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過去を掴んだ男たち  作者: 榊原高次
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二十二

二十二

3階の大浴場への女湯の暖簾をくぐったところで、瑞穂は声を上げた。

「いけない、シャンプーとトリートメント、折角持ってきたのに部屋に忘れてきちゃった」

「私のを使えばいいじゃん」

祥子が言うが、瑞穂はそれを手で制した。

「いつも使っているものがあるし、変えたくないの。二人は先に入ってて」

そう言うと、瑞穂は小走りでエレベーターに向かう。スリッパなので足元が思うように動かず、もどかしい。

「わかった。先に入ってるね」

後ろから美由紀の声が聞こえた。

瑞穂はエレベーターを6階で降り、自室の鍵を開けて部屋に入ろうとした。ふと見ると、足元に紙切れが落ちている。拾い上げてみると、フロントからのメッセージだった。

「そうか、徹君がこっちに来ているのね」

瑞穂はそう呟くと、浴衣の袖をまくって腕時計を確認した。7時50分。今から迎えに行っても、8時過ぎの列車の到着には間に合いそうもない。それでも瑞穂は、浴衣から先ほどまで着ていた服に急いで着替えた。貴重品を入れる金庫の鍵を開け、財布と携帯を取り出す。思った通り、徹からの着信記録がある。しかし瑞穂は徹に電話を掛けることをせずに手持ち携帯用の鞄に電話と財布をしまい、そのまま部屋を出て駐車場を目指した。


7時50分。漸くホテルの明かりが山腹に見えてきた。ホテルまでの山道は街灯もなく、カーブが多いので運転に気を遣う。卓也は慎重にハンドルを操作しながら、できる限りのスピードでホテルを目指していた。

「ごめんね、本当にギリギリになっちゃったね」

清美がすまなさそうに卓也に声を掛ける。コンビニでおにぎりを買おうとした際、どうしても我慢ができなくてトイレを借りたのだ。今思えば、その数分がこの際どさを生んでいる。

「いや、それは仕方ないよ。むしろ、コンビニに入って良かった。ずっとトイレを我慢しているわけにはいかないものね」

卓也は清美をなだめながら、ハンドルを切る。

「あと5分ほどでホテルには着けるはず。駐車場に入れている時間はないから、玄関に停めるね。清美ちゃんはすぐにフロントへ行って、三人を呼び出して」

「うん、でも、他の人たちは避難させなくていいの?」

…そうだ。三人だけを救って、他の宿泊客やホテルの従業員を見殺しにすることはできない。どうすればいい?

「もうすぐ地震が来ますって言っても、信じてもらえないよね。避難訓練をして下さいなんて言えるわけないし」

もちろん、そんなことを言っても信じてもらえないだろうし、説明している間にその時はやって来る。強制的に避難させる方法はないか。

「そうだ、清美ちゃんがフロントで三人を呼び出してもらっている間に、僕が非常ベルを鳴らそう。そうすれば、避難指示が出るかも知れない」

「そうね。非常ベルが鳴ったら、私がフロントの人に避難させたほうがいいって言うわ。できるだけのことはやってみましょう」

詳しく手順を確認している時間はない。ホテルの明かりは、もう目前である。

その時、1台の乗用車がカーブの先から現れ、二人の乗る車をかすめていった。

「危ないな、もう!」

清美が思わず大きな声を出す。暗くてよく見えなかったが、運転手はかなり慌てていたようだ。センターラインを大きくはみ出し、危うくぶつかるかと思えた。こんなところで事故を起こしたら、地震発生の時間に間に合わなくなってしまうところだった。

「そんなことより!」

ホテルの玄関口に二人の車は到着した。今は、ホテルの人々を非難させることが先決だ。もちろん、祥子ら三人は必ず救い出す。二人は車のドアを開けて、エントランスへと駆け出した。


何か、今の自分にできることはないのか。

徹は小刻みに膝を揺らしながら、携帯電話の画面を見ていた。祥子からの着信はない。瑞穂からも、卓也からも。卓也は無事にホテルに着いただろうか。間に合ってくれればいいのだが。

目指す駅まではまだ遠い。携帯電話の待ち受け画面の時間は、7時58分を指している。もう間もなく、あの大災害が起こるというのに、自分はこうして座っているだけしかできないのか。

「みんなを避難させられれば…」

思わず独り言が出る。ホテルに時間までに到着できないなら、この場でできることはないのか。

「そうだ!」

徹は思わず立ち上がる。ホテルから皆を避難させる方法。この電話を使えば、それができるではないか。

携帯電話の設定画面から、非通知モードを選択する。こちらの電話番号を知られると、あとで面倒なことになりかねない。そのまま辺りを見回す。まばらではあるが、幾人かの乗客が腰かけている。車両連結部の扉のガラス越しに後方の車両を覗くと、さらに乗客は少なく、車両の後方に数人座っているだけなのが見て取れた。これなら、後方の車両に移ったところで小声で電話をしても、聞こえないだろう。

徹は扉を開け、後方車両の扉すぐ近くの席に腰掛けてリダイアルのボタンを押した。少し多めのコール音のあとに、電話は繋がった。

「お待たせしました。ホテルグランドヒュッテです」

男性の声。先ほどの女性ではない。好都合だ。

「爆弾を仕掛けた。間もなく爆発する。避難するなら、今のうちだぞ」


ホテルのフロントは、エントランスを入って左側にあった。清美がフロントの女性と話し始めたのを確認すると、卓也は速足で右側奥の通路に進んだ。非常ベルはすぐに一つ見つかったが、フロントから近すぎる。さらに奥へ進むと、通路は二手に分かれ、左側へ薄暗い通路が伸びていた。その先には、金属の扉。その手前に非常ベルの赤い光が見える。

そのまま速足で扉に向かって進む。扉には「ボイラー室」という文字が書かれている。

「丁度いいぞ」

思わず、声が出る。この非常ベルを鳴らせば、ボイラー室で火災が起こったと思うだろう。辺りを見回し、誰もいないのを確認すると、卓也は赤いランプの下のボタンを押した。


「そうですか、部屋にはいないんですね」

フロントの女性は、三人が部屋にいないことを清美に告げた。

「ええ、先ほど男性から電話をいただきまして、お部屋に電話をしたのですが、いらっしゃらなくて。伝言メモをお部屋のドアに差し込んできたところなんです」

部屋にいないなら、食事かお風呂だろうか。いずれにしても、探している時間はない。それに、三人だけを連れ出しても、ほかの犠牲を食い止めることはできない。電話をしてきたのは、徹だろうか。

その時、フロントの電話が鳴りだした。女性が清美の応対をしていることに気づいたのだろう。奥から男性が出てきて、受話器を上げる。

「わかりました。じゃあ、少しここで待っています。もう少ししたら、もう一度部屋に電話を掛けてみて下さい」

卓也が非常ベルを鳴らしたら、避難するよう掛け合わなければならない。清美はそう告げると、近くにあるソファーに腰掛けた。

「え、何ですって!」

突然、フロントの女性が大きな声を上げた。電話を受けた男性が、何か耳打ちをしている。

その時、非常ベルの音が館内に響きだした。卓也がスイッチを押したのだ。清美は立ち上がって、先ほど話していたフロントの女性のところに駆け寄る。

「何があったんですか? 火事ですか?」

「いえ、その、たった今爆破予告の電話がありまして。もしかしたら、それと何か関係しているのかも知れません」

…徹だ。清美は瞬時にそれを理解した。ホテル内にいる人を避難させるために、徹が爆破予告の電話をしてきたのだ。

「すぐにみんなを避難させて下さい! いたずらかも知れませんが、本当だったら大変です。非常ベルも鳴っているし、迷っている時間はありません!」

「わ、わかりました。すぐに案内します!」

女性はうろたえながらも、男性に目で合図をして了解を取る。男性は何度も頷いた。

「館内のお客様にお知らせします。ただいま、非常ベルが鳴りました。急いでお近くの非常口から、ホテル外へ避難して下さい」

電話の受話器で女性が話すと、それは館内放送となってホテル内に流れた。

「繰り返します。急いでお近くの非常口からホテルの外に避難して下さい」

暫くは非常ベルだけが鳴り響いていたが、間もなく幾つもの足音が聞こえてきた。さまざまな声が聞こえ、館内は騒然としている。フロントの男性と奥から現れたもう一人のフロントの女性は、避難誘導に当たっている。清美に応対していた女性は、何度も繰り返して館内放送で避難を呼び掛けている。

通路から卓也が走ってきた。清美の手を取り、玄関からホテルの外に出る。

「清美ちゃん、有難う。うまくいったね」

「卓也君も。あ、それと徹君もなんだけど。多分、爆破予告の電話を掛けてくれたんだと思う」

「そうだったのか。非常ベルだけ鳴ったのなら、ホテルの人に調べられたら異常がないことがバレるんじゃないかって心配していたところだったんだ」

「偶然だけど、いい連携になったね」

「うん、あとは菊池さんたちが無事に逃げられればいいんだけど」

あとは運を天に任せるしかない。間もなく発生する地震。その前に三人がホテルの外に出てきてくれることを、卓也と清美は祈った。

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