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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
9/91

9.過去の小さな出来事 その1

「私の仕事は、まだ終わってないんだけど……」


 凛香は驚きのあまり呆然としている瑛子を少し気の毒に思いながら、現況を伝える。

 そして、どのようにして彼女をなだめようかと咄嗟に考えを巡らせた。

 この状況から察するに、このフローラルな香りに包まれたアイドル教師は、広海にウーロン茶の差し入れを持ってきたと思われる。

 それに、凛香がもうここには戻らないと勝手に決め付けて、胸を躍らせて愛する人のもとにやって来たのだろう。


 凛香はよく冷えたコーラ缶を持ったまま器用に腕を組み、右足を一歩、前に踏み出した。

 すると同時に瑛子が一歩後ずさる。また一歩踏み出すと、これまた一歩下がる。

 これではまるで、瑛子が危険極まりない凶暴な生き物から身を守るために遠ざかっていくような光景に見えなくもない。


「あ、あの。それに、今……。鷺野先生が鶴本先生のことを、ひ、ひ、ひろみって、呼び捨てになさって……」


 瑛子が今にも泣き出しそうな顔をして言った。 


「あ──。それは、つまり……」


 さすがにこの件に関しては、凛香も口ごもるしかなかった。

 東高に転勤後は、一度だって人前でボロを出したことはなかった。なのに、なんでまた、瑛子の前で広海と呼んでしまったのだろう。

 さっきすれ違った時の瑛子の浮かれた様子を見れば、彼女がここに来ていることくらい、すぐに予想できたはずなのにと自分の浅はかさを悔やまずにはいられない。

 凛香は、なんとかこの場をしのがなければと思うものの、焦るばかりでいい案が浮かばない。

 勢い余って、つい呼び捨てにしてしまったとか、学生時代留学した経験があり、ファーストネームで呼び合う癖がまだ抜けないとか……。

 あれこれ言い訳を考えてみたが、どれもいまいち説得力に欠ける。


 凛香は、足を組んで悠々とピアノの前に座っている男に、この状況をどうにかしろと目配せをする。

 そもそもこいつがこの部屋にホイホイと瑛子を入れたりするからこんなことになるのだ。

 それともついに根負けして、この若くてかわいいアイドル教師の気持を受け入れることにしたとでもいうのだろうか。

 だとすれば、凛香には反論する権利はないし、阻止する気もない。そうなってくれれば、かえってせいせいするくらいだ。

 そうとわかれば、すぐにでもどうぞお幸せにと言って、とっととここから退散してやるというのに。


 広海よ、そんなところで悠長に高みの見物などしていないで、手っ取り早くこの場を収拾して欲しい。

 このままでは、彼もいろいろと不都合なはずだ。

 なのに……。

 当の広海はいたってのん気で、あろうことか、まるで恋人を見るような温かい眼差しを凛香に向け、何か言いたげに口元を緩める。

 しまった……。こいつにすがったのは、やはり間違いだったのだろうか。

 広海の不可解な態度に、なぜか凛香の心拍数がいっきに上昇する。


「凛香……。もう隠さなくてもいいんじゃないのか? もっと自然に振舞えばいい。今まで誰にも気付かれなかった方がまさしく奇跡だったんだよ」


 ここでそれはないだろうと、凛香の焦りが勢いを増す。

 予想外にソフトな甘い声を響かせて凛香と呼びかけるのは、彼を想う瑛子の前ではルール違反だ。

 ダブルパンチを受けた瑛子は、顔面蒼白になって、おろおろと視線を彷徨わせている。 


「ひ、ひろ……じゃなくて、鶴本先生。おかしいですね。あなたが何を言いたいのか、私にはさっぱりわかりませんが……」


 ここはしらを切り通すに限る。

 この男がここまで女心がわからない奴だったとは、聞いて呆れる。瑛子の身になってみろと声を大にして言いたい。


「なあ、凛香。おまえも相当往生際が悪いな。いい機会じゃないか。里見先生に俺たちのことをきちんと説明するチャンスだと思うけど?」


 チャンス? 今さら何を説明すると言うのだろう。凛香はますます理解に苦しむ。

 実は私たち、こっそりと職場恋愛中なんです……と頬を染めて言えとでも?

 だが残念ながら、過去も現在も広海とは恋愛関係になったためしがない。

 というか、少なくとも凛香自身はそう思っていた。

 ならば、あのことを言えとでも? 凛香が思い当たることと言えば、やはりあれしかない。

 でも……。そこまで暴露する必要があるのだろうか。


「鶴本先生。お言葉ですが、そのような思わせぶりなことをおっしゃると、ますます里見先生が、私たちのことを誤解すると思うんですが」

「だから全部言っちまおうって、言ってるんだ。誰よりもお互いのことをよく知っているはずの俺たちが、このままでいいはずがない。いいか、凛香。おまえもこの際、腹をくくれ」


 座ったままの広海が有無を言わせぬ目で凛香を見上げ、そしてゆっくりと瑛子に視線を移す。



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