毀れた壁、溢れる寂寥
「ふざけるんじゃないわよ!! あんたを殺さない限り、この世界には平和が訪れないの!!」
「別にそんなことはないと思うが」
グレンゼルムは魔王である。正確に言うと、結果としてそう呼ばれるようになった一介の武人に過ぎないのだが、そんな自認は何の役にも立たないし、それで納得するものはいない。今日もまた理不尽な詰められ方をしているが、グレンゼルムにはふと気になったことがあった。そもそもここでいう「平和」とはどういうもので、本当に「自分自身が生きている限り、これを実現出来ない」のだろうか、と。
(……まぁ、あながち間違っていないのかもしれんな)
グレンゼルムは武人である。武人とは戦いを求め、戦いの中に誉れを見出して生き、死んでいくものだ。必然、その在り方は戦いとともにある。平和とは戦いがないことだと定義するのならば、武人はそこに居ること自体が平和を脅かす、と言えるだろう。
リタと名乗った聖剣の勇者は、出会ってからの極短時間に、通常ありえないほどの非礼をはたらき、グレンゼルムをかつてないほどに困惑させた。だが、その一方で、今までは気にもならなかった多くのことに気付かせてくれ、武人としての価値観においても、順当に研鑽を積んだ後、万全の状態で戦いたい相手でもあった。色々と得難い縁だったのである。
(今後の身の振り方を考える上で、この娘の価値観と融和できるように訓練してみるのがいいかもしれんな)
これまでの生の全てを武人としての研鑽に費やしてきたグレンゼルムには、一般的な感性が身に付いていなかった。
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私はグレンゼルム。「魔王」なんぞと大層な名前で呼ばれ、いわれもなく憎まれることに憂鬱な気持ちを抱えていたら、些細な憂鬱など軽く吹き飛ばす勢いで突っ込んできた少女に城を破壊され、壁の修繕にかかる費用で別の憂鬱を持ち込まれた、哀れな一介の武人だ。遠慮なく笑うがいい。
今までにも他国から勇士が送られてくることは何度もあった。だが奴らはいちいち壁を破って入ってくることはなかったし、精々が門を蹴破る程度の「お行儀のよい」奴らだった。門の開け方も知らない野蛮な連中、などと揶揄する必要もあるまい。私とて、たまにはそういう気分のときもある。勢いよく門を開けるのは割と気持ちが良いのだ。
だが、あの勇者は違った。まるで自分の振る舞いこそが疑いようもなく正義で、それ以外は何も認めないとでも言わんばかりに、さも当然のように壁をぶち抜いてやってきた。勇士の中にもたまにいた、言葉の通じない蛮族とは違う。文化にも大きな差異はなく、普通に言葉が通じているはずの少女が、ただ「それが可能だった」という一点だけで、私ですらそこそこ壊すのに難儀する壁を、造作もなく、ついでに何の遠慮もなくぶち抜いた。常軌を逸していると思う。というか、蛮族たちですら門を通るくらいの礼儀はあった。
「壁の修繕もただではないのだがな。本当に他国の連中は、人の家を気軽に壊してくれるから困る」
そうぼやくと、修繕用の資材と代価を揃え、詠唱する。
「修復式。何ら非もなく壊された我が住居に、元と変わらぬ安寧と安息を望む」
他国がどうなっているかは知らんが、この国では「式」と呼ばれる精霊たちが、壁の修繕といった雑事に限らず、あらゆる現象を代行してくれる。原理が気になり、式に詳しい友に尋ねた事もあるが、凄まじい熱意で語られた、専門的な事は何一つ覚えていない。それでも、不服そうに友がまとめた結論だけは覚えている。
「不本意ながら大雑把に言うとだな、やりたかったことを出来るだけの材料と、それから魔力、後は精霊様に対する感謝の気持ちを込めて具体的に願えば、精霊様が勝手にやってくれんのよ。取り敢えず感謝だけは忘れんなよ。……全く、お前は何でも知りたがる癖に、肝心の理解力が足らん。ばーかばーか」
兎に角、感謝だけは忘れないことが大事らしい。それだけは覚えている。実のところ、この国では式の活用は非常にありふれたことで、幼子でも当たり前に扱っている。だが、扱い方を教わる際に「精霊への感謝を忘れるな」という話は、それまで一度も聞いたことがなかったのだ。
「……私が馬鹿なのはそうだが、理解出来なかったのは、お前が誰よりも賢く、詳しかったからだと思うぞ」
友の幼稚な悪口を思い出し、軽く笑いながら感傷に浸る。それを教えてくれた友は既に死んだ。式について詳しいものは最早誰も残っていない。いずれは式に関する知見も失われていくのだろう。
いつの間にか修繕の終わった壁の近くに、ほのかに光る温かなものが漂っている。どことなく誇らしげに見えるその光こそが、恐らくは式であるのだろう。
「大儀だった。感謝する」
そう伝えると、ほのかな光は嬉しそうに跳ね、弾けるように消えた。
さて、すべき事も終わった。後は明日に備えて寝るだけだ。いつから始めたかはもう忘れたが、眠る前に安眠の祈りを捧げておこう。
「道半ばを征く全ての意志あるものに、導きの祝福があるように」
グレンゼルムは明日が良くなることを祈りながら、眠りについた。