ある月夜
とある月夜の話。
明るい満月さえも照らさぬ森の内、一人の女が悲鳴を上げる。
「やめて! 誰か、誰か助けて!」
荷も手に持たず、必死に駆ける姿の後ろにはぎらりと光る目が一対。地を這うように動き、唸りを上げる狼は虎視眈々と機を伺いながら、けして逃さぬと牙をむく。
「あっ!」
暗い獣道、いつまでも平坦なはずもなく。引けばちぎれる細い木の根はしかし致命の罠となる。蹴躓いた隙を逃すまいと飛びかかる狼に、ぎゅうと目をつぶる。鈍い衝突音、びくりと震えた肩とは裏腹に、待てども待てども痛みは来ない。
そうっと目を開くと、目の前にはこちらに手を差し伸べるコートの男。
「お怪我は?」
静かに首を横に振る。片目は髪に隠れども、ハンチング帽の奥の金色をした優しい目は、しかし、足元を見据えて顔を顰めた。
「嘘はいけない、御婦人。私が外までお送りしよう」
気づけばじんじんと痛む足。弁明の暇もなく、ひょい、と軽々身体を抱えあげる男に、女は見た目によらず力強いのだな、なんて場違いなことを考えていた。
明るい月が照らす道。先程までの非日常との格差に、ほう、と安堵の息をつく。
「あの、ありがとうございました、助けていただいて」
「ご無事で何よりです」
和やかな笑みを湛えた顔で、帽子を持って恭しく礼をする男は、細く長い手足と相まって、いやに様になっていた。
「あの、何かお礼が出来れば良いのですが……」
「いえ、当然のことをしたまでです」
そう男が言ったその時、一陣の風がふいた。風になびく前髪の奥、その瞳は真紅に染まっていた。
「……見ましたか」
一瞬で微笑みを消し、瞳を抑えて問う。突然の事に首をふることさえ出来ずにいた女に、次いで口を開く。
「申し訳ありませんが、このことは他言無用でお願いします、それでは、失礼します」
ぐ、と力を溜めるように沈み込み、バタバタとそのトレンチコートをはためかせながら宙に飛び上がる男に、女は声を張り上げる。
「私、気にしていませんから! あなたが誰であっても!」
その声に、半身振り向いた、その顔には悲しそうな、誤魔化すような笑みがあった。長く伸びた牙と真紅の瞳を露わにし、手を振りながら男は空を駆けて行った。
これはとある月夜の、一人の吸血鬼の話。