1章 ある青年①
慎一は、祖父の葬式に参列し、食事会に出席せず、そして親戚たちと口を交わすこともなく式場を後にした。
ネクタイの小さくなった結び目を緩め、乱暴に抜き取った。摩擦で襟が熱を帯び、首に不快な感覚が張り付いた。抜き取ったネクタイを、その皺をただすこともなく手でクルクルと丸めた。そしてそのまま手提げ鞄にぞんざいに突っ込んだ。
鞄の中には、ペットボトルが入っていた。式場へ来る途中に道端の自販機で買っていたそのペットボトルは、温度差によって結露し大粒の水滴を纏っていた。慎一は、手触りの良い真黒のネクタイが、ペットボトルの水を吸い上げ刻一刻とその価値が毀損されるのを想像した。細菌に蝕まれるように濡れゆくこの哀れなネクタイ。慎一は、その映像を、柔らな布で丁寧に包み込んで大切に保管するように頭の中で反芻した。そしてそれを頭に焼き付けることに成功すると、無意識の内にふっと微かな笑みを浮かべた。
慎一は電車を乗り継いで家まで帰らねばならなかった。就職しても未だに自動車の運転免許を持たない彼にとって、移動手段は専ら徒歩と電車であった。
車の往来がまばらな国道沿いを歩き、10分ほどかけて式場の最寄り駅にたどり着いた。
急行列車も停車する比較的大きな駅で、駅構内にはコンビニやパン屋などが詰め込まれていた。パン屋は、オープンしたてらしく、開業セールの看板が入口に立てかけられていた。焼きたてのパンの香りが、いらっしゃいませと言わんばかりに店内からこぼれ出てきていた。店舗の外装内装は黒や濃い茶色を基調にしており、高級感を前面に押し出していたが、この鉄道会社のカラーだからであろうか、安っぽい薄紫や水色や黄色といった色彩が駅全体を覆っていた。この時代遅れの色彩の中にあっては、オープンしたばかりのこの高級パン屋は浮き上がっていた。古ぼけた駅の中のこのパン屋は、無一文になった中年男の前に突如姿を現した、金持ち令嬢のように思われた。
この混沌たる物語を目の当たりにした慎一は、オープンしたてのパン屋の若い女主人や丸々と肥えた鉄道会社の社長の、自信と幸福感に満ち溢れた顔を思い浮かべた。彼らには決定的に欠けているものがあった。彼らは、人間が心の内に本来持っていなければならないはずのものを持っていなかった。彼らは、暗闇の中で微かな光を反射し冷たく輝く鉤爪を、生命を無情に奪った後も変わらず輝き続ける銀色の鉤爪を持ってはいなかった。
帰宅すると、夜の11時を回っていた。鞄をリビングの壁に凭せかけ、喪服の上着を脱ぐと、ふんわりと二つ折りにしてリビングの中央に置かれたグレーのソファーの背に引っ掛けた。そしてソファーに腰深く座ると、ポケットの中から携帯電話を取り出し、日々のルーティンの如く無感情に携帯電話を操作してメールの受信の有無を確認した。慎一は外を歩くときに決して携帯電話を見なかったため、携帯電話に送られてくるプライベートなメールは、家にいるときだけ確認するのだった。誰かと頻繁に連絡を取り合うたちではなかったから、この程度の確認でも事足りていた。
誰からも連絡はないだろうとは思っていた。久しく音沙汰のなかった友人などから連絡があれば面白いだろうに、という期待めいたものはあったが、決して連絡を待っているのでもなければ期待をするでもなかった。ただ、ティッシュ箱からティッシュを取り出すような単調で変わり映えのない生活に、僅かな変化があってもよいと感じといた。そうすればそこから、世の中の普通人間がどのような場面でどのような感情を抱き、どのように人間関係を形成するのかというルールを抽出できるから。慎一はそれに従って、人に話しかけ、相槌を打ち、そして笑っていれば良かったから。
慎一が画面を確認すると、そこには1件の受信メールがあった。表示されたメール受信を知らせるアイコンを見て、久しく誰からも連絡がなかったような気がした。フォルダを開いた。そのメールは、大学生の真紀からであった。受信日時は、つい先ほど、慎一が帰宅する直前の11時ごろ。駅から家まで歩いているときには、受信の知らせに気がつかなかったのだった。慎一は何の用件だろうかと訝りながらも、多少の好奇心を持って名前の下のメールの題に目を遣った。そこにはオレンジ色の太陽の絵文字とともに「こんにちは」と記されていたのであった。