十一
十一
急いで夕飯を済ませた。卓也から電話がかかってきたのは、帰宅してすぐのことだった。今からこちらへ来るという。さっきまで卓也の部屋で一緒にいたのにすぐに会いたいということは、お互いの境遇について話したいのだなと、直観でわかった。じゃれつくミーナを少しあやしたあと、すぐ帰ってくるからと母親に言って、徹は玄関の扉を開けた。
待ち合わせ場所は、昨日煙草を吸うために行った公園だ。自分たちの境遇についての話ならば、自宅で親に聞かれたり店で他人に聞かれたりすることのない場所でする必要がある。小さな公園で、子供のための遊具も少ししかないが、夜は人がいることはないので、人に聞かれたくない話をするには格好の場所だ。
街灯から少し離れた場所で、煙草に火をつける。一日にこれを吸えるのはこの時間だけ。やめれば良さそうなものだが、どうにもこれがないと落ち着かない。もうすぐ卓也が来るので、一本だけにしておこう。
煙草を吸い終えた徹は、街灯の下にあるベンチに腰掛ける。静かな公園だが、今は虫たちの声があちこちで鳴り響いている。
「この公園には蛍がいるのかな」卓也がそう言いながらベンチに近づいてくると、徹の隣に腰掛けた。
「うっ、見えてたのか」
「暗がりで煙草を吸ったら、すぐわかるよ」
「ごめん。約束を破って」
「まあ、仕方ないかなと今は思ってる」
「すまん。どうにもこれがないと落ち着かないんだ」
「でも、気をつけろよ。煙草を吸っているのが学校にバレたら、受験には当然悪影響が出るだろうから」
「ああ、気を付ける。でも、何で許してくれるんだ?」
「そりゃ、お互いに分かっていることがあるから」
やはりそうかと徹は思う。卓也は、自分が未来から飛ばされていることに気づいているのだ。自分がそうであるように。
「いつから吸っているんだ?」
卓也が聞く。
「大学の二年位からかな。ちゃんと二十歳にはなっていたよ」
「二年からか。じゃあ、境遇は違うみたいだな。僕は大学一年から飛ばされたから」
どうやら、卓也とは境遇が全て同じというわけではないらしい。
「全然違うようだな。俺が飛ばされたのは、三十一歳のときからだし。ここに来たのはわずか二日前で、まだ何が何やら」
「受験前のこの時期に飛ばされたのは気の毒だな。それで総復習の方法を聞いたわけか」
「ああ。もう九月が終わろうとしているのに、俺の頭は受験に耐えられるようなものじゃない。三角関数って何だったけ、てな感じだよ」
「そうか。僕が飛ばされたのは二年の終わりだったし、もう一度大学を受けようと思って勉強をしていたところだったから、勉強に関しては以前よりも楽だった。これからは、徹をしっかりサポートするよ」
「有難い。このまま受験を迎えたんじゃ、母校に入れないなんてことになりかねないから、どうしようかと焦っていたところだったんだ」
「徹はちゃんと第一志望に入れたからな。羨ましかったよ」
「でも、卓也だって苦労はしたかも知れないが、志望の大学に入りなおしてたって話だぞ。その頃はあまり交流がなかったからよくは知らないんだが」
「そうか。努力は報われたんだな。頑張ってて良かった。でも、まずは目の前に迫った受験で結果を出さないとな」
「そうだな。俺も以前よりも辛くなる人生は歩みたくない。ちゃんと受験に向かい合うよ」
この二日間は焦りばかりを感じてきたが、これで漸く前向きになれそうな気がする。何としても母校に入らなければ。
「ところで卓也。あのノートのセンター試験の問題なんだけど、あの最後の年度の問題は、次のセンターの問題か?」
「やっぱり気づいてたか。その通りだよ。何度も何度も解いていたので、覚えていたんだ」
「そうか。それならセンター試験は安心だな。俺にも教えてくれるか?」
「もちろん。でも、徹の受ける大学の入試問題はないぞ。それはこれから勉強し直して、クリアしてくれよ」
「卓也の受ける大学の問題はあるのか?」
「それも何度も解いたから、覚えていてね」
「なるほど。それなら死角なしだな。俺もそこを受けようかな」
「それでいいならいいけど、徹のやりたい分野じゃないんじゃないか?」
「そうだな。それはそうだ」
それに、母校に入らなければ、妻の美由紀とも出会えなくなる。ということは、幸平も生まれないということだ。自分が楽をしたいという理由で、一人の人生をなくしてしまっていいわけがない。
「やっぱり、センター試験だけ助けてくれ。あとはなんとか合格できるように自分で勉強するから」
「わかった。じゃあ、明日コピーしたものを渡すよ」
「助かる。あとは、夏期講習のテキストの復習だな。頑張らないと」
「うん、頑張れよ。ちょっと喉が渇いた。何か自動販売機で買ってくるよ。そこにあったよね?」
「じゃあ、俺はコーヒーを頼む。あったかいやつな」
と徹は百円玉を卓也に渡す。卓也は背伸びをした後、公園の外に向かって歩き出した。
自動販売機は、公園のすぐ横にあった。百円玉を入れて、ホットコーヒーのボタンを押す。自分はコーヒーが苦手なので、ミルクティーだ。やはり、徹は未来から飛ばされてきた。しかし、三十一歳の頃からだと言う。その頃、自分は何をしているのだろう。何の仕事をしているのか、結婚はしているのか。
公園のベンチ近くに戻ってみると、また徹が煙草を吸っているのが見えた。自分は二年だけだが、徹は十三年も遡っているのだ。環境の違いに戸惑っていることだろう。見つからなければ、煙草ぐらいはいいだろう。
「はい」
缶コーヒーを渡す。
「すまんな」と言って徹はプルタブを引き上げ、一口飲んでため息をつく。
「今まで何度もやり直したいと思うことはあったが、本当にやり直すとなると大変だな」
「そうだね。僕も何度も同じ勉強をするのは大変だと思ったよ。でも、これは自分を変えるチャンスだと思って頑張ってる」
約一年前にこちらに飛ばされてからは、以前とは随分考え方が変わってきたと思う。以前も目標というものはあったのだが、今ははっきりとその姿が見える。人間は、失敗しないとわからないものがあるらしい。
「卓也はいつ俺が飛ばされてきたんだってわかったんだ?」
「カラオケでアニメの曲を歌ったあとだよ。ブルーレイって口走ったときに怪しいなって思った。そのあと、好きなキャラクターを聞いたときに確信したんだ」
「なるほど、あれは引っ掛けたんだな」
徹は天を仰ぐ。
「そう。あのアニメは途中で終わってしまって、第二部が始まるのは一年後だからね。第二部で出てくるキャラを知っているのは、僕と徹だけさ」
暫くミルクティーの缶を左右の掌で交換しながら持っていた卓也も、プルタブを引き上げる。
「俺は卓也が飛ばされてきたのに気づいたのは、ついさっきだ」
「ああ、ノートだろ。シュークリームがついてた。見られたってわかったから、電話したんだ」
「そうか。何だか、俺ばかりがヘマをやってるな」
「そうでもないよ。ノートを見られたのは僕のミスだし」
「でも、飛ばされてきたのは二年の終わりだったんだろ? 一年近くも前じゃないか。今までうまくやってこれたんだろうから、凄いなって思うよ」
「そんなことないんだ。最初の朝は、大学へ登校してしまったしね。自分が飛ばされているなんて思わなくてさ。そしたら、駅の改札機で引っかかるわ、母親から何してるんだって電話がかかってくるわで、大変だったんだ」
「そうか、そんなことがあったのか。俺は、三十一歳から十八歳に飛ばされたから、鏡を見てびっくりして、すぐに異常事態に気づいたよ。まだ慣れないんだけどな」
「でも、こうしてすぐに事情のわかる仲間に会えた。僕としては今の徹が頼もしいよ。数日前の徹は、事情のわからないただの友達だったんだからね」
「すまん。これからは本当の友達で仲間だ」
徹が笑って手を差し出す。卓也もその手を握り、笑顔で頷く。今までは友達でありながらも、事情を話せす頼ることができなかったが、これからは頼れる仲間だ。
「ところで、片瀬さんとはうまくやれそうか?」
徹が話題を変える。
「なんとか。以前の僕なら、勇気がなくて遠くから眺めているだけだったのかも知れないけど、徹や菊池さんのお陰で自分の気持ちに素直になろうって思えるようになった。やっぱり、片瀬さんの前に立つとドキドキするけど、何とか普通に話もできるようにもなったし、徹のアドバイス通りに頑張るよ」
そう、清美とは書店で偶然話をするという新たな経験もできた。以前とは違って、距離は確実に縮まっているのだ。
「そろそろ帰ろうか。親も心配するだろうし。僕は帰って、三国志を読むよ。明日、片瀬さんに貸せるように」
ミルクティーを飲み干して、卓也は徹に声を掛ける。
「そうだな。俺も、次のセンター試験の問題に目を通すとするか。夏期講習の復習も山のようにあるし、やっぱり受験生は大変だな」
「そうだね。でも、ここが人生の一番の岐路だから、頑張らなくちゃ」
「そうだな。俺も頑張るよ」
徹がもう一度手を差し出す。卓也はその手を握って「じゃあ」と公園の出口へ歩き出した。
「そうだ、卓也。片瀬さんのことなんだけど…」
数歩歩いたところで、徹が後ろから声を掛けて来た。
「ん?」と振り向いた卓也だったが、「いや、何でもない」と徹は口ごもり、「また明日な」とだけ声を掛けた。