三
三
目が覚めた。
よく眠ったはずなのに、昨夜の頭の重さの余韻が残っている。徹は軽く頭を横に振ると、体を起こした。
今日の予定はどうだったか、重い頭で考える。確か、十時から課内の会議で、午後は都内の得意先を二件回り、直帰の予定のはずだ。
まずはコンタクトレンズをつけなければと思い、ベッドの宮棚に置いてあるはずの容器を探す。
…?
コンタクトレンズの容器がない。寝ぼけて手を当てて落としてしまったか。しかし、どうやらこのベッドには宮棚はついていないようだ。徹は仕方なく起き上がり、ベッドの横にあったテーブルの上をまさぐる。と、手に眼鏡が当たった。急いで眼鏡をかけて、辺りを見回す。
…いつもの寝室ではない。しかし、見覚えは確かにある。ここは、実家の自分の部屋ではないか。咄嗟には今の状況が呑み込めない。記憶が混乱しているのか?
確か昨夜は美由紀と夕食中に、私はどうでもいいのかと言われて喧嘩になった。いつもならうまく受け流すので喧嘩になるはずはないのだが、頭が重くて気か滅入っていたせいか、つい冷たい反応をしてしまったのだ。
そのあと風呂に入り、あがってリビングに戻ったときには美由紀はもう幸平の寝ている部屋に入ってしまっていた。気分が晴れないので、頭が重いのが気になったが一人でウイスキーを呷ったのだ。そのあとはあまりよく覚えていない。腹が立って実家に来たのか? 二時間近くもかけて?
実家の徹の部屋は、家を離れてもそのままの状態で残してあった。しかし、全く高校時代と何も変わらずそのままだとは。テーブルの上に埃が積もっていることもなく、定期的に母親が掃除をしてくれているらしいことがわかる。高校時代の制服は目に入ったが、スーツは見当たらない。持ってきていないのだろう。父親の服を借りるしかないか。
コンタクトレンズが見つからないのには困ったが、まずは他の支度をしてから捜索をすることにして、徹は自分の部屋を出て階段を下りた。昨晩の様子から考えると、美由紀はまだ怒っていることだろう。その顔を見ずに出勤できるのは有難い。会社にたどり着くためには、ここからだと一時間半はみておかなければならないのだが、まだ朝早いはずなので大丈夫だろう。
リビングの扉を開ける。壁掛け時計は六時半を指している。まだ余裕はある。キッチンでは、母親が食事の支度をしているらしい。野菜を刻む音が聞こえてくる。
「母さん、おはよう」
徹は声を掛けると、テーブルに向かって椅子に腰をかけた。
「おはよう。今朝は早いのね。いつもぎりぎりにしか起きないくせに」
母親は朝食の支度をしながら、背を向けたまま徹に話しかける。
微妙な違和感を感じたが、恐らく昨晩はかなりの迷惑を掛けたはずだ。あまり口ごたえをするのは良くないだろう。
「昨日はごめん。迷惑を掛けたんじゃないかな」
「あら、何のことを言っているのかしら。まぁ、いいわ。顔を洗ってらっしゃい」
余裕があると言っても、ここを走っている路線は遅れることがある。早めに出るに越したことはない。まずは歯を磨いてくるか。そう思い、徹は洗面所に向かった。
……!
鏡に映った自分の顔を見て、徹は驚いた。
「なんだ、これは」
とても三十一歳には見えない。どう見ても高校生か大学生だ。アンチエイジングという言葉が巷に溢れているが、さすがにまだ関心はなく、若さを保つ工夫をしたことはない。慌ててリビングに戻り、テーブルの上に置いてある新聞を確認する。
二〇〇三年九月二十二日、月曜。
テレビのスイッチを入れる。チャンネルを変える、変える、変える。民法のニュース番組のキャスターの前には、新聞と同じ日付を示した置物があった。念のため…。
「母さん、今年って何年だっけ」
母親に声を掛けてみる。
「やっぱり、慣れない早起きをしたから寝ぼけてるのね。もちろん二〇〇三年じゃない」
そう言いながら、ご飯と卵焼きをテーブルに持ってきた母親は、随分と若い。
…俺が高校生なら、まだ母さんは四〇代か。頭の中で計算をする。二〇〇三年なら、十三年前。徹は高校三年生だ。しかも、受験直前の。
よく室内を観察してみる。ブラウン管テレビ、真新しいソファー、そして二〇〇三年のカレンダー。…どうやら間違いないらしい。何が原因なのかはわからないが、SF的に言えばタイムスリップをしてしまったのだ。
呆然とする徹に、母親が声を掛ける。
「早く起きたといっても、ぼうっとしていたら邪魔よ。早くご飯を食べちゃいなさい。学校に遅れないようにね」
朝食を済ませた徹は、自室に戻る。コンタクトレンズが見つからない理由がわかった。徹が眼鏡からコンタクトレンズに変えたのは大学生になってから。あるはずがないのだ。
まずは高校へ行く準備をしなければならない。休むことも考えたが、カレンダーを見たところ明日は秋分の日で休みだ。今日一日を乗り越えれば、明日はゆっくりと状況分析ができる。親を心配させたくもないし、慣れない高校生活とは言っても、一度経験したものだ。何とかなるだろう。そう思いきると、徹は通学に使っていた鞄の中を確かめた。整理されているわけではないが、一応必要なものは揃っているようだ。時間割を確かめるためには、スケジュール帳だ。ちゃんとそれも入っていた。時間割が記入されたページを見ながら、机の本棚から教科書を探し出す。
ハンガーにかかっている制服を着て、机の上に置かれていた腕時計を腕にはめる。時間は七時を少し回ったところ。高校はここから二駅なので、七時半に家を出れば余裕のはずだ。部屋を出て階段を下りる。父親が朝食を食べているのが見えたので、「おはよう」と声を掛ける。父親は、片手を上げて挨拶に応えた。
少し早いが、家を出て高校に向かったほうがいい。十三年も前のことなのだ。どうやって通学していたのかを思い出しながらのことになる。何かアクシデントが発生するかも知れない。
子猫が足元にじゃれついてくる。
「おぉ、ミーナ。お前、こんなに可愛かったのか!」
思わず感嘆の声が出る。十三年後のあのふてぶてしい態度とは似ても似つかない。帰ってきたら、遊んでやろう。少し気持ちが明るくなった徹は、母親が何か言っているような気はしたが、「行ってきます」と言って勢いよく玄関のドアを開けた。