きっと違うのなら ⑦
美来がのし掛かろうとしたところ、男は体を横に転がして右手のナイフで宙を切った。
端から見るとただの苦し紛れの行動であるが、そのナイフの先端で微かにシャツの袖を切られた美来は思わず攻撃の勢いを緩めてしまう。
男はその隙を逃さず、背中で体当たりするかのように勢いよく起き上がる。
「きゃっ!」
突きだされた男の背にぶつかる美来。
人間的な膂力において、成人男性である男にただの女子高生である美来が叶う道理はない。
その勢いのまま後方に突き飛ばされる美来。
「舐めやがってぇぇぇ、このアマぁ!!」
先ほどの攻防の結果、完全に美来がターゲットになったらしい。
久美のことは頭の中から抜け落ち、まるで猛獣のようにナイフを振り回しながら美来に迫る男。
でたらめな攻撃であるが、無秩序に振るわれるナイフは美来に反撃の隙を与えない。
先ほど戦った男性捜査官なら余裕の表情で回避してのけそうだと考える美来であるが、彼女は彼のように華麗に避ける身体能力は持ち合わせていない。
「ぐっ……」
ゆえに苦し紛れに後方へ退きながら紙一重で避け続ける。
しかし、こんなことは長続きしない。
ほどなくして美来は背中に何かがぶつかる感触を受けた。
(しまった……!)
建物の塀にぶつかったのだ。
その場しのぎの限界がやってきたことに歯噛みする美来。
後方の塀に体を預ける形で体勢を崩した彼女は、もはや左右へ逃れることもできない。
それに、今まさに目の前には振りかぶられた凶刃が迫っている。
どう足掻いても回避はできない。
間違いなく、だ。
その厳然たる事実に、美来は諦めるように瞳を閉じる。
もう、駄目か。
美来は諦観に満ちた面持ちで、そう重々しく呟くと。
世界は、塗り変わる。
唐突に響き渡る轟音。
それを合図に、鮮やかな紅の雫が地を濡らす。
「ぎゃっ! がっ! はぎゃああああ!!!」
両手両足から多量の血を撒き散らしながら地面を惨めに転がる男。
美来の<想起>により、背後の塀から生成された四本の巨大な槍が、彼の四肢の腱をそれぞれ引き裂いたのだ。
相当深々と抉ったようで、男は手足を少しも動かすことができないようだった。
代わりに自由なままの口が、想像を絶する苦痛を表現する。
聞くに耐えない泣き声を上げながら身悶えする彼。
「……」
使ってしまった。
これで、もう自分が捕捉されるのも時間の問題だ。
絶望に囚われた美来は茫然として俯くと、地面に這いつくばる何かが視界に入る。
(……あぁ、そうだ。コイツのせいで)
這いつくばる何かと化した無様な男を、美来は感情の抜け落ちた表情で見下した。
そんな彼女の顔が視界に映った彼は、心の中にどうしようもない畏怖の念がわき起こるのを感じた。
「ばっ……化け物……」
全くそのとおりだ。
男の言葉を受けて、自嘲気味に笑う美来。
返り血で頬を塗らしながら口元だけが嗤うその姿は、既に畏怖で心が屈した男にとって、悪魔のそれに映った。
「さ……なだ……?」
そして、そんな思いを抱いたのは1人ではない。
後ろから呆然とした掠れた声が響く。
喪失感から、もはや頭がまともに動かなくなった美来は男を畏怖させた表情のまま振り向いてしまう。
美来の虚ろな視線と交わる久美の瞳。
そこにはもう、先ほどまでの小動物的な可愛らしさを感じさせる彼女はいない。
代わりにあるのは、ただ目の前に撒き散らされた血肉を事も無げに見つめる化け物のみ。
「ひっ……」
思わず悲鳴を上げる久美。
そんな彼女の反応に、ようやく美来は我に返る。
「あっ……」
美来を怯えた目で見つめる久美。
背後を振り向くと、美来の動きにつられて「ひっ!」と短い悲鳴を上げる男の姿。
それらを見て、彼女はようやく事態を把握した。
「化け物……か」
1人呟く美来。
本当に。全くそのとおりだ。
自分ら想起者を表現する上で、これほど適した言葉があるだろうか。
私たちは所詮、人と交われぬ化け物。
それは私に対して友好の意思を持っていた彼女の反応からも明らかだ。
本性を一度さらけ出せば、そんな彼女すらも私を見る目が変わるのだから。
だから、私がもはやすべきことは1つだけ。
その事実に、美来は堪えきれずに涙を流しながらも精一杯の笑みを久美に向けて呟く。
「ごめんね……」
貴方を傷つけて、ごめん。
結局……復讐にしか生きれなくて、ごめん。
貴方が親しみを感じてくれた私が……こんなにも醜い化け物で、ごめん。
数多の意味を内包した美来の謝罪。
その切ない笑みに、我に返った久美は掠れた声で彼女を慰めようと必死に言葉を紡ごうとする。
しかし、何の言葉も出てこない。
そして。
美来は地面の中へと消え、いなくなった。
何が起こったかすぐにはわからなかった久美であるが、どうやら美来はもうこの近くにいないということを理解すると自分の無力さに項垂れた。
「馬鹿……」
久美は自分を、自分という人間のくだらなさを叱咤する。
真田は私のせいで傷ついたのに、一言の慰めも口にできないなんて。
自分はなんて薄情なやつなんだ。
あの父親を笑えない。最低だ……。
(ごめん、真田。ごめん。ごめん……)
久美は美来が消えていった地面を震える指でなぞりながら、通報を受けてやってきた警官がくるまで泣き止むことはなかった。




