嵐の前の静けさ ③
真人は「やれやれ」と言いながら空になったグラスに水を注ぎ、もう一口飲んだ。
「全く……。こういうえげつないところがなければ可愛い女の子なんだがな……」
綺麗な薔薇には棘がある。などというが愛示の場合、棘どころかチェーンソーだ。
「何言ってるんですか。それも含めて私は可愛いんですよ?」
確かにそれを可愛いという者もいるだろうが、真人にとっては悩みの種でしかない。彼は『やれやれ』とため息をついた。
すると、その反応はおきに召さなかったのだろう。
抗議するように、ズイっと身を乗り出して「むー」と怒った顔を近づけてくる愛示。
真人は「ひえっ」と声を漏らしながらのけぞると、同時にふわっと石鹸の柔らかな香りが彼の鼻腔をくすぐるのを感じた。
(あ……いい匂い)
素直にそう思う真人。
彼女とて現場の捜査官なのだから汗臭さとは無縁ではないと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
……いや、それだけ彼女が入念に気を付けているというべきか。
(そういえば、アイツも……)
匂いにつられ、真人は亡き元・相棒の事を思い出す。
『―――ん? リンゴの匂いがするって?』
ある日。対策局の屋上で休憩を取っていた時、俺は白宜から不思議な匂いがするのを気になって聞いたんだ。
すると彼女は可笑しく感じたのか、俺の問いにケラケラと笑っていた。
『あはは。真人は香水も知らないの?』
『……いや。勿論、香水くらいは知ってるよ。ただ、お前が香水をつけるタイプに見えなかったから驚いただけだ』
白宜は子供のように自由奔放で、オシャレなんて微塵も興味がないのだと当時思っていた俺は、彼女が香水をしていることに意外感を覚えたんだ。
それに。彼女は雪のような髪や肌に、整った造形をしていたので、そんなものなど気にする必要もないのだろうと思っていた。
『まぁ、私もホントは香水なんて興味はないけどさ。『これ』だけは特別なの。……真人は、創世記って知ってる?』
『創世記……。ええと、「アダム」と「イヴ」が出てくる話だよな?』
『そう。彼らはエデンに住んでいたけれど―――』
『―――ある日。イヴは蛇にそそのかされ、知恵の果実を……リンゴを食べてしまった、だったか?』
『うん。私が「リンゴ」の香水を使っている理由は「それ」なの。私はね、真人。イヴが羨ましいんだ』
白宜は手すりの上で腕を組んで、どこか儚げな表情を浮かべながら話した。
最初は何となく聞いただけだったが、彼女がそんな表情を浮かべる理由が知りたくて、俺はつい再び質問をしてしまったんだ。
『羨ましい……って何がだ?』
『だって。イヴはアダムの肋骨から作られた、つまりは彼の半身なんだ。それってさ』
白宜は手すりから体を離して俺の方へ振り返ると、まるで天使のような綺麗な笑顔を浮かべていた。
『もう一人の自分という、最高の「理解者」がいたってことだから―――』
「……先輩?」
夢心地の彼を訝しむ愛示。
真人は後輩の声を聞いて我に返った。
(……いけない。呆けてしまっていたな)
「ああ、いや。なんでもない。そろそろ出るか」
誤魔化すように時計に目を走らせる真人。
するともうすぐ午後10時半だ。明日は昼からの出勤であるが今日は事件の対処もあってお互い疲れているはず、早めに休むべきだろう。
「確かにそうですねぇ。確かに時間も遅いですし……。うーん……」
同意しつつ、首をひねりながら考え事を始める愛示。
恐らく帰路について考えているといったところか。
愛示の家はここから車でも1時間近くかかる。
それに対して真人の家は10分も運転すれば着く距離だ。
なので彼女の次の言葉はきっと。
「先輩、今日泊っていっていいですか?」
(やっぱりそうきたか……)
実を言うと、この流れは今までに何度か経験済みなのだ。
初めの一回目は彼女も抵抗があったようだが、喉元過ぎれば……と言ったところか、二回目以降はかなり気軽にお願いしてくるようになった。
だが、一方で真人のほうは一向に慣れない。いや、別に愛示に対して遠慮などよそよそしい思いは皆無であるが、昨今はセクハラ問題が取り沙汰されている。
万が一何かあったらと思うと怖くて震えずにはいられないのだ。
「いいですよね?」
……とはいえ、せっかく機嫌を直してくれた愛示の気分を損ねるのも気が引ける。
なのでいつものように真人が根負けすることにした。
「しょうがないな……今回だけだぞ」
彼は『どうせ今回だけにはならないのは目に見えている』と思ったが、抗議はしない。無駄なことだからだ。
にも関わらず、あえて『今回だけ』というワードを欠かさないのは、こうして建前上だけでも意思表示を続けることで、いつか気の遠くなる先で愛示がお願いするのをやめる、という極小の可能性……いや、希望の芽を残しておきたいという淡い思いがあるからだ。
だが、どうやらそんな真人の思いは彼女に微塵も伝わっていないらしい。
そのセリフを全く気にかけず、更なる要求をしようと口を開く。
「あー、それとなんですけども。先輩の家って、確か空き部屋がありましたよね?」
たった今思いついた、という素振りで口を開く愛示。
(……!?)
真人は息を呑む。
これから何を言い出すか予想できてしまったのだ。
「そろそろ先輩の家にも私の衣装ケースや日用品を置きたいなと思ってたので、その空き部屋もらってもいいですか?」
(なんてこった……)
末永くお世話になる気満々の愛示。
とうとう、我が家に愛示の部屋が出来ることになるのだ。
無邪気で綺麗な笑みが今はただただ恨めしい。
今回ばかりは、無駄とわかっていても口にせずにはいられず。
「やっぱり今回限りにするつもりないじゃないか……」
哀れな男の悲鳴が夜の路地に響いた。




