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過去を掴んだ男たち  作者: 榊原高次
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二十三

二十三

「瑞穂、遅いね」

露天風呂に浸かりながら、祥子は空に向かって大きく伸びをした。もう15分は経っただろうか。腕に当たる雪が気持ちいい。

「そうね。何をしているのかな」

美由紀は少し離れたところで湯船に浸かり、大きな岩に背を預けて目を閉じている。

この微妙な距離が、二人の関係を表していた。三人の親睦を図るためにこの小旅行は計画されたが、最も乗り気だったのは瑞穂だった。車も出してくれたし、ホテルの予約もしてくれた。主催者といっていい。この場にその主催者がいないので、大学で同じ学科ではなく、付き合いの浅い美由紀とは微妙な距離感が生まれているのだ。いや、あの日初めて会ったときに感じた、理由のわからない嫌悪感。意識はしていないつもりだが、それがこの距離感につながっているのかも知れない。

「私、見てこようか?」

美由紀はそう言って目を開けると、湯船の中で立ち上がった。

「それなら、私も行くよ」

祥子も慌てて立ち上がった。ここで美由紀だけを行かせて、自分だけが露天風呂を楽しむのは気が引けた。それに、何かあったのではないかと祥子も不安を感じ始めたところだ。

脱衣所で体を拭き、持ってきた着替えの下着をつけたところで、浴場の外で何かが鳴っているのに気付いた。

「ねえ、何か聞こえない?」

美由紀に声を掛ける。

「そうだね。非常ベルかしら」

その時、脱衣所の壁の上部にあるスピーカーから、女性の緊迫した声が聞こえてきた。

「館内のお客様にお知らせします。ただいま、非常ベルが鳴りました。急いでお近くの非常口から、ホテル外へ避難して下さい」

思わず二人は、顔を見合わせる。そして、急いで浴衣を着る。

「外は寒いかな」

浴衣の帯を締め、茶羽織を着こむ。

「それは仕方ないよ。部屋に戻っていたら、逃げ遅れちゃう」

美由紀も茶羽織を羽織ったようだ。

「繰り返します。急いでお近くの非常口からホテルの外に避難して下さい」

スピーカーの声が、急き立てる。

「瑞穂はどうしよう?」

祥子は、自分たちが瑞穂の様子を見に行く途中であったことを思い出した。

「この放送が聞こえたら、きっと逃げるよ」

それはそうかも知れない。だが、もしも倒れていたりしたら…。

「私、やっぱり見てくる。美由紀ちゃんは、先に外に出て」

「えっ、祥子ちゃんだけを行かせるわけには…」

「外に出て、ホテルの人に瑞穂が見当たらないことを知らせて。それから、私が瑞穂を探していることも。鍵を持っていないって伝えて」

そう、二人ともが逃げ遅れる必要はない。部屋の鍵は瑞穂が持っている。部屋の前に行っても、できることはないかも知れない。それよりも、部屋で瑞穂が倒れているとしたら、マスターキーを持っているホテルの人間に頼んだほうが救い出せる確率は高いだろう。

「わかった。見つからなかったら、すぐに避難してね」

二人は顔を見合わせて頷くと、暖簾をくぐって廊下に出た。何人もの宿泊客が、階段を目指して走っている。非常ベルは変わらず鳴り響き、スピーカーからは避難を促すアナウンスが流れ続けている。


下から突然、強烈に突き上げられた。

列車は急速に速度を緩め、完全に停止した。急ブレーキというほどの減速ではなかったが、思わず徹は近くにあった手すりにしがみついた。車内は静まり返っている。あまりの驚きに、皆声も出なかったのだろうか。

携帯の待ち受け画面で時間を確認する。8時19分。その時が来たのだ。

「ただ今、地震が発生しました。この列車は、緊急停車をしております」

アナウンスが流れる。車内は騒然とし始めた。

もう一度、携帯電話の待ち受け画面を確認する。着信履歴はない。皆、無事なのだろうか。卓也は、清美は、そして三人は。

細かい揺れが断続的に続く。少し大きめの揺れ。そして、漸く揺れはおさまった。

徹は携帯電話で、時刻表を調べる。目的の駅まではあと3駅。ダイヤ通りに運行していたなら、ここから次の駅まではあと5分ほどだ。歩けばどの位の時間がかかるのだろう。

「この列車は、緊急停止をしております。運転再開まで、暫くお待ち下さい」

再び車内アナウンス。このままでは、いつ目的の駅に着けるかわからない。徹は、履歴から祥子の電話に電話を掛けてみる。

「ただ今、電話が繋がりにくくなっております。恐れ入りますが、暫くしてからお掛け直し下さい」

地震の安否確認で、回線が混雑しているのだろう。電話は繋がらない。卓也に掛けても、瑞穂に掛けても同じ。徹は天を仰いだ。このまま列車の運転再開を待つしかなさそうだ。それでも徹は、三人の電話番号へ何度も掛け続けた。


信じられない光景を目の当たりにしていた。

ホテルが、4階あたりから折れるように崩れている。その下の3階あたりは、ホテルの上の階で押し潰されてしまっている。

ホテルの玄関口から少し離れた場所に車を停めたのだが、それは正解だった。エントランスのすぐ前に停めていたら、崩れ落ちてきたがれきで、車は押し潰されていたかも知れない。

卓也も清美も、地震発生の瞬間には思わず地面に手をつき、這いつくばっていた。大きな揺れの直後、顔を上げた卓也の目に、轟音を立てながら崩れ落ちていくホテルの姿が飛び込んできた。それはまるでスローモーションを見ているようにゆっくりと折れ、下の階を押し潰していったのだ。

二人の周りでは、宿泊客と見られる何人もの人が呆然とホテルを眺めていた。あのままホテルの中にいたら、この人たちもただでは済まなかったかも知れない。

「祥子たちを探さないと」

清美はそう言うと、立ち上がった。卓也は清美の手を引いて制止する。

「まだ大きな余震が来るかも知れない。危険だよ。もう少し経ってからみんなを探そう」

事実、細かい余震は続いていた。今動いては、二次災害に遭うかも知れない。その時、大きな揺れがもう一度来た。二人と周りの宿泊客は、同じように腰をかがめる。暫くの静寂。そして、大きな音を立てて、崩れかかっていたホテルの上階部分がさらに崩れ落ちた。

「部屋に残っていたら、あれに巻き込まれていたな。避難の指示があったから助かった」

「そうね。でも、地震を予知して避難させたのかしら」

「そんなことができるのかな。偶然にしては出来過ぎだけど」

隣でしゃがみ込んでいる男女の声が聞こえる。この人たちを救えて良かった。卓也は少しほっとした気持ちになる。しかし、まだ祥子たちの無事を確認できたわけではない。

「そろそろ探そう」

清美が卓也を促す。大きな余震から数分が経った。あまり建物に近寄らなければ、外に避難している人たちの中から三人を探すことを始めても良いだろう。

「わかった。菊池さんと高橋さんは、中野美由紀さんという女の子と三人で来ているんだ。暗いから、名前を呼びながら探すしかないね」

「美由紀さんだね。わかった。手分けしましょう」

そう言って清美は立ち上がると、大きな声で名前を呼びながら、左手にいる人の集まりに向かって歩いていく。余震の前まではホテルの建物には明かりがともっており、駐車場の街灯も点いていたが、停電になったのだろう。今はエントランス部の非常灯がともっているだけだ。辺りは暗くてよく見えない。清美は携帯電話の待ち受け画面の明かりを頼りに、三人を探すようだ。

卓也は車に乗りこむと、エンジンをかけてヘッドライトをつける。こうすれば、周りの人たちの視界も確保できるだろう。そしてそのまま車を降り、清美とは反対方向の人影に向かって歩き出した。


階段で建物の1階に下りた時に、強い揺れが来た。

階段を駆け下りてきた勢いもあって、祥子は床に投げ出された。思わず頭を両手で覆い、膝を丸めて防御の姿勢を取る。揺れは10秒以上も続き、漸く静まった。恐る恐る立ち上がる。その時、もの凄い音がして、通路の天井の板が落ちてきた。それは、祥子の横をかすめ、隣でうずくまっていた年配の男性の背中を強打した。

「大丈夫ですか!」

祥子は慌てて背中に乗ったままの板をどけ、声を掛けた。

「うう、何とか」

男性は立ち上がろうとするが、うまく立てないようだ。

「腰を痛めたみたいだ。お嬢さん、先にお逃げなさい」

「何を言っているんですか。非常口はすぐそこです。行きますよ、私につかまって下さい」

祥子は男性の左手を取ると自分の肩に回し、支えながらゆっくりと立ち上がる。非常口のありかを示す緑の光が見える。ほんの20メートルほど先だ。

自分たちの部屋には鍵がかかっていた。呼び鈴を鳴らしたが、反応はなかった。扉を何度も叩いたが、それにも反応はなかった。中で瑞穂が倒れている恐れはあったが、それ以上祥子にできることはなかった。仕方なく階段に戻り、1階を目指したのだ。

その時は、火災が起こっているとばかり思っていた。いや、もしかしたら火災も起こっているのかも知れない。いずれにせよ、避難行動を起こしていなければ、大浴場でこの地震に襲われたはずだ。そうしたら、この非常口にたどり着けなかったかも知れない。

鉄でできた非常口の手前で男性を座らせ、非常口のドアノブを回して体で押す。少しだけ開いたが、そこで止まってしまった。ゴゴッという鈍い音がする。地震の影響で歪みができ、うまく開かないのかも知れない。

「手伝おう」

床に座っていた男性が這い寄り、座ったままで扉を手で押す。掛け声を合図に同時に押すが、扉はもう少し開き、そこで止まってしまった。体を挟み込むだけのスペースもない。

その時、大きな揺れがもう一度来た。祥子は男性をかばうようにしてかがみこむ。轟音がして、先ほど板が落ちてきた部分あたりから、粉塵を上げて天井が崩れ落ちていくのが見えた。


ヘッドライトの明かりがいくつか見えた。駐車場だろう。卓也が車のヘッドライトをつけたのにならい、同じようにライトをつけてくれた人がいたようだった。

三人の名前を呼びながら、卓也は東向きのエントランスの外側を円を描くように回り、北側にある駐車場にたどり着いた。いくつかの上向きのヘッドライトが建物を照らしている。建物というよりは、建物であった残骸というほうが良いかも知れない。2階部分から3階部分にかけて押し潰され、その上の階は右側に倒れこんでいる。

その時、卓也の耳に何か金属のようなものを叩く音が聞こえてきた。自然と小走りになり、その音の方向へ向かう。その音は、1階部分にある鉄の扉から聞こえていた。誰かが閉じ込められ、助けを求めているのだ。

扉に駆け寄り、声を掛ける。

「大丈夫ですか。扉を開けるので待って下さい」

「有難う。どうしても開かないんです」

女性の声。しかも、聞きなれた声だ。

「もしかして、菊池さん?」

「そうです。あなたは?」

「浅野です。浅野卓也です。ちょっと待って下さい」

少しだけ開いた扉の隙間に指を入れる。しかし、十分な隙間がないので、うまく力が入らない。辺りを見回し、金属の棒状の板を見つけて手に取った。窓のサッシのようだ。それを差し込んで力を入れ、てこの原理でこじ開ける。扉はゴゴッという音を立て、先ほどよりは少し開いた。指を差し込み、扉を全力で引っ張るが、開かない。

「もう少しなんだけど、ちょっと待ってて」

卓也は祥子にそう言い、ありったけの大声で助けを求める。

「どなたか手伝っていただけませんか。扉の向こうに人が閉じ込められているんです!」

すぐに三人の男性が駆け寄ってきた。ほかにも何人かが集まってくる。卓也と三人の男性で扉の隙間に指を差し込み、引っ張る。ゴゴッという先ほどよりも大きい音。声を合わせてもう一度。そしてもう一度。漸く扉は、人が通れるぐらいに開いた。

「この方を先にお願い」

祥子の顔が覗き、次いで年配の男性が倒れこむように扉の隙間から上半身を出した。皆で引っ張り出す。

「お父さん!」

浴衣姿の年配の女性が駆け寄る。奥さんだろうか。卓也はそれを確認すると、扉の隙間に手を差し入れ、祥子の手を握った。

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