九
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祥子の家は、待ち合わせの駅からバスで10分ほどの小高い丘の上にある住宅街にあった。駅で瑞穂と別れた三人は、祥子の部屋にお邪魔していた。女の子の家に来るのは、卓也にとって二回目のことだった。いや、清美の家に行ったのは二年後のことだから、今の自分にとっては初めての経験か。女の子の部屋にまで入ったのは、どちらにしても初めての経験である。
祥子はベッドの前に小さめのテーブルを広げ、英語の問題集とノートを広げる。そして、「浅野君は、私の机でパソコンを使って調べてね」と声を掛け、パソコンのスイッチを入れる。二年後にも自分用のパソコンがない卓也にとっては、夢のような環境である。
大学受験のサイトを検索エンジンで探し、スケジュールを確認する。第一志望は決まっている。国立の難関校。ここに入学することを目指して、これまで何度も過去問を解いてきた。高校生に戻ってからは、忘れてはならないと思い、記憶を辿って入試問題をノートに復元してある。もちろん、誰にも見せられないが。自分のスケジュール帳と女子用のもう一冊のスケジュール帳に、その大学の入試日と合格発表日を「浅」という符号をつけて書き込む。
ここで卓也は、志望校一つのことだけを考えていたことに気づいた。入試問題までわかっている以上、不合格になることなど万に一つも考えられないが、一校だけしが受験しないのはあまりに不自然で、親や先生から何か言われるだろう。また、国立大の合格発表があるのは三月に入ってからなので、どこか私立大で合格を出しておかなければ、自分も親も不安になる。あの二の舞はもうごめんだ。そこで卓也は、私立の難関校を二つ、有名校を二つ選んで記入する。自分の通っていた母校は、もう受ける気はない。
徹は祥子が解いた英語の問題の答え合わせをしている。正解率は7割といったところか。卓也は2冊のスケジュール帳に記入し終わったことを告げ、徹が持っていた残り2冊のスケジュール帳を預かってそこにも記入する。
「あ、浅野君。スケジュール帳はどっちがいい?」
祥子が尋ねる。男子用のスケジュール帳は、黒と紺の二種類がある。今のところ、中身は全く同じだ。
「徹はどっちがいい?」
卓也が聞くが、徹は「どっちでも」と言うだけで、問題の解説を読むのに必死だ。
「じゃあ、僕は紺にするよ。徹のイメージは、紺より黒だもんな」
「何か少し引っかかるが、それでいいよ」
「じゃあ、名前書いておいてね」と祥子が言うので、裏表紙の裏に名前を書き込む。これで、完成だ。
「ちょっとトイレ借りるね」
やらなければならないことが終わったので、卓也は席を立った。
「遅かったな」
部屋に戻ると、パソコンに向かって受験スケジュールを調べていた徹に声を掛けられた。
「ごめん、おばさんに話しかけられて」
トイレから出たところで祥子の母親に話しかけられ、暫く立ち話をしていたのだ。どこの大学を受けるのかという話から始まり、徹といつから友達なのかということ、徹はどんな男でどの大学を受けるのかという話まで、十分あまりも話をしていた。もちろん、母親が知りたいのは、自分のことより徹の情報だったのだろう。親としては、自分の娘が付き合っているのがどういう男なのかを知りたいのは当然だろう。
「どの大学を受けるのかとか、成績はどうなのかとか、クラブは何に入っていたのかとか、徹のことばかり聞かれたよ」
「もう、ママったら…」
祥子は赤い顔をしてふくれっ面をしている。徹は苦笑いだ。
「で、僕は菊池さんの勉強を見るのを代わればいいんだね?」
「ああ、すまん。長文読解の問題は俺が見たから、文法問題を見てやってくれないか。俺はこいつを仕上げるから」
スケジュール帳を手に持って、徹が応える。
「了解。早めに頼むよ」
そう言って、卓也はテーブルの前に腰を下ろした。祥子が解答した英文法の問題を採点する。時制、関係代名詞など、基本の問題はできているようだ。あとは、特別な言い回しなどをしっかり覚えれば…。とそこで、卓也は視線を感じて顔を上げる。祥子がこちらを見てニヤニヤしている。
「えっと、何かな?」
「ううん、何でもない」
「気持ち悪いな。何か僕の顔についてる?」
そこで徹が卓也に声を掛けた。
「おい、卓也。お前、国立の後期はどうするんだよ?」
…そうだ。国立大の後期のことはすっかり忘れていた。卓也の志望大学には後期試験はないので、全く考えていなかったのだ。以前は関西の大学を受験したが、競争率が非常に高くて歯が立たなかった。
「そうだな。徹はどうするんだ?」
「俺は都内の別の国立大にするよ。難関だけどな」
「じゃあ、僕もそうしようかな。文系の学部ってある?」
「社会学部があるな。俺はそこを受けるんだけど、お前は心理学志望だろ?」
「そうだけど、そうなると関西の大学になるんだ。うーん、どうしよう」
「やりたいことをやるのが優先だろ。関西の大学でもいいじゃないか。いずれにしても有名大学だし」
「浅野君が関西の大学に行ったら、遊びに行ってもいいかな?」
祥子が能天気なことを言っている。
「それは、第一志望はダメっていう前提だよね。ご期待には添えませんが」
「そっか、そうだよね。ごめんね、変なこと言って」
「いいよ、全然。それより、菊池さんも徹と同じところ目指してるんだよね。頑張らなきゃ」
「うん、難しいのは分かってるんだけど。どうしても同じところに行きたいので、頑張りまぁす」
敬礼のポーズを取る祥子を見て、卓也は少し心が痛む。確か祥子は浪人をしたはずだ。そのことを聞き、二流大学に進学をしてしまった自分を卓也は心のどこかで恥じていた。そのことも、再受験を目指した一つのきっかけだったのだ。
「関西の心理学のある学部っていうと、ここだよな」
徹がパソコンのモニターを卓也のほうに向ける。そう、以前も受験したところだ。
「そうだね。そこになるはず。じゃあ、スケジュール帳に書き込むよ」
「いやいや、お前は祥子の面倒を見てやっててくれ。俺が書いといてやるから」
慌てて徹はモニターを自分のほうに向けて、卓也を制した。
「どうせ色んな字で書き込んであるんだから、構わないだろ?」
「まあ、そうだね。センターの得点次第で変わるかも知れないんだけど」
徹の動作に卓也は少し不自然さを感じたが、そう応じる。そう、センターの得点次第で受験校は変わる。卓也は何度も解いている問題なので、満点かそれに近い得点になることしか考えられないが。
「そうだな。まずはセンターだな」
徹はそう何度も頷きながら予定を書き込み、「できたぞ」と言って紺のスケジュール帳を卓也に、そして女子用の二冊を祥子に渡した。