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心の鉤爪  作者: 英知辞典
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1章 ある青年②

「こんにちは。今私はカナダにいます。メール、びっくりした?ところで、この間はありがとうございました。帰国したらまた会ってお話ししたいですね。 真紀」

慎一は、真紀からの「こんにちは」と題されたメールを見てすぐに合点がいった。飛行機で10時間かけてカナダへ行った真紀は、日本との時差の存在を忘れていたのだった。

「びっくりした?」――真紀がカナダからメールを送ってきても、慎一は全く驚かなかった。そもそも、慎一は何事にも驚いたことがなかった。人が何かに驚くというのは、その事態を事前に予期していないからである。そうならば、何かが起きると常に自分に言い聞かせていれば、あらゆる事態を予期していることになるのではないか。そして、何が自らに降りかかろうと、何物かが襲いかかろうと、驚く必要はないではないか。

慎一は、予想外の出来事に目を丸くしたり周章狼狽したりすることにさしたる意義を感じなかった。驚く様子を見せる人を見ても、慎一には芝居を打っているようにしか写らなかった。彼らは日常的に役者なのだろう。常に誰か本来の自分以外の人間を演じているのだろう。そして驚嘆する姿を他人に晒すことで、何か愉快な話題を引き出し、非日常を楽しもうとしているのだろう。そうに違いない。他人が、いつもは横に細い目を丸くするのを見れば、誰であれその目の丸さに見合うような愉快な話題を提供したくなるではないか。驚きはすなわち、話題に貪欲な、そして話題だけを楽しみとする人間が遂に話題に飢えてしまったときにする表情なのであった。

慎一はまるで、後から必要なときに参照できるように黒板に書かれた数学の公理や公式をノートにメモするかの如く、あらゆる感情について分析し、その結果を逐一頭に刷り込ませてきたのだった。そして実際に必要な場面に遭遇したときは、図書館で目当ての本を探すために、カテゴリー毎に配置された書棚の前に立ち背表紙を指でなぞるようにして「感情」を取り出し、マニュアルに沿って見事に披露するのだった。あたかも彼が感情豊かな人情味溢れる人間であるかのように。彼自身に感情が埋め込まれ渾然一体となり、彼という人間と感情を引き離すことはできないかのように。


慎一は、真紀がカナダへ短期の留学に出発する日を真紀自身から聞いて知っていた。そこで、出発の数日前に、簡単なはなむけの言葉を送っておいたのだった。それゆえ、真紀から返信があっても驚くはずがなかった。たとえそれがカナダからのメールであろうとも。

そして慎一は今回もまた、「驚き」とともに「喜び」を伝えることができるようなメールを、まるで、夜中に「こんにちは」と題されたメールが来るなどとは、そして、真紀が留学先のカナダからメールを送ってくれるなどとは夢にも思ってもみなかったと驚きと喜びを表す内容のメールを返信したのだった。

果たして、夜中のメールを見てを丸くしながらも真紀からの連絡に喜んでいる自分の姿が真紀に伝わっただろうか。そんなことを少し思案した慎一は、携帯電話をテーブルに置いた。そして夕食を食べるためキッチンへ向かうと、冷蔵庫の冷凍室から冷凍の弁当を取り出し、レンジで温めた。レンジの黒い窓の奥で黄色いライトに照らされながら9秒で1回転する冷凍食品の弁当は、いつもよりも美味そうに見えた。


それにしても、一体なぜ真紀はわざわざ留学先のカナダからメールをしてきたのだろうか。慎一はこうした疑問を手のひらで転がすように弄んだ。他人の行動には必ず理由があった。全ての行為と結果は因果関係で説明が可能であった。目の前に行為と結果が提示され、その因果を解き明かすこと。これは慎一にとって趣味のような作業だった。そして解き明かした行為と結果の連関は、慎一の脳に取り込まれ整理整頓されていくのだった。

慎一は今しがた提示された課題に早速取りかかった。

慎一は、真紀が留学の準備に忙しいことを慮って、敢えて出発の数日前にメールを入れたのだった。そうすれば出発する前に返信する機会を与えられると考えたからである。

しかし、真紀は出発日の前日にも当日にも連絡してこなかったのだった。真紀はやはり私という人間に無関心なのだろうか――そう思いかけた慎一は、気付いたのだった。真紀は、敢えて返信しなかったのだ。返信せずに慎一を落胆させつつ、到着後にサプライズとして返信することとしたのだった。確かに慎一は、向こうでは留学に専念すべきだから留学から帰ったらまた連絡をくれ、と真紀に伝えており、彼女が留学へ出発してしまえばもはや返信は来ないと考えるはずなのだった。そして普通の人間であれば、出発までに返信がないことに落胆し、出発後に連絡があれば飛び上がって喜ぶはずであった。彼女はこの経験則を利用して慎一に連絡してきたのであった。真紀は、慎一が返信を待っていたのを知っていたのだった。

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