七
七
徹たちとの約束の時間にはまだまだ時間がある。
卓也は駅前のいつもの書店に入って、お気に入りの作家の歴史小説を探した。ずっと三国志を読みたかったのだが、部屋の本棚には並んでいなかった。まだ持っていなかったのだ。三国志のシリーズを揃えたのは、大学に入ってからだ。通学が長時間になり、本を読める時間が増えると、卓也はまずこのシリーズを購入した。面白くて、三日ほどで一冊を読んでしまったことを覚えている。
文庫本の歴史小説のコーナーを探すと、すぐにそのシリーズが並んでいるのが目に入った。一冊600円。今日遊びに行くことを考えると、二冊買うのは厳しい。大学時代もそれ程アルバイトをしていなかったので余裕があったわけではないが、高校時代はそれ以上に苦しかったのだなと思う。働きもせずに親から小遣いを貰っている身なので、仕方ないのだが。
レジに並んでいると、後ろから誰かがトントンと卓也の肩を叩いた。
「何の本を買うの?」
振り向いた卓也は、驚いて思わず後ずさる。清美がすぐ後ろに並んで、徹の持っている本を覗き込んでいる。
「びっくりしたよ。また驚かすなんて、片瀬さんはひどいな」
「え、前にもあった? こんなこと」
清美は何のことかわからず、思いを巡らせている。しまった、あまりにも似たシチュエーションだったので、思わず口に出てしまった。卓也が清美に書店で驚かされたのは、大学時代のこと。今の清美が知るはずはない。
「しょ、食堂でだよ。まさかお茶を持ってきてくれるなんて思ってもいなかったから」
「あれは、偶然空いた席の前に浅野君たちがいたから。そんなにびっくりしたの?」
「びっくりしたというか、感心したというか。ちょっと嬉しかったな」
「えへへ。私ってちょっとおせっかいなんです」
清美は、照れて少し赤くなっている。そう、そんなところも大好きなんだと卓也は思う。
「何の本なの?」
「これは三国志。僕が一番好きな作家で、特に歴史小説が最高に面白いんだ」
「へえ。でも、三国志って色んな作家が書いているじゃない。どう違うの?」
「人間ドラマの描写が秀逸で、男のロマンが根底には流れているんだ。泣けるよ」
「そうなんだ。私が読んでも面白いかな」
「うんうん、お薦めだよ。今度貸してあげようか」
「有難う。じゃあ、お願いしようかな」
「片瀬さんは何の本を買うの?」
「これ」と言って、清美は手に持っている本を卓也に見せる。フランス、ドイツ、スペイン。ヨーロッパへの旅行ガイドだ。
「ヨーロッパに旅行に行くの? この時期に?」
「ううん、さすがに受験前には行けないよ。でも、合格できたら行こうかなって、友達と話してるの」
そうだったなと徹は思う。旅行代理店に勤めたいと、清美は話していた。海外が好きなのだろう。
「それで今からプランを立てるんだ」
「まだ立てないよ。息抜きに眺めるだけ。でも、もし推薦で合格できたら、私のほうが時間ができるでしょ。プランを立てるのは私って決まっているの」
「いいね。僕はまだまだ合格できるかどうかもわからないから、そのあとのことは考えられないな」
「卓也君なら大丈夫じゃないかな。このところ、ずっと成績いいもんね。この前の模試も、A判定出てたんじゃないのかな?」
「模試は模試だし。もしもってこともあるから」
「何それ? ダジャレ?」
二人は顔を見合わせ、思わず吹き出した。
レジで精算を済ませ、本屋を出たところで卓也は清美と別れた。カラオケに清美も誘いたかったが、さすがに突然誘うのは憚られて言い出せなかったのだ。それでも、本を貸す約束ができたので、卓也の胸は躍っていた。明らかに以前経験したことのない出来事が起こっている。
少し早いが、電車に乗る。卓也以外は隣町に住んでいるので、急行で二つ先の大きな駅で待ち合わせをしているのだ。卓也は、先ほど購入した三国志の第一巻をリュックから取り出すと、最初のページを開いた。新しいが、懐かしい。
急行は、一つ目の停車駅で扉を開いた。ここは、徹の家がある駅だ。以前は、卓也は何度か徹の家にお邪魔したことがあった。その時は、勉強を教えてもらいに行ったのだが、今は逆の立場にある。ふと目を上げると、徹が一つ向こうの扉から乗ってくるのが見えた。祝日の昼前だというのに、車内は乗客でいっぱいだ。どうせ次の駅で合流するのだからと、卓也は声を掛けずに本の続きを読み始めた。
待ち合わせの駅に電車は停車し、扉を開いた。卓也は徹に声を掛けようと追いかけるが、人混みに邪魔されてなかなか追いつけない。徹はポケットからサングラスを取り出して掛けたようだ。そのまま早足で階段を駆け下りる。待ち合わせとは逆の方向だ。漸く追いつきそうになったとき、卓也は思わず足を止めた。徹が煙草の自動販売機の前で立ち止まり、何かブツブツ言ったかと思うと、コインを投入したのだ。
……!
徹が高校時代に煙草を吸っていたとは。もし学校にバレたら、停学ものである。卓也は驚いて思わず柱に身を隠す。吸っている現場を抑えて、問いたださなければならない。これは、友人の務めだろう。