お嬢様と呼ばないで その3
「お嬢様、お帰りなさいませ」
凛香と広海の前に、髪を一つに結わえて金縁の眼鏡をかけツンと澄ました女性が、ぬっと現れた。年齢は四十代くらいだろうか。母より、少し若いようだ。
「えっ?」
凛香は思わず絶句する。そして隣の広海と顔を見合わせた。
「あのう……。これってどういうことですか? それに、あなたは、誰?」
鷺野家の長女である凛香が、突然玄関に現れた見知らぬ人にこう訊ねるのは、当然の権利だろう。何せ、両親から何も聞いていないのだから。
いきなりお嬢様などと呼ばれても、どっきり以外考えられない。
「申し遅れました。私は、西條野乃子と申します。本日よりこちらで働かせていただいております、家政婦でございます」
「家政婦の、さいじょう、ののこさん? ああ、そうですか」
凛香は首をかしげながらも、とにかく早く中に入ろうと、靴を脱ぎ、腰を屈める。あの両親のすることだ。こんなこともあるだろうと軽くスルーする気持ちでいたのだが。
「あ、お嬢様、靴はそのままで。そちらの方も、どうぞそのままでお入り下さいませ」
脱いだ靴を揃えようとしたところ、それは自分の仕事だと言わんばかりに、野乃子が制止する。
「何だかよくわからないけど。まあいいか。広海、早く行こう」
凛香は目の前に準備されていたベルベット調のスリッパを履き、広海と共に部屋の中に入って行った。
「凛香、お帰りなさい」
応接室に入りかけたところで、母と鉢合わせた。
「何だ、ママ。いたのか。びっくりさせないでよ。ただいま」
「いたのかって、相変らず随分な言い方ね。でも、びっくりさせないでよ、だなんて、ちょっと女の子らしく話せるようになったみたいじゃない。いい傾向ね」
「そりゃあ、もともと、ちゃんとした女ですから」
「じゃあ、もっと女の子らしいコーディネートで帰って来て欲しかったわ。パンツにセーターって、それじゃあまるで、室内着のようじゃない。せめて、もっと光沢のあるシルクのブラウスくらいなかったの? スカートだって、本当は凛香もよく似合うはずなのに。残念だわ」
「って、そんなことより。さっき変な人が出てきたから、てっきりまだママが帰って来てないんだと思った。留守番の人かなって」
凛香は玄関の方を振り返り、母にありのままの感想をつぶやく。
「あーー。いけない。彼女のこと知らせるの忘れてたわ。凛香にはまだ何も言ってなかったわね。それがね、いろいろあって……って、あら、広海君。いらっしゃい。お久しぶりね。元気そうで何より」
凛香の後に控える広海を視界に捉えた母は、にっこりと微笑み、自分が一番美しく見えると自負している角度で軽く会釈した。
紺色のワンピースの中ほどで重ねられた手には、薄いピンクのベースに銀のラメが散りばめられたネイルが施され、品よくまとめられている。
我が母ながら、美への探究心がまだまだ衰えを見せない様子に、思わず、ははーーっ、とひれ伏したくなる。我が家のひときわ美しい黄門さまは、まだまだ健在のようだ。
「こんにちは。ご無沙汰しております。このたびは、突然このようなことになりまして」
そんな母を前にして、幾分頬を赤らめた広海が、直立不動で答える。前に一度両親に会った時にも、きれいなお母さんだなと母を絶賛していたのを思い出す。
凛香はどちらかと言えば父に似ているため、母に似ればまた違った人生が待ち受けていたのかもしれないと思ったこともあった。
「まあまあ、硬いことはいいから。それよりどうぞお座りになって」
母は涙型のパールのイヤリングを揺らしながら、広海にソファを勧める。そして 「あの、ちょっといいかしら」 と声をひそめて、凛香を手招いた。
「何?」
凛香は怪訝そうな顔をして、母を見た。
「ここでは、あれだから、隣で……」
広海、ちょっとごめん、と言って、凛香はいかいも不機嫌そうに母の後をついて行く。凛香を見送る広海の目が、俺は大丈夫だからと言ってくれたように見えたのが、救いだった。
「ええ! それって、どういうことだよ! 信じられない!」
応接室の隣の部屋で、凛香が声を荒らげた。
「だから、今言った通りなの。私はね、反対したのよ。でもパパがどうしてもって言うものだから。もちろんパパは、広海君のことは大好きなの。だって凛香が初めて付き合った人でしょ?」
「いや、付き合ってないし」
母はいつもこの調子だ。何度否定しても、月日が経てば同じ事を言う。両親の中では、凛香の初めての男は広海だと位置づけられてしまっているようだ。
「でも、大学時代、ずっと一緒にいたじゃない。あなたの部屋にも普通に居ついていたみたいだし」
「居ついてないし。勝手に入り込んでいただけだ。単なる、音楽仲間だよ。断じて、恋人なんかじゃなかった!」
「あら、そう? でも広海君って、普通の日本男児でしょ? なら、女性と二人で過ごして何もないだなんて、考えられないわ。凛香ったら、何を恥ずかしがっているの? あなたたちが愛し合っていたってことは、あの頃にはすでにお見通しよ。ふふふ」
何を言っても無駄だとわかってはいても、つい反論したくなる。だから、広海は恋人でも何でもなかったと何度も言ってるじゃないか。そこは譲れない。
「ママ……。何度も言うけど、広海とはただの音楽仲間だったんだよ!」
「そうなの? じゃあ、単なる音楽仲間だった彼と結婚するつもりってことなら、やっぱり当時から愛し合っていたんじゃないの?」
「ない。そんなへりくつはいいから」
母の苦し紛れの屁理屈は、ばっさりと切り捨てたものの。さっきの話し……。これは凛香にとって、想定外の大事件だった。
ああああ、何と言うことだろう。いくら父の希望だと言っても、あの話はきつすぎる。
誰にも相手にされないかわいそうな娘だと、両親が勝手に哀れんでいた凛香に、こんな時に限って別の求婚者が現れたというのだ。
どこで見聞きしたのか知らないが、凛々しいお嬢さんに結婚を申し込みたいと言って両親の許に来たらしい。
それで、その物好き、いや、その好奇心旺盛な男性に、是非とも会って欲しいと母に懇願されてしまったのだ。
凛香の電話の前に打診があったらしく、今さら断れないと母は涙目になる。
そしておまけに、その男性の父親と凛香の父が仕事上の付き合いがあり、むげに断ることが出来ないと言うから、これまた始末に終えない。父は今、その男性の父親と商談中のため、まだ帰っていなかったのだ。
おまけにその求婚者は、実家と同じ市内の人らしく、その人が今日にもここにやって来ると言うではないか。野乃子を我が家に派遣したのも、その男性の意向らしい。
すべての決定権は凛香にある。広海か、その物好き……ではなく、特殊な女性趣味をお持ちである男性のどちらかを選べということらしい。
だからと言って、そんな卑劣な愚行を広海に強要できるわけがない。選ぶも何も、凛香には広海しかいないのだから。広海だから結婚を決めたのだ。
たとえその男性が絶世の美男であろうとも、大金持ちであろうとも、凛香の心が動くことは決してないと言い切れる。
凛香は、全く持って非常識な両親の要請を、どのようにして断ろうかとさっきから頭を悩ませているのだ。
けれど、母はそんな凛香の苦悩をわかっているのかいないのか、全く引き下がる様子を見せない。会うくらい別にいいじゃない、の一点張りだ。
絶体絶命。凛香は絶望の淵に立たされていた。