40.肉体と精神の部屋
長い航海の間には、運動不足になりがちです。気を付けましょう。
スポーツを「楽しみたい」だけであれば、仮想空間での野球でもサッカーでも、
AIチームメイトと一緒にゲームできるんですけどね。
アストレイアには、VIPが利用するに相応しいのかどうかは分からないが、立派なトレーニングルームが備えてあった。怪我からの回復後、レオンは体力の向上に励もうと、このトレーニングルームになるべく通うことにしたのだ。UNP所属時にジュードーの経験があったのと、その手足の解放感が好みであったので、今もレオンは道着を着崩して柔軟体操をしているところだった。
そこへ通りかかったリサが、レオンの姿をとらえて近づいてきたことに、すぐには気付かなかった。
「励んでいますね、サー・ウィリアムズ」
「え? ああ、そう呼ばれると自分の事ではないみたいですね。レオンでいいですよ」
リサから話しかけてくるなんて珍しい。機嫌が良いのかな。
「では騎士レオン、ジュードーなら私も少々嗜みます。稽古をしましょうか?」
「リサさん、ジュードーできるの?」
「ええ勿論。アイキドーもそうですが、自分より体格に勝る男どもを投げ飛ばすのは爽快です」
成程。俺は投げ飛ばされること前提か……。
この小柄な女の子は、メルファリアの世話係であり、秘書であり、そして凄腕の護衛でもあった。
ジュードーは、必要な道具としては道着さえあれば事足りるので、空間と質量にシビアな宇宙船とその乗組員にとって親和性は高い。稽古や試合に必要な設備も、最低限タタミマットだけあればなんとかなる。なのだが、アストレイアにはなんと本物の畳が敷いてあった。いや、レオンは本物の畳というものをこの船で初めて見たので、本物かどうかはリサの言葉を信じるしかない。
「これが”畳”なのか。こんなにざらざらしている物なんですね。むしろ痛そうだ」
表面を掌で撫でながら、レオンはイグサとかいう天然素材の匂いを改めて吸い込んだ。爽やかな草原の風の匂いとでも言うか、とにかく、宇宙船内では珍しい体験ではある。
「では、始めますか」
レオンと同じ、生成りの道着に着替えたリサが姿を現す。
「宜しくお願いします」
と言って相対してから気づいたが、リサの道着が前方に大きく突っ張っている。
「……」
給仕服姿の時とはずいぶん違う印象だが、その胸部にある二つの出っ張りは何ですか、とは聞けまい。それどころか、下手に襟を掴んだら、それだけで訴訟モノじゃないだろうか。いや、訴訟の前に、既に無事ではいられない気がする。
なぜ、いつも目立たぬように押さえつけているのだろうに、こんな時ばかりそのリーサルウェポンのセイフティを解除するのか。
「隙だらけですね……はっ!」
気合と共に、片袖を取っただけで逡巡しているレオンを、リサはあっさりと背負って投げ飛ばした。
キチンと組み合えていなかったレオンはまともな受け身をとれず、畳に叩きつけられた後ごろごろと転がった。
「まあみっともない。せめて受け身ぐらいは、ちゃんと取ってくださいな」
「ちくしょー」
素早く立ち上がり、改めて仕切り直す。
それでもまだ遠慮があるので、レオンは少しだけ思案した後に奥襟を取ることにした。
が、目の前にあり不規則に揺れるその二つの出っ張りは、どうしても目に入る。
……やりづらい。
間合いや呼吸を乱すのに有効だ、ということが良くわかった。しかし、と作戦を決めたレオンの右手が、リサの首筋を掠めて伸びる。
——と思ったら、あっさり左足を払われた。レオンの右手はリサの奥襟を掴むことなく、畳を盛大に叩いた。
ダン!
奥襟を取ることばかりに気が向いて、下半身が疎かになってしまったのだ。
「まあっ、ちゃんと受け身が取れるなんて、成長しましたね」
バカにされてるぞ。
「その調子で上達すれば、百年後には私を投げ飛ばせるかもしれません」
容姿に似合う可愛らしい声で、思いっきりバカにされているぞ。
「むむむむむ」
しかし、悔しいが確かに稽古にはなる。ついでに、精神の鍛練にもなりそうだ。
膝に掌をあてがいつつ立ち上がり、裾を直した。
「もう一度、お願いします!」
そして。
力押しをいなされてバランスを崩したときは、大外刈りで派手に転がされた。
「はっ!」
小柄なリサは、レオンの隙をついては懐に潜り込み、裂ぱくの気合と共に投げ飛ばす。
「やあ!」
或いは、足さばきのタイミングを読まれて転ばされる。
体格差と体重差で押し倒して寝技に持ち込もうとした時には、巴投げを食らわされた。
そうして結局、訴訟沙汰にはならなかった。というより、なれなかった。
組み合うごとにリサは体のキレを増し、レオンは一度もまともに技を掛けることができずに、逆に合計二十回ほども投げ飛ばされた。
「ふ~。……参りました」
悔しい事は間違いないが、現在のレオンの技量では、リサとは比べ物にならないようだ。体格が大きく体重が重い分だけはレオンに有利なはずだが、リサの技量はその不利を軽く上回り、一方的だった。
レオンは叩きつけられた背中をようやく起こしつつも、少し落ち込んで顔をうなだれ、降参を宣言したのだ。
そんな畳の上の男を視界の端に捉えつつ、リサは額ににじんだ汗を拭う。
「どんどん動きが良くなりましたね。見直しました」
おや? リサさんに褒められたよ。
「この調子で上達すれば、十年くらいで私を投げ飛ばせるかもしれません」
リサは、その暴力的なまでの膨らみを覆う道着の裾と帯を直し、真面目な口調でそう言った。
レオンは起き上がらず、逆に畳の上に大の字になって年数を復唱する。
「十年かあ~」
うーん。まあ、見直したと言えばそうなのかも。百年から十年に縮まったし。
しばらく寝ころんだ後に筋トレを続けようとするレオンを置いて、リサはシャワールームへと入った。
宇宙船において飲料可能な水は比較的貴重な物資なのだが、この船ではシャワーの使用制限はない。メルファリアの意向なのかどうか、乗組員全員が等しくシャワーを使えた。
ただしもちろん無駄使いは許されないし、そもそもそのような人物はこの船の乗組員に選抜されないのではあるが。
「意外と良い動きをしますね。最後はちょっと力が入り過ぎました……」
組み合うごとにリサが体のキレを増したということは、それだけレオンの動きが良くなったからでもある。
シャワールーム内の壁面で淡く光る大きな丸ボタンを押すと、最初から適温に温められた無数の水滴が天面から優しく降り注ぐ。丸ボタンは光を強くして五センチほどせり出し、そのまま水量調整ボリュームになる。丸ボタンの表面を指で丸くなぞると、ベージュからオレンジへと色が滑らかに変化すると共に水温が上昇する。水量が多いと音声認識に支障をきたすので、シャワールームのインターフェースは原始的なままだ。
「次は、パッドを付けて、本気でやってみようかしら」
リサの場合、パッドは胸を抑えつける為に使用するものである。呼吸を妨げぬようリサ専用に誂えたもので、薄く柔軟性がありつつ防刃性も備えている。給仕服姿の時にリサのプロポーションが目立たないのは、この防刃パッドの為だ。
それを身に着けずに稽古に臨んだのは、レオンの反応次第では、やり込めてやろうかと考えていたからだ。だが、こと柔道の稽古に関しては、まことに爽快で有意義な内容であった。見直した、というのは嘘ではない。
誰にも聞こえぬのを良いことに、リサは鼻歌交じりで汗を洗い流して身だしなみを整え、メルファリアの元へと戻って行った。彼女はあまり運動をしたがらないので、どう言ってフィットネスに誘おうか、などと他愛のない事を考えながら。
しかしいざメルファリアの側に仕えると、とりとめのない会話の中に小さな懸案事項などはすぐ埋もれてしまう。そして可憐な主人との会話に世界各国の甘味が登場するに及んで、リサはより重大な事にはたと気が付いたのだった。
リサ・フジタニの生家には、今でもヨロイとかカタナとかが保存されているそうです。




