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過去を掴んだ男たち  作者: 榊原高次
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頭が重い。

卓也は目を覚ましたが、しばらくベッドから動けずにいた。

今日は月曜日。一時限目から講義がある。センター試験直前の時期だが、まだ再受験をすることを親に話していなかった卓也は、大学をさぼることなく、続けて行っていた。毎日帰宅すると、自室にこもって入試対策の勉強に明け暮れる日々だが、親は添削のアルバイトを一生懸命やっていると思い込んでいる。本棚に置いてある赤本も、参考資料と思ってくれているようだ。そろそろセンター試験の受験票が届く時期なので、それが見つかってしまえば話さなければならないが。

昨夜の雨は止んだらしい。窓から眩しい光が差し込んでいる。そろそろ用意をしなければ。卓也は重い頭を気にしながらもベッドから起き上がった。着ていく服を探す。少し前に気に入っていた服が目に入り、それを着込んだ。鞄を探す。高校時代から使っているお気に入りのリュック。携帯電話を胸ポケットに差すと、卓也は階段を下りてリビングに向かった。

壁の時計を見る。七時少し前。七時半には家を出なければ、一時限目に間に合わない。食卓には、既にパンと牛乳が置かれている。

「おはよう」

母親がキッチンから声を掛けてくる。少しだがいつもより若く見える。

「何だか今日は若く見えるね」

「あら、そう? そんなことも言えるようになったんだね」

母親はお世辞と受け取ったのか、笑いながらそう応えた。

「今日はその恰好でいいのかい?」

「うん」

テレビのスイッチを入れて、卓也は返事をする。少し前の服なので、母親は気にしているのかも知れない。

「ならいいけど。何かの行事があるんだね。いつも通りに出るのかな?」

「そうだね、七時半には出るよ。あまり時間がないね」

「朝ごはんは大事だよ。勉強も大事だけど、体が第一だからね」

思わず卓也はどきっとする。受験勉強をしていたのがバレてしまっていたのか。

「母さんは知っていたのか。勉強しているの」

「そりゃそうよ。感心してはいるけど、あまり遅くまでしたら体に毒だからね。睡眠は十分に取るようにしなさいよ」

「わかってるよ。でも、自分の為だから頑張らなきゃ」

卓也は、自分の受験勉強を知りながら見て見ぬふりをしてくれていた母親に感謝をしながら、思いを新たにする。

朝食を食べ終わり、洗面所で歯を磨く。いつもと同じ、少し冴えない顔だ。そろそろ出なくては。

玄関に向かう卓也を母親は追いかけてきて、小さな袋を渡す。

「お弁当を忘れてるでしょ。それと、いつも頑張っているから、臨時のお小遣い。帰りに本屋で問題集でも探してきなさい」

母親の気遣いに、卓也は目頭が熱くなる。弁当なんて高校時代以来だが、たまにはいいかも知れない。それに、少しでも財布が助かれば有難い。小遣いまでくれるなんて、本当に助かる。これが、母親の愛というものなのだろう。

「有難う。助かるよ」

卓也はリュックに弁当を詰め、千円札をポケットに押し込む。「じゃ、行ってきます」

お気に入りのスニーカーを履くと、卓也は玄関のドアを開けた。


いつもの道を駅へと急ぐ。足元に目を落とした卓也は、スニーカーが昨日より綺麗になっているのに気づいた。昨晩のうちに母親が洗ってくれたのか。

改札口。リュックのポケットから定期券を出し、改札機に通す。一番線。都内行きの急行は、いつものように満員だ。ここから学園前駅までは約五十分。いつも思うが、これだけ沢山の人がそれぞれ我慢をしながら、よく毎日通勤や通学をしているものだ。

卓也は胸ポケットから携帯電話を取り出す。電話やメールを誰かにするわけではない。二か月ほど前に交わした電話番号。その番号を見て、ほんの少しだけ幸せな気分を感じ、受験勉強の励みにするのが朝の日課なのだ。

電話帳で清美の番号を探す。カ行の一番上にあるはずなのだが、見当たらない。

「おかしいな」

思わず独り言が出る。他の高校時代の友人達の電話番号やアドレスは、ちゃんとある。操作ミスをして消してしまったのだろうか。しかし、毎日見ている電話番号だ。忘れるはずがない。卓也は清美の電話番号を新規に登録し、胸ポケットに携帯を差し込んだ。

リュックのポケットから、文庫本を取り出す。時間つぶしにはこれが一番いい。歴史ものが好きな卓也は、同じ作家の小説を繰り返し読んでいた。今はまっているのは、中国の三国時代の物語。様々な作家が「三国志」というタイトルの小説を書いているが、この作家の全十三巻のシリーズが秀逸だと思っている。

取り出した文庫本の栞がはさまっているページを開く。昨日読んだ続きは、赤壁の戦い後に劉備が益州を目指すところ。三国鼎立が成り立とうとするところだ。

しかし、読み始めたその一行目で卓也は違和感を感じる。「九州」「足利」「朝廷」。明らかに日本の南北朝期の歴史もの。あわてて最初のページにある書名を確認する。やはりそうだ。間違えて違う本を持ってきてしまったのか。

卓也はそれでも、その本を最初から読み直すことにした。辛い満員電車通学のためのあと数十分を過ごすためにはそれしかないし、この本も好きで、高校時代には三度ほど読み返した覚えがある。暫くは「三国志」三昧の通学だったが、たまには日本の歴史もいい。


学園前駅。いつものように、学生たちが電車から一斉にホームに吐き出される。女子は、茶髪にしている子が多い。どうにも卓也は、茶髪の女子が苦手だった。やはり、まっすぐな黒髪がいい。

改札機に定期券を差し込む。通りぬけようとした卓也を、改札機のバーが阻み、警告のチャイムがなる。「精算して下さい」という、無機質な機械のアナウンス。卓也は、吐き出された定期を抜き取り、後ずさった。定期券をよく見る。表示されている区間は、卓也の自宅の最寄り駅から、二駅先の駅まで。高校がある駅だ。しかも、有効期限は二年前の十二月末まで。これでは、改札を通れないはずだ。しかし、なぜこんな古い定期を持っているのだろう。

よく考えたいところだったが、学生の波に押されて迷惑を掛けている。中には露骨ににらむ男子学生もいて、卓也は仕方なく精算機に並んだ。ポケットの小銭入れには、あまり入っていない。リュックに札入れが入っているはずだが、取り出すのが面倒だ。と、先ほど母親からもらった千円札がポケットをまさぐる手にあたり、それで卓也は精算を済ませた。

大学までは徒歩十分といったところだが、時間的にはあまり余裕がない。何故こんなに古い定期を持っていたのかを考えながら歩いていた卓也は、あることに気づく。そもそも、自宅の最寄り駅ではどうしてすんなり入れたのか。そして、どうして精算機で精算できてしまったのか。期限切れの定期なのに。

答えを見つけらないまま、卓也は大講義室の扉を開ける。一時限目は一般教養の心理学。教室内を見回しても、知り合いの顔は見つけられなかった。サークルの仲間が二人ほど同じ授業を取っているはずなのだが、一時限目なのでさぼっているのだろう。仕方なく、扉近くの端の席に卓也は座った。

リュックを開く。テキストは昨夜のうちに入れておいたはずだ。しかし、見当たらない。リュックの中に入っているのは、高校時代の教科書と受験対策の英単語の本。何度探しても、心理学のテキストだけでなく、二時限目の語学のテキストもない。そのうちに始業のベルがなり、教授が入室して授業が始まってしまった。

しばらく卓也は呆然としていたが、思い直してルーズリーフを取り出し、ノートを取り始めた。もう一度受験をすることは決めているが、もしもの場合は編入試験を受けることも検討しなければならない。そのためには単位をしっかり取っておく必要があるので、どうしても落とせないのだ。

授業では、人間の記憶についての話をしている。短期記憶と長期記憶。短期記憶は長期記憶に移されるのだという。そして、長期記憶は忘却されていく。確かに昨日のことは覚えていても、よほど印象的でない出来事は、人間は忘れていく。しかし、大抵は昨日のことは一週間前のことよりもしっかり覚えているものだ。

自分の昨日のことを思い返してみる。確か昨日は隣町の図書館で夕刻まで勉強をした。帰りにいつもの本屋に立ち寄ったが清美に会うことはできず、大学願書のコーナーを眺めただけで帰った。夕食は、チキン南蛮だった。そして、英単語で覚えていないものをもう一度覚えなおし、清美にプリントアウトしてもらった今年度のセンター試験を一通りやってみた。しっかり覚えているではないか。

大学の授業は長い。時計は、九時半過ぎを指しているが、まだ90分授業の半分といったところである。後ろから見たところ、三分の一ほどの学生が居眠りをしている。

その時、胸ポケットの携帯電話が震えた。マナーモードなので授業を邪魔することはないが、卓也は机の下に電話を隠し、自宅からであることを確認して終話ボタンを押した。授業が終わってから掛け直せばいい。しかし、すぐにまた携帯電話は震え始める。仕方なく卓也はそっと立ち上がり、教授に向かって軽く会釈をして扉を開け、教室内から外に出た。

「あなた、どこ行っているの!」

母親だ。

「どこって、大学の授業受けてるけど…」

「何を寝ぼけてるの? 先生から来ていないって電話があったわよ」

「先生?」

「担任の松原先生。高校二年生が大学の授業を受けてどうするのよ」

卓也は、何も言えなくなった。

「とにかく、一度家に帰ってきなさい。普段着を着ているからおかしいとは思ったのよ。ちゃんと制服を着て、すぐに高校に行きなさい!」

「……」

「返事は?」

「……はい」

なんだ、これは。高校二年生? そういえば、今日はずっとおかしなことが続いているけれど。卓也は、ここに来るまでのことを思い返してみる。古い定期、以前読んでいた文庫本、高校の教科書。もし自分が二年前に戻っているのだとしたら、辻褄が合う。とにかく一度、家に帰ろう。卓也は再び大講義室内に戻って机を片付け、再度教授に向かって会釈をして外に出た。


母校の校門をくぐった。二年生だとすれば、三組のはず。卓也は記憶をたどりながら、自分の靴箱を見つけて履き替える。綺麗だと思っていたスニーカーだが、よく見るとまだ新しい。やはり、自分は高校二年生なのか。

二年三組の教室。中では、英語の授業をやっている。外から覗くと、懐かしい面々が真剣に授業を聞いている。卓也の母校は、このあたりでは名門の進学校ということになっていた。しかし、最近は浪人をしてから有名大学に入る生徒が多く、現役での進学率はそれほど良くはない。卓也も志望大学には入れず、今の(いや、将来の)大学に入学したのだ。外から覗き、自分の席を探す。空席は二つ。どちらも列の後方で、どちらだったかはよく思い出せない。

そっと扉を開け、近くの席に座る。

「お、浅野、遅かったな」

担任の松原先生。英語の先生だ。

「で、まだ寝ぼけているようだな。お前の席はあっちだぞ」

教室内が笑いで包まれる。卓也は頭をかきながら席を移った。

後ろから誰かがトントンと肩をたたく。

「めずらしいな、お前が遅刻するなんて」

竹内徹だ。こいつとは、二年・三年と高校で同じクラスだった。高校卒業以来会っていなかったが、一流大学に進学できた徹を、卓也はずっと羨ましく思っていた。その思いもあり、再受験を決めたのだ。

「色々あってね」

卓也はそう小声で言うと、リュックから英語の教科書を出した。なるほど、それでこの教科書が入っているわけか。授業では、過去分詞の基本の話をしている。ずっと受験勉強に明け暮れていた卓也には、それが何だかバカにされているようにも感じられた。

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