……?」
「あぁ。ここも時期に崩れ落ちるだろう。もしも、もしもだ。俺と雨咲二人とも生きてたら、もう一度やり直してくれねぇーか? 絶対幸せにしてやるからさ。もう二度と間違えねぇーからさ」
「…………う、うん……約束だよ」
「あぁー約束だ。一緒に天国か地獄か。はたまた……現実世界への帰還か。まぁー俺はどこ行っても付いていくけどよ」
綺麗な光を灯しながら、無数の隕石が校舎へと衝突した。
強い衝撃が起き、校舎はすぐさまに崩れ落ちる。
足場を失くした晴渡晴と雨咲雨は、真っ逆さまに落ちる。
下に見えるのは、真っ暗な世界のみ。
その先にあるのは何か分からない。ただ永遠の闇。
ただひたすらに二人は落ち続ける。
「……なぁ、雨咲。お前に言うべきことを忘れてたよ」
「何……?」
「俺さ、世界で一番お前のことを愛してるよ」
「…………バカァ……わたしも愛してるよ」
落下する二人は抱き合い、唇を重ねた。
◇◆◇◆◇◆
「ぎゃああああああああああああああああああああああ」
高鳴る心臓と共に、晴渡は奇声を上げながら目を覚ました。
自宅だ。何の変わり映えもない日常風景。
カーテンの隙間からは朝日が差し、早く起きろと訴えている。
「…………なんて夢を見たんだ、お、俺は……」
気怠さがあるものの、体に鞭を打って洗面所へと向かう。
「なんじゃこりゃあああああああああああああああああ!!!!」
晴渡の顔には『雨咲雨のモノ♡ 誰にも渡しません』と赤のマーカーで書かれていた。いつの間にこんなことをしたのか。さっぱりだが。
「やっぱり……アレは夢じゃなくて、現実だったのか?」
まさかと思いつつも、晴渡は学校へと急いだ。
◇◆◇◆◇◆
早朝と呼ばれる時間帯に教室へと辿り着いたのだが、既に先客が居た。
雨咲雨。晴渡の元カノで、二人きりだけの世界を創り出した人物。
教室の隅っこで、腕を組む彼女は相変わらずムスッとした表情で、晴渡をジィッと見つめている。
少し目線が合うと、そっと逸らしてしまったが。
晴渡は彼女の元へと駆け寄って。
「約束覚えてるよな? 守ってもらうぞ」
「……わたし重たい女の子だよ?」
「あぁー知ってるよ」
「二人きりになりたくて、変な世界を作っちゃうタイプだよ?」
「あぁー分かってる。苦労させられたからな」
「重たくて醜い心で、嫉妬ばかりしちゃう女の子でもいいの?」
何度も確認を取る雨咲の肩を掴んで、晴渡晴は言った。
「雨がいいんだよ。雨しか居ないんだよ」
「ありがとう。わたしもだよ。晴くんが大好きだよ」
顔を真っ赤にした雨咲はそう言うと、晴渡をカーテンの裏へと連れて行った。そこで、雨咲はまぶたを閉じて口を突き出すのだが、晴渡は意味を理解できない。
「あの……? こ、これは?」
「……キスだよ……キス」
「ここは教室なんだが?」
「カーテンの裏だから大丈夫。それに寂しい思いさせないって言ったのに……やっぱり嘘つきさんだったのかな??」
「嘘じゃないよ……な、なら行くぞ……う、うん」
晴渡は覚悟を決めて、雨咲の口を奪おうとするのだが。
——チュ
先手を打たれてしまった。雨咲は我慢できなかったようだ。
「えへへへ……晴くんが悪いんだよ。今後も遅かったら、わたしから容赦無くしていくからッ! あ、もしかして今……やっぱり重たい女だなぁーとか思ったでしょ? でも、もう二度と別れないからねッ! えへへへ」
「俺だって……別れないよ。やっぱり好きだなと思ったし」
「……晴くん」
「どうした?」
「大好きだよ」
雨咲はそう言いつつ、晴渡の手をギュッと力強く握るのであった。
もう二度とこの幸せを失いたくないと思うほどに。
それに答えるように、晴渡も握り返すのであった。
(完結)